同調圧力とカミナリさま
多くの人が日本には「同調圧力」があると言うのをよく耳にします。それは正しい。わたしもそう思います。でも、それを批判的に捉える人の多くは、同調圧力は人間の住むいかなる社会にも存在するものだというこにあまり注意を向けようとしません。わたしたちはどうしたって自分ひとりで生活しているわけではなく、むしろいい意味でも悪い意味でも人との交流を好んで人生を過ごしています。するとそこにはお互いの意図が働き自然にルールであったり好き嫌いが育まれていきます。
外的要因に影響されない個はいない
どっかの学者が言っていたのだけど、ある国では離婚率が低く夫婦仲がものすごくよいんだそうです。その原因を調べると、その国では夫婦が仲良くあるということが社会的な美徳になっていたんだそう。だから、夫婦は一生懸命に仲を良くしようと努力する。多少のトラブルがあっても諦めずに二人で乗り越えようという意識が働く。もともと意見の異なる二人の人間がお互いに妥協しあい努力を重ねるのだから結果的に夫婦仲は良くなっていくんです。離婚率が3割もある国に住むわれわれからすると、とっても素敵な社会に見えたりもする。でも誤解を恐れずに言えば、これも暗黙的な同調圧力です。それが好意的であれ、悪意的であれ、目に見えるものであれ、目に見えないものであれ、外的な要因にわたしたち個が全く影響しないことなどありえないのです。
だとするなら、同調圧力には「意味のある」ものと、「意味のない」ものがあるのではないか。なるほど、すると日本にあるのは意味のない不毛なものだと主張したくなるかもしれません。結論を急ぐ前に、こんな話を聞いてください。
カミナリが鳴るとヘソを取られる話
昔よくおばあちゃんちであったんですが、雷が鳴ると決まって「ヘソを取られるから隠せ!」って言うんです(笑)わたしが意味わからずぽかーんとしていると、雷雲に乗ったカミナリ鬼が来て子供のおヘソを取って行ってしまうんだと、おばあちゃんは説明してくれました。鬼なんているかわからないし、そもそもヘソ取られたところで別に不便ないし、、、などと心の中で思ったりしたものです(ひねくれているw)。これはつまり方便なわけです。雷が鳴った後は冷たい空気が流れ込んでくるので決まって外気温が急激に下がります。そういった先人たちの経験的な知恵を鬼の逸話にしたわけです。そこには、そのままお腹を出して寝てしまう子どもたちのお腹が冷えないようにという意図が働いているわけです。
この方便をひとつの同調圧力だと仮定してみてください。この同調圧力は「意味のある」ものでしょうか?「意味のない」ものでしょうか?その根拠を知れば、子どもたちの体調管理を便宜的に徹底させるために作った意味のある方便だったと言えると思います。(今の御時世そもそも空調管理が徹底されているのでお腹が冷えることなんてないのかもしれませんが。。。)
ここで問題にしたいのは、その本質的な意図がわからない子どもたちにとって、意味があるかどうか「知りようがない」というところです。つまり、立場や経験則の違いによって、同調圧力の意味が見える人もいれば、見えない人もいる、ということです。
カミナリ様の本質が見える人と見えない人
更に、多くの問題はその本質的な根拠がわからない人たちの中で起こります。どんな問題が起こり得るのか。問題はふたつ考えられます。ひとつは「鬼なんていねーよ!」と言ってヘソを隠すというルールそのものを破壊してしまうこと。これによって子どもたちが自主的にお腹を温めるという体調管理法は失われてしまいます。先進的な考えを主張する人たちのなかで多く起こります。
もうひとつは、ルールそのものに固執してしまうこと。「おヘソ隠せばそれでいい!!」といって、絆創膏を貼っておけばいいなんてルールに変わったらそれはそれで本末転倒です。絆創膏ではお腹は温まらないからです。それこそなんの意味もない労力を強いられたうえに、体調管理をするという本質も失われます。これは、伝統や風習に固執した保守的な考えを持った人たちのなかで多く起こります。
つまり同調圧力は不当だ、害悪だと主張する人たちの多くは、そのルーツがどこからもたらされているのかを知った上で否定をする必要があるということです。そうでなければ、本質的な意義そのものが失われてしまう可能性があります。そしてもちろん、すでにそのルーツそのものが破壊されてしまっているものもあります。いつのまにか、知らないうちにおヘソに絆創膏をはらされているわけです。体調管理に当たる本質の部分はどこで、形骸化した絆創膏にあたる部分はどこなのか?その判断には複眼的でとても広い視野が必要なので、多くの異文化を経験し、社会の秩序を学び、また人間の心理を熟知した知見からしか生まれないのではないかと思うのです。
ニュートラルな軸を持つこと
同調圧力というのは、実は非常に身近な問題でありながら、その本質が見えにくい問題でもあります。わたしたちは社会の常識という「あたりまえ」の感覚なかで生まれてからずっと色眼鏡をかけて過ごしているのですから、今見えている世界が自然本来の色なのか、色眼鏡の色なのかわからなくなってしまっているのです。
だから、同調圧力を批難する以前に、わたしたちは今暮らしている社会のあらゆる常識からいったん身を引いて、ニュートラルな軸を持つこと、つまり色眼鏡を外すことが大事なのではないか。そんな風にわたしは思っています。
あなたが思う「好き」は、ほんとうに「あなたの好き」ですか?
