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歌壇賞と、父の失語症と

こんにちは。つくば現代短歌会の月島理華と申します。
画像は、一緒に住んでいる「しろたん」というキャラクターです。光ってくれます。

第三十六回歌壇賞

『歌壇』2025年2月号にて、第三十六回歌壇賞が発表されました。

受賞作/津島ひたちさん「風のたまり場」

あふれたい気持ちが見える縦長のグラスをのぼる炭酸水に

津島ひたち「風のたまり場」『歌壇』2025.2

ぱちぱちと浮かんでは消える炭酸水の泡の動きに意思を見出して「あふれたい気持ち」と読み解く感性がやさしかったです。「のぼる」という動詞を選ぶのもセンス無双という感じがします。
グラスが「縦長」なことで、同じ気持ちの大きさ=泡の動きであってもあふれやすいんじゃないでしょうか。逃げ場のなさや、視野が狭いがゆえの快さとかが伝わってくるような気持ちです。

次席/滝ノ瀬莉子さん「遺伝子を抱く」

指揮をふる和田先生の二拍子の曲だけ口をとがらせるくせ

滝ノ瀬莉子「遺伝子を抱く」『歌壇』2025.2

私は「和田先生」という先生に会ったことはないけど、きっとちょっと毛玉のついたニットのベストとか、かすれててかてかし始めているジャケットとか着てそうだな、と思って読みました。
なんでこんなことに気づけるんでしょうね。短歌をやっていると、「なんでそんなことに気づいて、31音にして他者に届けようと思えるんだろう」と思うような、ミクロな実景に出会うことがまばたきくらい頻繁にあります。

受賞作・次席作品を作られた方はどちらも、第3回U-25短歌選手権でも同じ誌面に載った方なので、一方的に同窓のような、嬉しくてむず痒いような気持ちです。おめでとうございます。

候補作/石井大成さん「雁と灯」

一頭の鯨が浮上するように事実は僕を訪ねつづける

石井大成「雁と灯」『歌壇』2025.2

鯨の生のてざわりを知っている人間はあまりいないけれど、体のどこかでみんな、鯨の感触を知っていると思うんです。浮上するときの頭がふっと軽くなるような感覚、水の表面が肌を通っていくときのざらつくような小さな不快とか。
「真実」でも「アイデア」でもなくて「事実」なところに、愚直なまでの誠実さを感じました。たぶん、この先「事実」を認識するたびに鯨のイメージが脳裏によぎるんだろうと思います。

「雁と灯」が、今回でいちばん好きな一連でした。こんなにすごい作品と並べて私の「ペルセウス」が掲載されていて、とても嬉しかったです。知り合いにたくさん言いました。

候補作/ヤスギマイさん「土と脊椎」

パエリヤの鍋を吊るして乾かせば鍋底は月の裏に似ている

ヤスギマイ「土と脊椎」『歌壇』2025.2

綺麗な景ではないのに、なぜか恍惚とするほどの美しさを宿した一首だと思いました。
パエリヤの鍋を「吊るして乾かす」のは完璧な洗いではなさそうで、残った油に行き止まって鈍く光る鍋底を、月の裏に見立てている。月の裏は地球にふつうに暮らしていたら見えないからこそ、少し現実を離れた詩情が出てキッチンに神聖な空気が流れるのかもしれません。
ひんやりとしていて、見立てに不思議な筋が通っているような主体の感性に、「孤高」という印象を受けました。

取り上げてくださった歌壇編集部のみなさま、選考委員のみなさま、友人・ネットの通りすがり問わず感想をくださった方々、ありがとうございます。
全部とても嬉しかったです。

取り上げていただいて非常に嬉しかった、のですが、「ペルセウス」及び選考座談会を読んだ方に誤解を与えてしまったかもしれない、と思う点があります。
せっかくお読みくださったのに間違った認識を持って帰ったら本末転倒なので、少し文章を書きます。

もし、ご家族や親しい方が脳出血や失語症になられた方のご参考になれば幸いです。

失語症への誤解

ここでいう「誤解」の原因は私の説明不足であり、評者の方の読解や理解が足りていないわけではない、ということを申し添えておきます。

言うまでもなく作品中の「わたし」は主体=私 であり、「父」=私の父 です。
私の父は、2024年の1月末に脳出血を起こして障害を得ました。

ペルセウス流星群の夜 父は失語という椅子に腰掛ける

月島理華「ペルセウス」『歌壇』2025.2

今は「要介護5」「身体障害者手帳1級」という判定に落ち着いています。
左脳がダメージを受けたため、表題歌の通り「失語症」という症状もあります。
失語症とは、脳の障害によって言語機能(読む・聞く・話す・書く)が損なわれることです。

