塚本櫻𩵋『山の黙』評(第五回蒼海賞)
いつも俳句同人リブラを応援していただきありがとうございます。
このたび、同人の塚本櫻𩵋(つかもと・おうぎょ)が第五回蒼海賞を受賞しました。
受賞を記念して、「第五回蒼海賞受賞記念 塚本櫻𩵋『山の黙』評」 という冊子を作成しました。
目次
塚本櫻𩵋『山の黙』(30句)
木内縉太‐異界の入口
山本たくみ‐おうぎょ俳句の面白がり方
髙田祥聖‐「山の黙」の歩きかた
内野義悠‐ひとつながりに
塚本櫻𩵋‐跋文
冊子PDF(推奨)はこちら!
以下に全文掲載します。(次回の文学フリマ東京で無料配布予定。)
第五回蒼海賞
「山の黙(やまのもだ)」
筑波はや青葉青葉や駆けのぼる
山肌は神の肌なり草いきれ
仙境のいりぐちなれば滴れる
南風吹く天狗となれぬ少年に
火取蛾の風に剥がされ火の祭
釈迦の手の肉ゆたかなる夕立かな
大蜘蛛は糸に溺れてゐたりけり
磐座に太刀筋のあり螢草
風の山鎮まりやがて秋の声
口伝をほのと香れる草の花
薄野に漣のある風のあと
山頂に鳥の渡りを見てゐたり
アラハバキ座すや龍膽その跡に
曼荼羅のごとき花野となりにけり
狩山に伏して樹根に水の音
猪肉の脂もて火を怒らしむ
陽あたりの枯野に馬を放ちけり
山茶花や暮れて東に影のある
夜刀神に睨まれてゐる寒さかな
神隠し解かれて蝶の凍てにけり
淑気満つ磯の鳥居のずぶぬれて
大鷹の弧や初空をほしいまま
風花を駆くる十三天狗かな
おほかみの眠りに隙のなかりけり
ししくしろ黄泉の際まで梅探る
鵺じつと見てゐる椿流るるを
都久波尼の春柔らかき土の香
山に触れ山のうからの燕
大雲をはぐれて雲や芝さくら
清明や眼のうらに山の黙
異界の入口
木内縉太
〈筑波はや青葉青葉や駆けのぼる〉
連作中、最も印象的な句の一つである。
さらに本句が、その劈頭に据えられていることの効果は計り知れない。連作における本句の効果を考えてみたい。
まず、「筑波/はや/青葉/青葉」と短く畳み掛けるようなリズムは、連作全体に立ち籠める異界への入口として、異様なほど効いている。一般的な俳句の有する五・七・五のゆるやかな調べは、ほとんどわれわれの実の世界と地続きといってよいが、本句は、そのゆるやかな調べを放擲し、独自の律動を立ち上げようとしている。
では、その独自の律動とはどのようなものだろう。実は、一読した際、ぼくはある予感を抱いていた。この律動の正体とは、原始性ではないか、という予感である。例えば、万葉集の〈籠もよみ籠持ちふくしもよ……〉からはじまる長歌を思い合わせてみるとき、その跳ねるようなリズムは、どこか本句と貫流するものがあるといえないだろうか。
この律動を古代的律動などと称んでよいのであれば、本句からは芬々と古代の香りが立ち上ってくるのである。
しかし、この跳ねるようなダイナミックなリズムが、連作のタイトル「山の黙」のもつ森厳でスタティックなイメージとは、刺し違える関係にあることにも注意が必要である。また、本句の持つリズムは、連作中にあっては稀なことであって、他の句々のリズムは比較的、泰然としている。つまりは、第一句目である本句が、以降の句と比して特異であるといえるのだ。
本連作は、〈風の山鎮まりやがて秋の声〉や〈薄野に漣のある風のあと〉などの自然詠、〈山肌は神の肌なり草いきれ〉や〈神隠し解かれて蝶の凍てにけり〉などの神々を詠んだ句、〈仙境のいりぐちなれば滴れる〉や〈ししくしろ黄泉の際まで梅探る〉などの超自然的な句などが占めている。しかし、第一句目である本句は、下五で「駆けのぼる」とあえてダメ押しをするくらいに、作中主体の人間の存在を強調している。本句においては、人間が中心なのである。
思うに、塚本櫻𩵋が、古代の律動を用い、人間を前面に打ち出して、ここでやろうとしていることは、「我」を抜け出ることではないだろうか。ここでいう「我」とは作中主体のことであり、その作中主体とは、塚本本人にほかならないであろう。塚本は、われわれと同じく、当然、不可避的に現代人という枷、というか前提を背負っている。しかし、その状態では神々や超自然的なものといった、神話的、土俗的世界に入り込み、それを十全に掴み取ることは困難だ。そのような世界を自在に捉え、詠み尽くすにはどうしても、古代人的視座を獲得するほかないのである。そのために、塚本が用意した仕掛けが、第一句目に本句を据えることであったのではないだろうか、と想像するわけである。
古代的な律動を借り、さらには筑波というトポスの霊力を借り、塚本は、神話的、土俗的世界への侵入を試みたのだろう。果たして、それは見事に成功した。そのようにみてみると、青葉の中を駆け上るようすは、どこか儀式のようにも思える。イニシエーション的ともいえるかもしれない。
