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嫌いが増えると自由が減る

わたしにはあんまり嫌いな人っていない。でも、苦手な人はたまにいます。

さっきYouTubeで、苦手な人と嫌いな人の違いってなに?それ嫌いって正直に言ったほうが、自分に正直になれるんじゃないの?みたいなことが話されていた。

心屋仁之助さんのポッドキャスト。おもしろい。

なるほど、ちょっと考えてみたけど、、、たしかに苦手と、嫌いの違いはなんだろう?

ポッドキャスト聞きながら「嫌い」についてnoteを書き始める。。。

答えは出ないかもしれない。

苦手・嫌いは程度の違い?

嫌いを苦手という言葉でオブラートに包んでいるのかも知れない。

憎悪の感情があって、誰かを陥れたいとか仕返しをしたいとか、そこまで過激なことは思ってない。そんな宿敵は人生にそうそう現れない。。。嫌いってそんな憎悪の感情。

だとすると、ちょっと話が合わなかったり、いいとこ持っていかれてモヤっとしたりするほどのことを単に苦手だと言っているんだろうか。

程度の違いということなのだろうか?

好きな人 < いい人 < 苦手な人 < 嫌いな人

好きの反対

そもそも好きの反対は嫌いなのか。好きに対して苦手と嫌いは同じベクトルを向いているのか?

むかし、好きの反対は嫌いじゃないんですよ?って話をしてくれた人がいる。

好きの反対は無関心

好きっていうのは、その人に感心を持っているってこと。もう気になって気になって仕方がないってこと。

嫌いな人ってのも、ある意味気になって意識から離れない人。だから、嫌いは好きの裏返しだったりすることがあるんですって。

ほんとうに好きじゃない人は、ただのどうでもいい人。

無関心な人。苦手は無関心に少し近いのかも?

苦手からくる正義感もある

こんなに頑張っているのに、あいつだけ遊んでて卑怯だ。

わたしはこんなに我慢して一生懸命つくしているのに、あなたばっかり好き勝手して許せない!

まぢでありえない。

本当は正義感ではなくて、嫉妬の裏返しだったりもする。ほんとは自分もそうしたい(でもできない)。自分が人の目を気にしたり苦手意識があってできないことを何事もなくやってのける友人はときとして卑怯に見えるもの。

前に誰かが、こんな風に諭してくれたことがあります。

やれ常識だとか、正義感だとかは集団行動のなかでは確かに大切なこと。だけれども、

人を責めるって、自分の可能性を狭めることですよ?

はじめは意味がわからなかったけど、ほんの些細な事件が起こって、すぐに思い知ることになった。

なんだったか詳しいことは覚えていないから、例え話をしますが、

文化祭で一生懸命がんばって準備をしているのに、無神経にコンビニにいってサボってる友人に、クラスがこんなに頑張ってんのに何考えてんだよ??って、イラッとして怒鳴ってしまった。

するとね、ほんとは自分もちょこっとくらいサボってワイワイ楽しみたかったんだよ。でもさ、サボるのは悪いことだ!って、クラスで宣言してしまったことで、その文化祭では絶対サボれなくなった。そういう環境を自ら作ってしまったんです。

他人を責めるっていうのは、諸刃の剣で自分自身の行動を制限することにもなるってこと。

こういうのは、自分の中にある苦手意識を相手への嫌悪感と履き違えてしまってることが多い。

嫌いになると不自由になる

だからね、人はなるべく嫌いにならないほうがいいと思うんです。

苦手だなーくらいにとどめておく。で、できたら無関心でいればいい。

好きの反対は無関心だから。

無関心でいられないのは、自分の心に妬みや苦手意識の感情があるから。

そういうときは、責めたりしないほうがいい。

嫌いな人を責めることは、自分の自由を奪うことでしかないから。

嫌いな人が多い人って真面目すぎるんだよ。

結果自分に厳しくなって息苦しいはず。

いっしょになってサボったらいいじゃんとは言ってない。真面目に真剣に生きることはいいことだ。だけど、他人を責めることと自分が真面目に生きることに関連は全くない。

自分は決してサボらない性格だったとしても、サボる人を許せれば、ついサボりたくなった未来の自分を許してあげれる。

その可能性を自ら狭めないでほしい。

りなる


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