焚き火まったりトーク - 市場価値と社会価値
農家さんとこにちょっとお手伝いに行ってきた。(インドア派のわたしはほとんど戦力になってないのだケド。。。)
わたしはいまフリーで自由な時間があってよくよく思うのだけど、人助けって暇じゃないとできない。レスキュー隊員が通常業務でいっぱいだったらいざというときに誰が出動できるというのだろう。待機やゆとりは構造上の必要な要素なんだ。趣味はもちろん、勉強だって訓練だってそれがなきゃできない。暇な時間をつくれることがもう社会や組織への貢献なのかもしれない。暇って芸術ですよね、なんて農家さんに力説された。そう。芸術なのかもしれないw
毎日の時間をお金稼ぎに消費して、余った時間すらSNSで消費して、時間消費するためだけに情報機器や通信にお金をつぎこむ。余暇ができたと思えばレジャーや装飾品に散財し時間を埋めようとする。そのためにまた月曜からオフィスに通い詰めるんだよね。目先の映える生活に利用料を払い続けているようにもみえる。これは労働と常に抱き合わせなんだ。もはやこの際限ないループこそ芸術的。
満月の夜に秋の虫の鳴き声に耳を澄ませ、ぼーっと頭を空っぽにする。都市にいると街頭が眩しすぎて満月の明るさを忘れてしまう。子供の頃、布団はいつも南の窓際に敷いていた。カーテンの隙間から月光を浴び、月のない日には星を眺めながら寝るのが好きだった。そんなことわすれてしまっているかもしれないけど、月光浴って気持ちいいんだよ。
満月の光を浴びながら、眠くなるまで何もせずみんなでただ火を囲んだ。
人とののつながりとか採用とか
翌日の午後、農家のオーナーさんの真仁(仮名)さんとスキマ時間ができて2時間くらい話しこんだ。
真仁さんはいろいろ頑張ってて、自然と調和するためのサステナブルな農業ってなんだろうだとか、毎日重労働をしながら頭を悩ませていたりする。うちで一緒に働いてくれる人を探していて、もっと多くの人と繋がりたいんだけど、すぐに辞めてしまったり別の場所に移動してしまったり、自分には彼ら彼女らの適材適所を見極められない、人を見る才覚がないんだとなげいていた。
人の能力や適材適所を見極める才覚、それっていったいなんだろう?わたしは純粋に疑問をぶつけてみた。人との「つながり」を結びたいとか、自然と人との共生を目指す「仲間」とつながりたい、とおっしゃるけれども、あなたは労働力として効率的に働いてくれる人材を探しているのか、それともずっといっしょにつながる仲間を探しているのか?
もちろん真仁さんの答えは後者なのだけれど、せっかく働いてくれるならしっかり吸収してくれる人がいいし、適所をみつけてそれを楽しんでもらえたならなおいい。更に習得した技術がいつか他の農家でも活かせたなら働いてくれる彼らにとってもいいだろうという思いが顔をのぞかせる。ビジネスでいうところのキャリアパスを見据えた人材の育成と人材の流動性を高めるといった話に似ている。元サラリーマンの彼なりの心遣いと優しさからくるのだろう。それでもこういうお互いにとって心地よくいられる「いい人」はなかなか見つからない。
それはなぜだろう。。。注意しないといけないのは、ここで言う「いい人」の文脈はそれ自体が市場価値によって人材を見ているということの現れでもあることに彼は気づいていない。「才覚を見極めたい」とか「お互いに高め合う」とか「納得感をもって」なんて言葉も危うい。そこには暗黙的に「期限付き」の能力の習得と評価がついてまわっている。言葉としては「仲間を募る」という表現はしているものの、人を市場価値の目線で見ているんだ。わたしたちの多くは市場による価値評価にずいぶんと浸りすぎていてそのことに気づけない。この違い、みなさんにはわかるでしょ?
だって仲間というのはそういうものではないよね。才能なんてなくったって、一緒にいることに価値を見いだせる存在のことだから。もちろん技能は習得してほしい。でもそれは「いつ」までに「どこまで」なんて指標はなくていいし、更につぶしの効く技術こそ不要なんだよ。うちで「だけ」使える技能であって当然よい。だって仲間内の活動なのだから。例えばどんなに絵が下手な人でも、”この看板” の ”このロゴ” だけをひたすら20年書き続けたら、大抵の人は達人になるもんだよ。するとね、考えてみてよ、それはいつ開花するかもわからない花を育てるのに似ている。「ずっとうちにいてよ」って言える仲間の才能が5年後に開花しようと、20年後に開花しようと構わないんだ。終身雇用とか徒弟制度だって、よくよく考えれば、そういう側面をのこした人とのつながりをしくみ化したものだよね。でもだからこそ、そうやって彼/彼女らはかえって「達人」になる。
真仁さんはそれを聞いて、そうか人とのつながりとか言ってる自分自身が、まだ「市場価値の基準で生きていた」のかと改めて目が覚めたとおっしゃっていた。同時につかえがとれて気持ちが軽くなったと。ははは。暇人の小話が彼らのような必要不可欠な仕事人の不安を取り除けたならよかったw
市場価値と社会価値
何度も言うけど、人間関係っていうのは、何かをしてあげた・してもらったという「不等価」のやりとりによって永続する。これは「贈与」の関係と言い換えてもいい。人はしてもらった恩義をそのままにしておくのが気持ち悪いからと、お返しをしたくなる生き物なのだ。お返しされたほうもまた恩を感じてまたそれを返そうと、、、関係は永続していく。
反対に、対価が「等価」になると関係はその場で精算されてしまう。これは人間関係でも同じ。成果に対して「等価の対価」を支払った瞬間に、後腐れなく取引が終了する。このタイミングで人間関係もたいてい一緒に精算されてしまう。これは「精算」による関係と言い換えてもいい。