「自分は絵を描くのが好きだから絵を描いていたい」こんなあたりまえの願いでさえ、それは今あなたが「芸術が評価される社会」に住んでいるからこそ、そのような願いに到達したのかもしれません。サッカー選手になりたい、教えることが好き、誰かを癒やしたい、物を書いていたい、それは本当にあなたですか。
あなたとあなたのお父さんが仲がよいのは自分の意志ですか?わたしが小さい頃は両親とベタベタするのはなんだか子供じみていて気恥ずかしかったものです。でも、気恥ずかしいという意識自体がわたしの意思ではなく、社会の同調意識だったかもしれません。逆に仲がよいことも同調意識からきているかもしれません。
ありのままの自分とは
近年、社会のしがらみなど気にせずありのままの自分でいることをモットーにする人が多いように思います。それはとても素晴らしいことですが、ありのままの自分とはなんでしょう。社会の外的要因からまったく影響を受けない個などありえないのだから「好きなように絵を描いていたい」それは本当にありのままのあなたですか。ありのままの自分、こうありたいと願う自分というビジョンですら、その社会からもたらされる外的な要因に少なからず影響されていて、無意識のうちの中で生まれた瞬間から作り上げられたものだということを知らなければなりません。
だからこそ、自分の趣味趣向や好き嫌いからすらも離れ、何者にも影響されないニュートラルな軸を持った上で、あらためてありのままとはなんだろうという問いを自分に投げかけてほしいのです。
その答えこそが同調圧力に対しての正しいアプローチになるはずです。
社会を変えたければ
今いる苦難や逆境を乗り越えるために、「自分にできることをしよう!」というメッセージが世の中に溢れています。でも、「自分にできること」というのは実に狭い視点です。なぜなら自分が理解できる範疇において「カミナリ様」を判断してしまうことになるからです。その根拠を知らずに「カミナリ様」だけを批難してしまうと、より深い本質的な問題を無視してしまうことになるでしょうし、「目先のできること」に集中すると、意味もないヘソに絆創膏を貼るというバカげた行動が社会に蔓延することになるでしょう。今、社会で起きている多くの問題は、このような無知からくる行動によるものがとても多いように思います。
もし本当に社会を変えたいと願うのなら、最も大事なことはまずは外的要因にまったく影響を受けない個などいないという事実を受け入れること。そのうえでニュートラルな軸を持つよう心がけることです。もちろん、それでも何者にも影響を受けないことなど不可能ですが、少なくともニュートラルな視点を心がけることで、自分の趣向が何に影響されているのかを知るきっかけにはなるでしょう。
そして多くの場合、わたしたちが「常識」だと思っている行動を「しない」ことです。あたりまえだと思っている行動をどれだけ積み重ねたり否定したところで社会は変わりません。あなたの軸は「常識」に偏っているからです。ニュートラルな視点をもって、あたりまえを「しない」という行動を選択したときに、はじめて社会はありのままに変わってゆくのです。
りなる