塚本はふだん、近松門左衛門の「虚実皮膜の間」ということばをよく使うが、本句こそ、その虚実皮膜の間を掴みえるための塚本なりの行為であったといえるのではないだろうか。
なお、やや余談めくが、日本の山間部には「一声呼び」と称ばれる伝承が存在する。これは、妖怪が人間に呼びかけるときには一声しか発しない、というものだが、ひいては、山中で人に会えば、二声続けて声を発しなければならない、とされる。この伝承をむりやり本句に引き寄せてみると、「青葉青葉」のリフレインもどこか異界へと入り込む、あやうい前触れのようにも思えてこないだろうか。
などと、とりとめもなく、第一句目の効果についてみてきた。もちろん、第二句目以降に広がる異界の荘厳なありようと、それを支えるレトリックの恐るべき膂力は、いうまでもない。
このたびは、蒼海賞のご受賞、おめでとう。
おうぎょ俳句の面白がり方
山本たくみ
塚本櫻𩵋「山の黙」(第5回蒼海賞受賞作)はおうぎょ俳句の集大成とも言うべき連作であり、作品を通して詠っている土地に根差した自然の濃度、そしてその一句一句のもつ畏敬の力に圧倒される。
以前、仲間内で互いの俳句のイメージを言い合おうという企画があった。その時私は彼のイメージを「本流」と述べた。それは本作を読んで改めて思ったように、私の中での俳句の本流であり王道と呼ぶべき自然詠をここまで真摯に遣って退けることに対するリスペクトである。そしてそれは私が俳句を続けてきた中で、諦めて手放してきた部分でもある。そういった意味で、彼は我々俳句同人リブラがスーパー戦隊であれば赤、海賊であれば腕の伸びる船長であるというのは誰も疑わないところであろう。人間性も非常に主人公気質である。
さて、先にも述べたようにおうぎょ俳句の魅力は誰もが心に抱いている自然への畏敬、その有り様を鋭く格調のある韻律と熱を帯びた言葉によって再認識させることにあると考える。ここではあえてそのことを「厨二心をくすぐる」と呼びたい。「おうぎょ俳句の面白がり方」の一つとして、自己の厨二心を認め、かっこいいものをかっこいいと素直に受け止めて味わう、というのを提案する。
連作の表題「山の黙」。すでにかっこいい。と同時に連作のテーマを象徴し期待感をもたせている。
〈山肌は神の肌なり草いきれ〉
「神の肌」という大胆且つ説得力のある表現、そして「なり」という言い切りにも心が乗っていて惹かれる。「草いきれ」は神の息なのだろうかと想像させられる。ぞくぞくするほどにくすぐられる。続く句、
〈仙境のいりぐちなれば滴れる〉
にも痺れる。仙境とは仙人が住むかと思われるほどに俗界を離れた場所。「なれば」という高揚感を煽る語りが上手く、「滴れる」という季語がはっきりとした景をもって応えてくれる。句の繋がり方も良く、前の句で山肌を見せたことの効果がこの句にまで及んでいる。
〈アラハバキ座すや龍膽その跡に〉
アラハバキとは東北中心に膾炙した自然神。何より韻律が気持ち良い。中七の「や」で切れてからの「りんどー」という撥音・長音。それを回収する「そのあとに」という均一な五拍の語。そして内容がその韻律を要求している。「タタタタタ//タタタ/タンター//タタタタタ」何度も声に出して味わいたい句である。
〈おほかみの眠りに隙のなかりけり〉
同作者に「おほかみは遠き火を見るわれの火を」もあるが、どちらも冬の季感をもって詠まれていることにまず感嘆する。「おほかみ」というモチーフは言わずもがな、「眠りに隙のなかりけり」という端的な描写と核心を衝いた詠嘆が我が厨二心にぶっ刺さる。
〈清明や眼のうらに山の黙〉
表題句であり、連作の最後に置かれた句である。本連作には「狩山に伏して樹根に水の音」や「猪肉の脂もて火を怒らしむ」といった音に特徴をもつ句も少なくない。「山の黙」はそういった音との対比になっているだけでなく、山を中心としたそれまでの自然詠すべてを包括して「眼のうら」に思い出すような「黙」な景であったという印象を与える。一句目より没入したおうぎょ俳句の世界からふっと我々読者の存在する世界へ意識を手渡ししてくれる。さながら宮沢賢治『やまなし』の最後の一文「私の幻燈はこれでおしまいであります。」のようである。なんとも心地良い読後感。洒落ていて、やはりくすぐられる。
好き勝手書いてきたが、改めて同世代にこのような書き手がいることに頼もしさも末恐ろしさも覚えた。かっけえです、おうぎょ俳句。
皆様もぜひお楽しみください。改めて蒼海賞のご受賞、おめでとう!
