言葉はひとを殺し、想いがいのちを救う
よくわからないタイトルになってしまいましたが、軍事について前からnoteしたかったテーマです。
増え続ける国防費
国防費は年々増加し、世界で軍備に費やされる費用は200兆円/年だそうです。ちなみに、以前このネタを調べていた2006年当時は128兆円でした。
地球の全人口がひとり毎年2.6万円負担しているような規模感です。逆に、わかりにくいですかねw 2.6万っていうと割と少ないなと感じたり、0歳から80歳まで生きるとして一生涯で200万負担していると考えると多いような気もしたり。これが多いと感じるか、少ないなと感じるかは人それぞれなのかもしれません。
日本の国防費
日本はというと軍縮が叫ばれていた冷戦後も増え続け、2000年前後までは米国に次ぐ世界第2位の国防費を持っていました。いまも微増傾向にあり5兆円くらい。近年は相次ぐテロや急成長する中国やインドの脅威などにより世界的に軍備は増加していて、2019年時点で日本は9位。内訳をみると米国と中国だけで世界全体で費やされている国防費の半分を占めていて、4位から10位まではだいたい横並び。いずれにしても日本は10強にランクインする軍事大国といってもおかしくないんじゃないかなんて思ったりします。
下図は国防費の上位15カ国をグラフにしたもの。(2019年 SIPRI調べ)
非戦と武装の国
非戦を謳う日本が世界第9位の軍事大国というのに違和感を感じた方も多いかも知れません。そもそも現代の国際社会において侵略戦争がゆるされた国などもうないのだから、全ての軍隊は国防軍です。すると軍隊と自衛隊の本質的な違いなどないのではないかとすら思ってしまいます。
調べてみると、必ずしもこの「費用だけを見て軍事大国とは言えない」らしいんです。つまり、何をもって軍事力というかが問題になるとのこと。例えば、軍事力を兵士の数で見た場合、中国は兵器の近代化により兵士数が削減されたにも関わらず陸軍兵士は98万人(2017年には140万人と言われてました)。対して日本の陸上自衛官は15万人ほどなので、全然少ない。
また、経済的観点から見ても日本の国防費の占める割合は決して高くない。日本はGDP比を強く意識していて、国防にかける費用はGDPの1%程度でずっと推移。世界平均が3.5%そこそこのようですから、日本の水準はだいぶ低い。加えて、日本の場合は人件費が高くつき、兵器自体にかける分はそれほど高くないなんて話もあるようです。
「軍事大国というにはかなり語弊がある」ということらしい。まぁ、5兆円の規模であるという事実は変わらないので、それに軍事大国というラベルがつくかつかないかはどっちでもいいんですけども。
で、日本は軍事大国なの?
色んな視点があるのは良いことだと思いますが、ネット上の見解は何を主張したかったんだろう?国防費がどれだけかかっていようと「軍事大国ではないのだからいいんだ」ということなのだろうか?
調べていて強く感じたのは、兵力の数がどうだ、金額がどうだ、GDP比がどうだ、または倫理がどうで、歴史的にはこう考えられる、日本人が作った憲法じゃないから、誰が何を発言して責任は誰にあるのだなど。。。とにかく色んな見識があって、それぞれの知識にしのぎを削り合っている。
自分はどうありたいのか?
ところが、自分たちはどういう国に住みたいのか?これを宣言するものはとても少ない。知識はいくらでも発掘できますが、思想のない知識は言葉のマジックでいかようにも変容します。
現実はわたしたちの想いによって創造されるのです。
結局のところ、わたしたちは戦争をどこかで容認しているのかもしれません。または前例に従うことに居心地のよさを覚えてしまっているのかもしれません。戦争は悲惨で原爆は悪だと批判する一方で、愛する家族も守れずに何が国家経営だと主張するのです。
でもね、"敵国" はゲームやドラマのように明確な悪意を持っているわけではなく、彼らも一方で家族を守ろうとしているだけの善良な市民であるということに目をつぶっています。問題の解決に暴力を行使することは、力の強いものが勝つだけの原始的な手段でしかなく、善良な市民の殺し合いであるということに素直に目を向けるなら自己防衛という言葉すら、もはや屁理屈でしかありません。そうやって、未来の子供たちに平和をと宣言しつつ、同時に平和憲法など非現実的だと主張するのです。
ルドルフ・ランメル氏(政治学者)によれば、この100年間に先の国家によって殺された約2億人のうち2/3近い約1.3億人は「自国の軍隊」によって殺されていると指摘されたりもしています。軍隊は国家を守るためのものであって、必ずしも「国民」を守ってくれるものではないということです。わたしはこの数字にかなり驚いたのですが、こうなってくると自己防衛という前提すら怪しくなってくる。わたしたちはこの数字から何かを学び取る必要があります。
ひとり200兆円をかけて人を殺す支度をしている。それもまたひとつの現実です。やらなければやられるぞという恐怖にふりまわされているのです。「その抑止こそが現実的で最も費用対効果の高い平和だ」という主張もありますが、ほんとうにそうでしょうか?費用は回収できても、使われた頭脳や時間、そして失われた命は戻ってきません。人間のもっている不可逆な資産をコスト換算することがそもそもナンセンスです。
見ている世界は現実的か?
話は少し横道にそれますが、アナン元国連事務総長によると900万弱の人が毎年飢死しています。WFP(世界食糧計画)によると、飢餓に苦しむ人への食糧支援は1人当たり7,200円/年。つまり、世界中から餓死する人を救うのに必要な費用はざっと650億円ということになります。世界の総国防費と比べたら0.03%程度。この数に更に飢餓に苦しみ生命の危険にさらされている人々の数も加えると8億人といわれています。同様の食料支援をするなら5.7兆円(世界の国防費の3~4%)かかる計算になります。
たったそれだけの支援ができずに8億人の人が死にかけているというのに、人類は未だにその何十倍もの時間と労力をかけて大量殺戮兵器を生み出し続けています。この矛盾はどう説明できるのでしょう。それでもこの世界の方がより現実的だと言うのです。
とは言え、これも言葉遊びでしかありません。どこまでいっても、それを容認しているわたしたちが今の現実を作っているのです。
ただ、いまだからこそ考えてみてもほしいと思うのです。世界の餓死者を救うのには1兆円もかからないんです。それだけ経済格差が広がっているということの裏返しでもありますが、これを前向きに捉えることができるなら、日本一国だけでもどうにかなる規模感です。貧困を根絶するのにも5.7兆円しかかかりません。日本の国防費を全額つぎ込めばこれすらなんとかなりそうな数字です。
他国に攻め込まれるからと、せっせと大量殺戮兵器を購入し、自分たちが生き残るために他国の人間を殺す準備をすることが果たして文明的なのか?そもそも「自分たち」って誰を指した言葉なんだろう?狭義では国家と国民の示すところも違うし、より大きな視点でみれば住む地域の違うだけの同じ人です。そのカテゴライズはわたしたちが本当に住みたい国のカタチなのか?5兆円を相対的平和といって抑止のために使うのか、世界の貧困の根絶のために積極的平和を求める行動に使うのか、どの世界がより自分の望む世界なのかをぜひ考えてみてほしい。
自分たちはどういう国に住みたいのか?
その想いは日本だけではなく、世界のありかたを大きく左右するのだと思うのです。
りなる