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自然 ‐ ジネン

日本では自然のことを「ジネン」と呼んだのだそうです。

ジネンというのは作為のないありのままのあり様を表していて、自らをも内包する観念です。その一方で、一般的に自然(しぜん)とは、人間の対比として、あらゆる人工物を「除いたもの」をそう呼びますね。これはNatureを語源とする外来語だと言う人もあるようです。

例えば、ハイキングや山登りなど、自然を楽しむアクティビティにはどこか人間にはない自分の外側にある魅力に触れようとする意識であるように思います。これは人間と自然を分離したNatureの感覚ですね。

一方で、静かな森のなかどこからともなく聞こえてくるキツツキの木を打つ音に心が奪われたり、真夏の暑い日にけたたましくなく蝉の声に聴覚がすべて奪われそこに溶け込んでしまうような感覚を味わったり、夕暮れ時に遠くで鳴くカラスの哀愁とともに赤い夕陽の中に自ら染まってゆく体験をされたことがある人はいるでしょう?日本人は特に自然物の音を言語野で聞くなんて昔からよく言われたりもするので、そのような感覚に陥りやすいのかもしれません。これがきっと「ジネン」の感覚ではないかと思います。

これはなにも偉大な自然の中にだけ見出される感覚ではありません。日常の中にもあるものです。無心に皿洗いをしているとき、掃除をしているとき、洗いたてのシーツを敷いている瞬間、お皿と雑巾とシーツとわたしと、、、没頭するほどにその境界はあいまいなものになります。

また、こんなことを考えたことがあるでしょうか?食物の乗ったまるい板がテーブルに置かれているのを見て、わたしたちはそれが「お皿」だと認識することができます。竹の筒でも、バナナの葉でもそう認識するかもしれません。でもどうでしょう?猫にとって、野生のクマにとって、あるいは虫にとって、それは単なる丸い木切れや端切としてしか認識されないのではないでしょうか。お皿の本質が必ずしもお皿ではないからです。

お皿はなぜお皿でありえるのか?そうです。答えは簡単です。「わたしがお皿だと認識しているから」です。お皿はそれをお皿だと認識してくれる者、意味付けをする者がいてはじめてお皿でありえます。あらゆる存在にはそれを存在せしめる「意味の場」が必ずあります。突き詰めてゆくと、これは世の中にあるすべてのものに言えます。あなた自身ですら、あなたをあなただと認識する者がいてはじめてあなたでありえるのです。

そのように考えると、世の中には「それそのもの」で独立分離して存在できるものなどありません。想像してみてください。「美」そのもので美を認識することができるでしょうか?「美しくない」もので「ない」ものにたいして美しいという意味を与えているのです。そうしてはじめて「美」を認知するのです。仮にそれそのもので存在するものがあったとして(それを存在していると言えるのかはわかりませんが)、それはわれわれにとって認知すらできない非知のなにかです。存在は意味の場にしか現れませんから。だから存在には必ず先に意味を持つ言葉があります。名が与えられます。

つまり、存在するとは、本質的にそれ自体が独立分離して起こるものではありません。するとそこにお互いの認知の環のなかに内包されるジネンの感覚が生まれてきます。自然ですらそこに意味を見出す「わたし」がいなければならないからです。ジネンとは、自然のなかに認識する者の環をも内包する形而上的な感覚の現れです。

ただもう気付いたかもしれませんが、このジネンもまた矛盾を内包しています。ジネンもそれそのもので認知されえないからです。ジネンとはそれを認識する者をも含んだ「それそのものを示唆する」言葉です。ところが原理的にそれそのものをそれそのものとして認識することはわたちたちにはできません。それは非知のなにかですが、そこに名を与えた瞬間にそれはそれそのものでなくなってしまうのです。

さて、わたしたちは生きる意味や存在の意味などをよくよく考察する生き物です。ところが究極的にはみなこのジネンの中に内包された非知の場に集約されていくことになるようにわたしは思います。これはとても面白い言葉だと思うのです。わたしたちがどれだけ言葉に執心し知識を得たとしても、それは求める答えの一歩手前の門前までしか連れて行ってはくれない。イマココは言語の届かないジネンの環のただなかにありのままある。ジネンという言葉はそのような感覚や示唆を呼び起こしてくれるように思います。

りなる



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