「山の黙」の歩きかた
髙田祥聖
皆さま。本日はようこそお運び、まことにありがとうございます。
ツアー「山の黙」のガイドを務めさせていただきます、髙田祥聖と申します。テンションが急上昇急降下、急に真面目ぶったりしますけれども、そこはご愛嬌。皆さまに楽しんでいただけますよう、精一杯お努めする所存でございます。
道中、楽しんでまいりましょう。
さて、さっそく真面目モードに。
わたしにとって、塚本櫻𩵋の作品について考えることは「おまえにとって神とはなんなのだ」という問われているに等しい。
非実存的存在あるいは超常的存在を他のリブラメンバーも詠むことはあるが、神という存在を神という言葉をもって捉えようとすることがあるのは、わたしと塚本櫻𩵋の二人だけではないかと思う。
わたしが概念という側面から神を描こうとするのに対し、櫻𩵋はアニミズム的に神々を描こうとする。
まずは本作品を読んでいくうえで必要になるであろう、筑波山およびその山岳信仰について触れておきたい。
筑波山は茨城県つくば市にある双耳峰で、その優美な姿から「西の富士、東の筑波」と称される。地殻変動による地面の隆起から生まれた山体は主に花崗岩によって構成され、山頂付近では斑糲岩(はんれいがん)がむき出しになっている。
男体山・女体山の山頂には、筑波男大神(伊弉諾尊、いざなぎのみこと)、筑波女大神(伊弉冉尊、いざなみのみこと)を祀る筑波山神社の本殿があり、山腹の拝殿より山上の境内地「筑波山」を御神体として拝する古代からのかたちが維持されている。
縁起や仏教伝来以降の変遷など興味深いところは多々あるのだが、涙を呑んで割愛させていただく。わたしがここで書かなければいけないのは、櫻𩵋の俳句作品についてなのだ・・・!
〈筑波はや青葉青葉や駆けのぼる〉
〈山肌は神の肌なり草いきれ〉
筑波はや、と本作品は始まる。
筑波、青葉、青葉と、山を登る息遣い、一歩一歩踏みしめている足取りが音として伝わってくる。「はや」「青葉」「青葉や」「駆け」とA音で韻が踏まれており、音そのものが上へ上へと昇ろうとしている。
山肌は神の肌であり、草いきれはその肌の火照りである。山道を行くものたちはその熱にくらくらしつつ、昂りに歩を進めていく。
〈磐座に太刀筋のあり蛍草〉
〈口伝をほのと香れる草の花〉
険しい道行き。ときには野花に心を慰められるのもいいだろう。神代にも争いはあったのだろうか。磐座には太刀筋が残り、いまやそこには蛍草が揺れるのみである。
櫻𩵋の俳句において、神そのものが描かれるということはあまりない。
神とは我々がまだ文字すら持っていなかったころの存在であり、その聖遺物として自然がある。草に神宿り、水に神宿る。風に神宿り、火に神宿る。わたしは、櫻𩵋の俳句のなかに、たしかに「畏怖の対象としての自然神」を感じることもあるのだが、どちらかというと陽神性を感じることが多い。作風が益荒男振りというよりは、櫻𩵋の好むモチーフにそう感じさせるものが多いからかもしれない。
〈ししくしろ黄泉の際まで梅探る〉
〈鵺じつと見てゐる椿流るるを〉
