「リドル・ストーリー」として俳句を読むことはできるか。
伝統的俳句観で考えるならば、俳句の本質は瞬間的な美を文字にして書きとることにあり、物語性は俳句の形式上不要といえるだろう。
また、安易に物語る文体は散文的と忌避され、十七音の形式美が損なわれるという指摘も大いにある。散文的な短詩の善悪ということは古典俳句から現代俳句まで、そして自由律、前衛にいたるまで、韻文作家が暗黙として意識せざるを得ないもののうちの一つだ。
そのような句には、これは俳句である必要が云々、とか呪いの言葉が投げかけられる(られている場面に遭遇する)ことも少なくない。実際、大家やその流派が、物語性を含まずとも一瞬の情景や感覚の中に普遍的な真理を凝縮するものこそ俳句だと考えていたわけだから、その流れで上記のような指摘がされるのは止めようがないし、仕方がないことと思う。実際、私自身、その一瞬の美を詠むことが俳句の本懐だと思っている節はある。
もし、俳句の美が多くを語らない瞬間的な画の美、俳句が傷ついてしまう理由(散文的)が「結論を言わないでよ」ということにあるとしたら。俳句を「リドル・ストーリー」だと言うことは可能かもしれない。
リドル・ストーリーとは、物語内で提示された謎に明確な答えを示さず、結末を読者の解釈に委ねる形式の物語である。有名なところではF・R・ストックトン「女か虎か」、芥川龍之介「藪の中」など。(ネットでも手軽に読めるためぜひご一読いただきたい。)
俳句とは〈古池や蛙飛びこむ水の音〉と聞いて、この水の音のあとに蛙が鳴いたかもしれない、いや二回鳴いたかもしれない、もしかすると古池には魚がいて蛙は食われたかもしれない、などと読み手が勝手に想像すれば、ファンタジーにもコメディにも解釈できる。それはある意味では文学として脆弱だともいえるが、読み手の解釈によって作品が収束する(あなたの笑顔で料理が完成するという曖昧な意味ではなく)という短詩ならではの属性? あるいは考え方が、リドルストーリーと近しいのではないか。
また、早めに整理しておきたいこととして、いわゆる言葉の制御を効かせて瞬間的な画を切り取ることによって得られる余韻と、リドルストーリー的で句の3秒後を想像させるような物語性(言い換えるなら、作品に解決していない問題がある可能性によって読者の読みを奮いたたせること)のある書きぶりは異なるものだ。
私が指摘するリドルストーリー的俳句の構成単位とは言葉の制御によって得られる余韻の有無ではなくて、至極わかりやすく言うなら「なんかミステリ映画の冒頭みたいだな」というような、心を翳らせるような、「なぜ?」を言いたくさせるような、テクスチャやモチーフのことである。リドルストーリー的読み方の場合、芥川龍之介はその要件をかなり満たしている。小説家のするどさなのか、俳句の短さながらそれだけで場の空気をつくりあげてしまう。
冷眼に梨花見て轎を急がせし 〈急がせしの理由〉
もの言はぬ研屋の業や梅雨入空 〈もの言わぬの静寂〉
春の夜や小暗き風呂に沈み居る 〈場の雰囲気〉
曇天や蝮生き居る罎の中 〈独特な物語性〉
向日葵も油ぎりけり午後一時 〈時間の明示〉
例えば向日葵句の場合、俳句的セオリーに則って「向日葵に陽が当たっている様子を〈油ぎる〉ということで午後一時の熱気が伝わってくるようだ」と読むことはできる。「暑さと直接的に書かないのがいい」とも言えるかもしれない。
しかし、ここでリドル・ストーリー(作品に解決していない問題がある可能性)的解釈を手掛かりとするなら「向日葵〈も〉の助詞が気になる。」となるだろう。助詞〈も〉によって自分と向日葵、または向日葵と誰か、あるいはその両立、向日葵が何かの一部である可能性、暗喩、と様々に感じとることができる。午後一時もまたシンプルに太陽が一日で一番照りつける時間であるが、示唆的でもあるだろう。なぜ下五で読者に正確な時間を明示したのかは考える余地がある。
春の夜や小暗き風呂に沈み居る
