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「豊かさ」を考える

そうそう、こないだね豊かな生活みたいな文脈で人と話していたのだけれども、どうもね、話が見えてこなくって、しばらくして気付いた。「豊かさ」についての定義が違うんじゃないかと思い至った。

みんなは「豊かさ」と言ういうとき、どんな考察をしているのだろう。あまり考察せずにこの言葉を使っているでしょうか。今日は、いっしょに考えてみてほしい。

豊かさは「潤沢」さからくる

結論から言ってしまうと、わたしは豊かさとは、潤沢さによって生まれると思っています。これは以前誰か(誰だったか忘れてしまった)が言っていたのを聞いて、なるほどなと腑に落ちたことがきっかけでそう思うようになりました。

物質的なものだけではなないと思うけど、わかりやすく「水」を例にあげてみる。特に日本では蛇口をひねれば飲める水がじゃぶじゃぶでてきますよね。誰でも好きなだけ水を水道からいつでもどこでも手に入れることができます。厳密には水道代はかかっているけれど、水に対して見返りを求める人って日本ではそういませんよね。すべての人に水が行き渡って(むしろ捨てるほど)ある。これが豊かさの源泉です。そんな風に思うのです。

別にタダである必要はないんですが、みんなが自由に手に入れられて、潤沢に利用できるものって世の中にどれだけあるだろう?

「分配」が豊かさを生むわけじゃない

反対によく聞くのが、社会全体が豊かになるには、豊かさがすべてのひとに行き渡るように分配すればよいと言ったことを言う人がいる。これは確かに平等な社会をつくるという意味では正しいのだけれど、上述の定義からくる「豊かさ」とは、ちょっと違う。

この背景には持つものが持たざるものにほどこしをするといった構図がある。ノブリス・オブリージュのような美徳が重んじられた西洋ではこのような動機によって「豊かさ」が実現できた時代もあったのかもしれないけど。いずれにせよ、特に日本で「分配」によって豊かさを表現しようとするなら、より大きな権力によって平等の名のもとに再分配を行う制度設計の元にしか実現しないのではないだろうか。

イノベーションとトリクルダウン

今日、多くのひとは少数によるイノベーションを欲していて、天才的な才覚によって社会が切り開かれていく(あるいはそうであるべき)と考えている人が多い。そのためには、インセンティブとして彼らにはより多くの報奨をあたえ、より大きな資本が流れ、より大きな規模で社会は切り開かれていく。

そこで得られた「豊かさ」が、社会全体に再分配されていく、またはトリクルダウンなんて言葉を使う人もいる。豊かさとは少数の上層から、底辺に向かって流れていくという考えだ。

多くの人が考える「豊かさ」のモデル

ここにわたしは違和感を覚える。

最低限の底上げこそ社会の豊かさを生むんじゃないか

上述した「潤沢さが豊かさを生む」というのはトップのおこぼれから与えられるものじゃない。いや、その出発点がおこぼれであってもいいのだけれども、大事なのは結果として「潤沢さの増大」につながらなければ本質的な豊かさは生まれないということ。「誰でも使える」とか「誰でも利用できる」という社会通念が常に先にくるということです。これを上述の図と比較するなら、社会の最低限を底上げするという表現になる。

本来の「豊かさ」のモデル

こういった社会通念が生まれてくると、おそらくわたしたちが普段考えているサービスだったり施設の在り方はだいぶ変わってくる。例えば、会社にあった備品なんかを例に上げてみる。わたしは以前ソフトウェア開発をする会社にいたけれど、ソフトウェア開発に必要な何万円もする開発ツールは社内では使いたい放題だった。いちいち上長に許可申請なんて必要すらなかった。そうやって自由に技術を学び先輩から新しい技を教えてもらったりするゆとりがあった。このゆとりこそが学びの意欲の源泉であり豊かさだとわたしは思う。

一方で、会社の社長しか使えないプライベートジェットなど本質的な豊かさには貢献しない。インセンティブだといって高額報酬を与えることも不毛だってことにたぶん薄々みんな気づいてますよね。。。リサーチ結果をもとにだいぶ前から言われるようになったけど、幸福度って年収1000万だか2000万を堺に下がっていくらしい。「持つもの」は、遅かれ早かれそれを「失う」ことに不安を抱くようになるものだから。つまり、こういったトップが潤えばよいという考えは格差を生むだけなのだ。つまり、問題は格差そのものにあるのではなく、その結果として「潤沢さ」を生まない構造にある。

社会の潤沢さを考える

結局のところ「持つもの」にとっても「持たざるもの」にとっても、最低限が保証されるってことのほうが圧倒的に心的安心を生むのだと、わたしは思います。

社会の中でイノベーティブな開拓にばかり目を向けるのじゃなくって、みんなが潤沢に使える設備をもっと増やしていこう。そういうサービスの在り方を模索しよう。そう考えるほうがよっぽど理にかなっているんだよね。そう考えるだけで、通信設備やら交通機関の考え方も全く変わってくる。潤沢に使えるものが水道やガスや電気だけでなく、それが通信、交通機関などどんどん拡大していく社会だ。それでも最新のスマホが気になってしまうのは、潤沢さとはありふれた地味なものに見えるからだ。そんな時代にわれわれは住んでいる。

さて、冒頭の会話の違和感を「豊かさ」というワードを元に紐解いてみました。みなさんにもぜひ自分の考える「豊かさ」がどういった構造をもっていて、どういう「意味」で使っていたか考察してみてほしい。できれば、わたしのいう「潤沢さ」「最低限の底上げ」という視点で今の社会や、眼の前の仕事を見直したときに、どういう思考の変化が生まれるか試してみてほしい!

りなる



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