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恥ずかしさを越えてゆけ

 誰かに見られて恥ずかしい姿って誰にでもあると思う。家で部屋着で床に倒れて爆睡している姿とかもそうだけれどそうではなくて、外に向けて見せる姿でも、見られたくないもの。


 私にとってのそれは、文章なんだと思う。
 誰かに読まれたくて、読んでもらえる文章を書けることを目指してこうして書いてインターネットの海に放っているのだけど、「もっと上手く書けるようになってから…」みたいな気持ちが常にある。だから筆が重くなるし、つい格好つけた文章になりがち。
 でもそう思うのは、私にとって文章を書くということが「できるようになりたいこと」だからなんだと思う。書けるようになりたい。誰かに私の言葉が届いてほしい。誰かの1日をほんの少しだけあたためたい。そんな思いがあるから、下手な文章が悔しいし恥ずかしい。

 

 子どもの頃から、本を読むことと絵を描くことが大好きだった。とにかくそれが好きだったから、将来の夢は「漫画家か小説家」。お話も絵も描けたらどんなにいいか。そう思って絵を描いて、お話を書いて、誰かに見せたり投稿したりしていた。アニメも大好きだったから将来はスタジオジブリに入りたいなんて無謀なことを思ったりもした。毎日毎日、自由帳を埋めていくのが楽しかった。
 それができなくなったのはたぶん、中学生くらいからだと思う。自分よりずっと上手い人がたくさんいる、自分の絵は下手だ、私のお話はまだまだ拙い、そんなことばかりに目がいくようになって、恥ずかしくて悔しくてそれでも上手くならない自分が嫌いになって、私は夢を封印して、高校一年生の頃の目標は「古典の先生」だった(素敵な先生に出会えたのだ。それはそれで今でもちょっとなりたい)。
 
 紆余曲折を経て結局コミュニケーション能力が低すぎて先生にはなれなかったけれど、大好きな本を扱う仕事に就いているから結果オーライといえばそうだと思う。過去の同級生に出会えば必ず「らしいね」と言われる仕事に就けることは幸運なのかもしれないとも思う。
 それでも、いまだにアニメ映画のエンドロールを見ていると涙が出る。悔しいとか、情けないとか、憧れとか、いろんな気持ちが押し寄せてくる。この前情熱大陸が山田尚子監督で、すごく共感して感動して、やっぱり悔しくなった。烏滸がましいにも程があるのだけど、私にとって、今でも「夢を諦めた」「やらずに逃げた」ということが生々しい感覚でここにあるのだ。諦めてから20年以上経ったというのに。

 悔しさとか憧れの中に、自分の好きなことが隠れてる。そして本当にやりたいことをやるのは、怖い。やっぱりできない自分を認めることになるのは、とてもとても怖い。たぶん高校生の私はこの怖さから逃げ出したのだし、この怖さに立ち向かう人しか、向かっていけない場所があるんだと思う。やっぱり怖い。
 でも、何年も経ってから、やらなかった自分に後悔して泣くのはもう嫌だ。
 だから私は文章を書いているんだろう。今度こそ、やり切ったと思いたいから。


◇◇◇


 昨日小川奈緒さんのVoicy「#756 「できそうに見えてできない姿」は早めに見せてしまえばいい」を聴いていて、こんなことをつらつら考えていたから書いてみた。
 できるようになりたいってもがくこと、大人になってもたくさんたくさんあるんだなぁ。

【今日のお供】
『わたしの芝を青くする』(asako)
 …蛇が5匹も出てくる夢を見て起きたら体調が悪くて、「なんか生活に余白がない…」と強く思ったので持ってきた。なんかこう、白っぽいものが見たかったの。このひとの言葉を読んでいると、心に隙間があく気がする。今のわたしは全部がぱんぱん。たぶん芝は枯れかかってる。水をやりたい。

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