先ほどの野花とは一転、華やかな梅と椿が詠まれているのだが、どうも雲行きが怪しい。
筑波山の御祭神である伊弉諾尊・伊弉冉尊は、『古事記』にある冥府下りの一説でも有名である。
伊弉冉尊は、伊弉諾尊と交り、淡路島・隠岐島からはじめやがて日本列島を産み、森羅万象の神々を産んだ。そして、火の神である火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)を産んだ際に陰部にやけどを負い、ついには命を落としてしまう。伊弉諾尊は、伊弉冉尊に逢いたい気持ちを捨てきれず、黄泉の国まで逢いに行くのだが……。
櫻𩵋の俳句に戻ろう。
「ししくしろ」とはなんぞや。「しし」とは獣の肉のことで、「くしろ」は串のこと。串刺しにして焼いた肉の味が良いことから、良味(うまし)と同音の「熟睡(うまい)」、また良味(よみ)と同音の「黄泉(よみ)」にかかる枕詞である。
作中主体は焼肉串を片手に、黄泉に探梅に来たというのである。とんでもない剛の者あるいは阿呆。
この世とあの世を隔てる川のほとりには鵺がおり、椿が川を流れていくのをじっと見つめている。鵺に気付かれてはならない。こちらに気付かれれば、あるいは。
筑波山を登っていると思っていたが、気付けば、よくもまあ、こんな遠くまで来たものである。
本音を言うと、正直、この蒼海賞受賞作についてどう書けばいいのか見当もつかなかった。
本作品は櫻𩵋の美意識の発露である「虚」の部分と、彼が実際にその足で赴き、その眼で見、肌で感じた「実」の部分とが、巧妙に、絶妙に入り混じっている。薄い膜いちまいで隔てられた虚と実は、虚と実という別存在のものなのか。そもそも「虚実」というひとつの存在ではなかったか。
【追記】
〝この原稿をぎょちゃんに見せたとき、上の一節をもう少し詳しく知りたいと言われたので、少しばかり追記しておく。ちょっとしたサプライズになればいいのだが。
どう書けばいいのか見当もつかなかった理由は、作品における詩情もっと強い言いかたをしてしまえば神性の発露の仕方が、櫻𩵋とわたしとで異なるからだと思う。
わたしが自身の内側に神性を見出すのに対し、櫻𩵋は起源(ルーツ)ある神性の流れのなかに自らを見出す。櫻𩵋は「自身の詠む作品は基本的に連作」と言うが、わたしは連作というよりは絵巻物のようだと思う。
虚実皮膜という言葉に対して、わたしは懐疑的であるが、櫻𩵋は自覚的である。
わたしは先ほど櫻𩵋作品を絵巻物のようだと言ったが、その絵巻物はウロボロスの輪のように端と端とが繋がっている。いちまいの膜に隔てられているのではない。いちまいの表と裏なのだ。ふとした瞬間に裏が見え、表が見え、虚が実となり、実が虚となる。
櫻𩵋の現場主義は体感覚主義と言い換えてもいい。彼の足が、眼が虚を捉え、彼のなかで実に変換される。
……作品の話というより、彼の作家論的になってしまった。
なにか言いたいかって、櫻𩵋はわたしにはできない感覚の捉えかたができる、感覚の発露ができるということだ。これは、俺の友だちはすごいだろ⁉︎という自慢に近い。〟
さて、皆さま。ツアー「山の黙」、いかがでしたでしょうか?