失語症は、喋れない病気ではない

選考座談会のなかで「お父さんが喋れなくなること」「声が出なくなったお父さんの様子」という評をいただきました。

実は、失語症の患者さんが必ずしも喋れない/声が出せない状態になるわけではありません。

「流暢に喋るが言い間違えが多い」「言われたことの理解が困難」「言われたことは分かるが上手く話せない」など、色々なタイプがあるそうです。
聴覚や発声器官に原因があって喋れない/声が出せない状態とはまた別で、基本的に声は出ます。

私の父もよく喋ります。口癖も笑い方も倒れる前のままです。
言いたいことを脳内で言葉にする「換語」に困難があり、文章レベルでは話せませんが、話した内容・書いて見せた内容はおおかた理解してくれます。

失語症は、愚かになったわけではない

失語症患者は、「話したことが分かっていない」「伝わったかたしかめようがない」と、理解力のない人に見えてしまうこともあります。

父と話すときはついつい大きな声でゆっくり話してしまうのですが、周囲の様子から推量しているのか、こちらが想像しているよりもずっとよく状況を理解していてびっくりすることもあります。

私の父の場合は、ですが、「言葉で伝える」ことが難しいだけで、観察力や抽象的な思考力は十分に残っているようです。

私は言語に頼り切って生きているんだなあと思うことが増え、なるべく目で笑ったり、ジェスチャーで表現するようになりました。

失語症だけではないー片麻痺、半側空間無視など

どのような後遺症がどのような割合で生じるかは不勉強で知らないのですが、脳出血の後遺症は失語症だけではありません。

しんでる、という右の手をひらかせる砕氷船をわたしはもたず

月島理華「ペルセウス」『歌壇』2025.2

父の場合は左脳にダメージを受けたため、麻痺や半側空間無視が右側に出ています。

右足と右手はほとんど動かせない/感覚がないようで、車椅子を左手で回したり押してもらったりして暮らしています。
右側のものを認識しにくいので、なるべく左視野から話しかけていました。

失行や注意障害、うつ傾向などもあり、飲んでいる薬の種類や身体拘束の必要性によって病院から施設への入所が難しくなってしまったこともありました。

短歌という言語表現の土俵だったこともあり、今回は失語症にスポットライトが当たりましたが、色々な症状が交差することで生活の質が悪化してしまう、と分かっていないとなあと日々思っています。

それでも会いに行けばあたたかい態度で迎えてくれる父には感謝しています。
「短歌の賞で入賞した」と伝えたときもとても喜んでくれて、母と私と「3人で写真を撮ろう」ということを伝えてくれました。

書こうと思ったことは以上ですが、今回で反省したこともあるので、つらつら続けてみようかなと思います。

「辛い」「苦しい」という評

選考座談会の水原さんをはじめ、ネットで感想をお寄せくださった方、母や短歌をやっている友人には、「辛い」「苦しい」といった感想をいただきました。

私にとってはとても嬉しい驚きでした。

正直にいうと、父のことを詠もうと決めたとき、「かわいそう」「若いのに、、」という同情票を期待する気持ちもありました。
「二十二になる」「初潮の遅い子」といった、主体=作者が若い女性であることを示唆するワードを盛り込んだのはそういった狙いからです。

でも、今回いただいた「読んで苦しい」という感想はどれも湿った憐憫ではなく、もっと乾いていて、それでいてあたたかい情動だと感じています。

読んでくださった方自身が過ごしてきた人生の積み重ねに、歌を反響させて生まれた震えが、「辛い」とか「苦しい」という表現になったのだと思います。そこに私に対する同情はあまりなくて、共感というか、英語でいうところの"empathy"に近い情動をもらえたように感じます。

「かわいそうとは言ってくれるかもしれないけど、分かってはもらえないし」と思っていたほうが、よっぽど傲慢だったのかもしれません。
周囲の人や読み手を舐めていたのかも。反省です。

「辛い」とまっすぐ言っていただけたことで、父のことで辛かったんだな、と自分自身を許せるような気もしました。ありがとうございます。

今回は父の病気というストーリー性の高いエピソードと賞の公募のタイミングが重なり、過分な評価をいただきました。
今後は、こんな偶然はなかなかないと思いますし、短歌を作って世に出すこともほとんどなくなると思います。

でも、父のことを短歌にしてよかったし、短歌を続けていていて心からよかったと思います。
ありがとうございました✾

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