春の夜はさみしい、風呂場は少し暗い、心も沈んでいるのかもしれない、これらを読みのひとつとして否定できないことは事実だ。実際に言い得ている部分もあるだろう。しかし、もう少し深めて読むことが鑑賞の面白いところなのではないか。暗い風呂に沈んでいるのが、自分か、あるいは他の何か、身体のどこまで沈んでいるのか、沈んでいるのは湯か、あるいは他の液体か。
俳句には、読みすぎを嫌う一面がある。作者が意図した範囲を大きく超えて鑑賞を進めてしまうと、作品の本来の意味や魅力を損ねてしまう場合があるためだ。深読みは必ずしも良いことではない。
しかし、俳句を深く鑑賞したいとき、なによりも「読みの可能性」を広げていくことが重要である。一度読みすぎと思えるほどに深掘りすることで、作品の奥に潜む暗示や情味に気づくことがあるだろう。一方で、作品の深みに気づかないままでは、たどり着くことのできない解釈もある。読みすぎた上で、作品の核心に近づくために元の立場に戻ることができれば、それはむしろ俳句鑑賞を豊かにするプロセスといえるのではないか。詩的意図や、その背後にある隠された感情を発見するためには、時に読み過ぎることも必要だ。
(そうはいっても結局のところ俳句の読みは、過度な読み込みと浅い理解の間でバランスを取りながら、暗示と可能性を追求するしかないのだが…)
…すこし立ち止まって冷静に考えてみると、俳句をリドルストーリーと言うことは多少無理があるかもしれない。
リドルストーリーの小説の場合
⑴ 読者は長い物語を通じて折り重ねられてきた情報や場面の積み重ね、そして語りの作用によって、物語の裏側に何か大切な情報が存在することに気づく。
⑵ ところが物語の結末が訪れる瞬間、全てのことが明らかにされない。
⑶ 語りに裏切られた読者は深い喪失感を感じ、真実を追求したいという欲をかきたてられる。
というようなプロセスで複雑な感情のやりとりが発生する。
しかし、俳句の場合は、悠久の中の一瞬を画として切り出したことが読み手に瞬発的に理解されるため「終わってしまった」感がどうも薄いのだ。俳句の構造上、その表現方法があまりに簡潔であるため、読者の中に喪失感や裏切りを生じさせる機会が限られてしまう。
よって、本格的にリドルストーリーとして俳句を読むことは難しいかもしれない。しかし、これまで書いてきたようにリドルストーリー的アプローチで俳句を解釈できる可能性は十分にあった。それならば、ひとつの読みの方法としてみなさんの手札に加えていただくことはできないだろうか。
そういえば、そもそもなぜ私が俳句の読みにリドル・ストーリーを用いようと思ったのかというと、私は俳句の読みに対して、もっと言えば句会の選評などリアルタイムに評を共有しあう場においては、俳句鑑賞的セオリー通りのことを話しても仕方ないんじゃないか、ということを常々思っているということに行き着く。
饒舌すぎるかもしれないが、選句することは作品世界の一端を担うということでもあるだろう。これについては、あなたの笑顔で料理が完成するという曖昧な意味ではないと前に書いたが、出された料理を食べるという一方通行の問題ではなく、句座において作者と読者は一句を介して抱き合っているような状態にあると思っている。(個人的な条件を越えて平等に選び合う関係性とはかなり親密なものではないだろうか。それでいて選ぶ側にあまり責任感がないというのも不思議な関係性であるが。)
それならば私にしか言えないことを話したい。私が選句用紙からたったひとつのこの句を選んだ理由は季語の本意がこうだからです、そしてここに謎を感じたからです。と言いたいのだ。
俳句をリドルストーリーとして読むことは、俳句の本質を探る態度の問題だ。すべての句にいえることではないし、「謎」を感じることが優れた句だというわけではない。しかし、もう一つの真実を解き明かすようなつもりで句を読むことを諦めたくはない。たいそうなことを書いた気もするが、この文章は誰かに向けた否定ではない。
ここまでを読んでもらったリブラ同人からは鑑賞と解釈の違いなどおもしろい指摘が出た。当然これまでの文章で俳句の読みのすべてを網羅できるわけではないが、ひとつのアプローチとして、リドル・ストーリーを意識した読みは可能性があるのではないだろうか。