お楽しみいただけたのなら、これ以上の喜びはございません。そうそう、家に着くまで決して振り返ってはいけませんよ。伊弉諾尊と同じ目に遭うかもしれませんから。
さいごに。心から。
蒼海賞、ご受賞おめでとう。
ひとつながりに
内野義悠
この度、第5回蒼海賞を塚本櫻𩵋作『山の黙』が受賞した。一読、「俳人だなぁ」と感じさせられた連作である。
俳句という文芸を自然そのものへまなざしを向け、それを詠う芸術と定義するならば、櫻𩵋以上の俳人はそう簡単には見つからない。彼の文芸活動の出発点は小説執筆だったと聞くが、自然をまっすぐ見つめられるというある種の才を備えていたというその意味で、俳句との出逢いと転向は櫻𩵋にとって、そして句座を共にするぼくたち句友にとっても、これは大きな僥倖であったと思う。
そして、俳人であると同時に櫻𩵋は「山の男」でもある。
ぼくはこれまで何度か彼と山行を共にしたことがあるが、山中での彼は下界にいるとき以上に生き生きとしている。 元々大柄な体躯はさらに大きく見えてくるし、土を踏みしめる一歩一歩は力強く、山に在ることの確かな歓びを感じさせる。
しかしそれは闇雲にはしゃいでいるということではなく、常にどこかに緊張感も孕んでいる。ぼくは彼と楽しく談笑しながらも、いつもそれを知覚している。
つまりそれが、彼が山や自然、さらにはそこにまします神々に畏敬の念を抱いていることのなによりの証左であり、ぼくが櫻𩵋を山の男だと感じる所以でもある。
櫻𩵋俳句の特徴として挙げられる「土着性」や「自然詠」は、このような山や自然に対する畏敬の念を抱きながら自らの足で現場を歩いた経験に裏打ちされたものだと言うことをぼくは知っている。
これは俳人がよく口にする「季語の現場を歩く」ということとは似て非なるものだと思うし、それに費やされる労力は計り知れない。
でも、だからこそ櫻𩵋は、この『山の黙』という疑いようのない説得力を持った連作を生み出し得たのだと思う。
さて、語り出したら前置きが長くなった。そろそろ『山の黙』本編を読み解いていきたい。
〈筑波はや青葉青葉や駆けのぼる〉
この一句を冒頭に配することは、櫻𩵋にとってある意味で必然であったのではないか。筑波山は彼のホームマウンテンであると同時に、その山体自体が御神体として崇敬される神域でもある。
最も登り慣れた山であるからこそ、神々のもたらす命の息吹を櫻𩵋は誰よりも早く知覚した。その時の実感と勢いが全てを物語ってくれる句ではなかろうか。 もちろん一句の中に種々の俳句的技術や推敲の跡も見て取れるが、殊この句においては「掴んだ」瞬間に決着がついた種類の、芯のある強さを持つ一句であろうと思う。
〈仙境のいりぐちなれば滴れる〉
「仙境」とあるので、そこはただただ登ることでしか辿り着けない場所である。その入口に到達したよろこびが「滴れる」という涼やかで清々しい季語から素直に伝わってくる。そこには櫻𩵋の持つ「仙境」に対するユートピア的憧憬も垣間見える。
また冒頭句から数えて三句目に置かれたこの句は、連作の流れの中に於いては、いよいよ異界へ足を踏み入れてゆく前の息を整える時間のようにも感じられる。滴りの音以外は聞こえない静かな時間だ。
〈猪肉の脂もて火を怒らしむ〉
櫻𩵋俳句のモチーフとしてよく現われるものの一つに「火」がある。人類は火を使いこなすようになってから他の生物とは一線を画する劇的な進化を遂げた。また太古の時代より火は祭事に用いられ、神性を宿すものとして崇められてきた。火。人類にとってそれは福音であった。
この句ではその火を「怒らしむ」という。それも山を棲処とする猪の屍からしたたる脂をもって。
人間である以上、他者の命を奪い頂くことでしか永らえることはできない。たとえ「神」である火の怒りを買おうともその行為は避けられない。激しく燃えさかる炎の明るさの中に、山中にいようとも「人間」であることをやめられない櫻𩵋の自嘲と苦悩が照らし出される。
〈陽あたりの枯野に馬を放ちけり〉
『山の黙』の中には実在・空想を問わず様々な動物が登場してくる。これは櫻𩵋にとってあらゆる生命が自然に内包されるものであり、神の生み出した存在であると考えている裏付けであろう。
この句の中で放たれる「馬」は、殊に輪郭のくっきりとした実存生を感じさせる。自由を得て枯野という命の尽きた後の淡い空間を駆けてゆく馬は、対比の効果もあるのか不思議と生命力に漲っている。
その印象を補強するものは、やはり「陽あたりの」というどこか祝祭性を帯びた上五だ。この上五によってこの馬は枯野に「抱かれにゆく」ような景色にさえ感じられてくる。