「不等価交換」によってつながる関係の場をコミュニティーと呼び、「等価交換」によってつながる関係の場をマーケットと呼ぶ。するとつまり、「コミュニティー」と「マーケット」は反対語なのだ。この贈与と精算の関係を意識することは、これから先、生きていくうえで重要な道標になるとわたしは思っています。
世代を等価価値でみる人々
最近の若者はかわいそうだという話にもなった。確かにすべてをもって生まれて、この先先細っていく未来に希望が持てず失い続ける人生は辛いだろうと思う。使い潰された環境だけが遺され、使い潰した張本人は資源が枯渇するころにはもうこの世にいない。そんなことから、いま高齢者は勝ち逃げ世代などと揶揄されたりもする。
だけどね、わたしは思う。その考えは分断を生むだけだと。
これも世代間にある人生観を等価であるべきとみなすからこそ起こる感覚なのだ。そうやって不幸をマネタイズしようとする。これもマーケットだ。環境を使い潰した世代がその責任を負うべきだとか、我々が被った不幸分の損失は誰かが精算しなければならない、と考えてしまう。でもね、もともと自然の営みには等価交換などという都合のよい取引など存在しない。これは概念のなかだけに存在する人間の発明なのだ。
想像してみよう。もっと話を聞いてみてほしい。勝ち逃げ世代がどんな暮らしをしていたかを。戦後なにもない時代に生きるか死ぬかの生活をしていて、生活保障なんてなくて、そこから踏ん張ってここまで豊かな社会を築き上げてきた世代でもある。環境破壊を望んだわけじゃない。良かれと思って頑張ってきただけなのだ。それでいて老害と言われ、勝ち逃げだと揶揄され、いま高齢者と話すとたいてい若者に迷惑かけないようにぽっくり死にたいなんてことをいう。
ではその中間にいる層はどうだろう。彼らはロスジェネなどとよばれる。就職氷河期に非正規雇用として雇われて、5年後には正社員にしてあげるからと甘い言葉で使い潰されてきた。。。5年後、10年後にちょっと経済が上向きになったとき、30代になった彼らを実際に正規社員として雇ってくれる企業はなかった。みんな若い新卒世代に持っていかれたから。気づけば非正規のままアラフィフになってしまった。いま彼らと話すと、上にはまだ既得権益層が鎮座していて膨大な実務だけが降りてくる。若い世代からは席を奪われたうえに責任追及される板挟みだ。彼らには今のような自由な選択肢がなかった。ほんとに割りを食ってるのは自分たちだと、それすらも言い出せずにいる。
すべての世代に光と影がある。高齢者には勝ち続ける夢があった。ロスジェネはその古き夢の時代と現代の利便性両方の旨味を知る最後の世代でもある。若者は生まれたときからあらゆる権利を手にしていて選べる自由の世代でもある。それぞれの世代で持っているものが違うだけなのだ。その価値を等価で語ろうとすることがナンセンスなのだ。
大切なのはすべては不等価に存在しているという感覚だ。その不等価を解消できるのは責任を追求すべき「誰か」ではなくて「あなた」自身しかいないのだから。お互いの持っていないものを贈与する。そうすることで世代間の摩擦ははじめて解消される。
眼の前の活動にたいしての洞察力
この話をすると、なにがコミュニティー的で、なにがマーケット的なのか、すぐに答えを決めつけたくなるかもしれない。
でも、お金の支払いがすべてダメだとか、支払いがあるものはすべてマーケット的だという「型」にはめようとしないことだ。また、マーケット的なものがすべてダメだというのも違うだろう。例えば、タクシーに乗るのにタクシードライバーと仲間になって贈与の関係性を築かないと乗れないんじゃ不便で仕方がない。これはマーケットの関係性のなかで正しく精算されてこそ成り立つサービスだ。一方で、お金のやり取りすべてがマーケット的に機能するわけでもない。例えば、お年玉を考えてみる。お年玉ってなにかの成果に対して支払われるものじゃなく、これ自体が世代を超えた贈与の関係性を築いているよね。お金を使わなければいいという単純な型にもはめないことだ。ありがとうチケットをつくって日頃の感謝の気持ちをお金ではないしくみによって表現しようとした企業の例を考えてみる。これは当初はうまくいって家族や友達のような関係性を築くのに役立ったのだけれど、それをより実効性のあるものにしようと人事評価に組み込んだ瞬間に破綻した。これを読んだみなさんならすぐにわかると思うけど、この瞬間「ありがとう」が金券化したからだよね。
つまり、眼の前の活動が「マーケット的」であるのか「コミュニティー的」であるのかを改めて見極める洞察力が大切だということ。その上で、マーケット的な関係を残すべきは残せばよいし、何かしらの交流をする際にそれをコミュニティー的に機能させたいのであれば、よくよくそれが等価交換に陥らないしくみを志すべきだろう。
さて、そのような視点が育まれるようになれば、サステナビリティーという言葉の本質は永続性にあるのだから、マーケット的な場では実現困難だと簡単に意識することができるようになる。仲間といいつつ人材を募っている矛盾を意識できるようになる。世代間で無意味に分断を招く必要すらないことがわかるようになる。眼の前のモノやコトが、マーケット的なのか、コミュニティー的なのか(= 贈与なのか、清算なのか)の二軸に意識を払うことは、この先の複雑な社会をシンプルに生きやすくする指標だとわたしは思います。
焚き火をした日、そしてその翌日の昼下がり、そんな話をした記録。
りなる
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