櫻𩵋はこの上五を導き出すために悪戦苦闘していた記憶があるが、その甲斐もあって自然の持つ厳しさだけではなく、包み込むような優しさも描き出すことに成功した。
〈おほかみの眠りに隙のなかりけり〉
山行の際の櫻𩵋の様子として楽しみながらもいつもどこかに緊張感を孕んでいると先述したが、初めてこの句を目にしたとき、この「おほかみ」は彼自身ではないかと感じた。
厳しい自然の中に於ける生き物としての生存本能や危機回避能力が、眠りの中にあっても一切の隙を消してゆく。そして神住まう地である山に暮らす狼にとって常に神を感じ畏怖を抱くことは、常に精神的なゆるみを許されないということだ。それは逆説的にヒリヒリとした生の実感を得ることに繋がる。
これはまさに山を歩く際の櫻𩵋自身の姿だ。自らの姿を狼という生物季語に投影した詠みぶりは、単なるアニミズムを超えた、いわば「体得的アニミズム」とも言えるものだと思う。
その意味で櫻𩵋はあらゆる地霊を「感知」するのみならず、究極的には「同化」さえも目指しているのではないだろうか。
〈清明や眼のうらに山の黙〉
表題句である。まず印象的なのが「黙」という聴覚に関わる感覚が眼のうらという「視覚」にて知覚されている点だ。目を瞑れば映像として浮かんでくるほどの濃厚な静けさ。山の持つ圧倒的な質量とそこに根付いた長い歴史があればこその、この「黙」なのだ。それをまなうらに認めたときの感慨を「清明」という清らかで大らかな時候の季語に託した心持ちが気持ち良い。
ぼくは以前櫻𩵋との個人的な会話の中で、彼が俳句に詠む/詠みたがる対象やテーマは一見どんどん狭まっているように見えるけれど、ある一点を通過するまでそれを続ければ、今度はさながら鼓の形のように放射状に世界の広がりを感じさせてくれる予感がする、という内容の話をしたことがある。
この表題句は、まさにその話と共通する感覚を抱いた句であった。
「眼のうら」「黙」という一見狭く閉塞的な言葉の与える印象を逆手に取るように一瞬で解放させる「清明」の広さ。この配合に櫻𩵋俳句の進境が見える。
また、冒頭句は山に在る歓びを全身で表わす躍動感あふれる句であったが、掉尾に置かれたこの句は対を成すかのように「山の黙」を静かに味わっている。
これこそが本連作の作中主体の意識が山という大いなるものへ溶け込みつつあることの証であろう。「山」はもはや作中主体にとっては自己と切り離された特別なものですらないのだ。
それは今の櫻𩵋にとっての俳句にも同じことが言えるのではないだろうか。我詠む、ゆえに我あり。近頃の櫻𩵋俳句からはそんな力みの無ささえ感じられる。この先、それこそ俳句の「仙境」に足を踏み入れるのではないかとそんな興味も尽きないのである。
さて、最後となったが改めて蒼海賞ご受賞おめでとう。
ここが山頂ではなくまだまだ上があるはずなので、また次の受賞作で櫻𩵋俳句を語れることを楽しみにしています。
跋文
塚本櫻𩵋
仲間がこのような形で私の作品に対して言葉を尽くしてくれたことはこの上もない幸せで、本当に得難い人生だなと感じた。
改めて自分の作品や書き方について振り返る良いきっかけになったが、『山の黙』を書きあげたときの私と今の私は随分違っているようだ。
というのも、いま振り返って蒼海賞受賞作を読むと「頑張って書きあげたな」という思いのほかに、なにも湧いてこないのだ。もちろん、こんなもので、とは思わない。筆致は全力だし、悪くないとは思う。ただ、今の私からすると、連作のネガティブな部分がどうしても目についてしまうのだ。
しかし、『山の黙』を書きあげたときの私と、今ここに生きる私は、同一で異なる私であるから、価値観が変化するのはなにも不思議なことではないだろう。それは、過去からみた現在の成長というようなことではなくて、過去に書きあがったものなどは、美しいだけの抜け殻でいい、という潔さであるかもしれない。
(と綺麗事を書きつつも、もし現在の私が、第五回蒼海賞に応募することができたなら『山の黙』は受賞を逃すだろう。とも思っている。)
要は、まったく満足していないということが言いたい。それは次の賞が欲しいということではなく、書きたりないという我々書き手にとっての根源的欲望である。
私は俳壇や未来のために書かない。とにかく、自分を満足させるために書きつづけたい。担うのは、いつだって今を生きる己の美意識だけのはずだ。その先にはレトリックの巧拙をものともしない、書く書かれるの関係性をも超越した、もっと耽美的で漲るような愉悦が待ち構えている。私はそれを得る術を手にしていて、後は書けばいいだけなのだ。
こんなにおもしろい遊びはほかにはないだろう。
堀本裕樹先生に感謝します。
(終)