宮田幸一説批判(忘備録編)
現在のわたしの問題意識(宮田幸一説に対する疑問点)を記録しておき、意見交換再開時のための忘備録とする。
1.曼荼羅には人本尊の側面もある
宮田幸一説では、以下に引用するように、日興や日尊が曼荼羅を仏と呼んでいた事実を認めている。
曼荼羅にも人本尊の側面があると日興が認識していたことは以上の事実から明らかである。しかし、宮田幸一説では、本尊問答抄の宮田独特の理解に従って人本尊を否定している。日興は本尊問答抄を正しく理解できていなかったと宮田は主張しているのだろうか?
2.天台学では久遠実成の釈尊は「無師、無教の修行において成仏」
宮田幸一説では、以下に引用するように、湛然の「釈尊が無師、無教の修行において成仏した」という説に依拠して、天台学では「繰り返し顕本」が否定されていると主張する。
たしかに天台学では最初に成仏した久遠実成の釈尊だけは仏の中でただ独り「無師、無教の修行において成仏した」とされる。例えば、四明知礼は、湛然の上記の説を継承して、以下のように述べている(源信の質問の部分も含めて引用する)。
つまり、「最初一佛」である久遠実成の釈尊は「禀教之因」は無い(=無師)が「内熏自悟之因」(=無教の修行)は有るというのが天台学の主張である。なので、天台学では、久遠実成の釈尊も法華経によって成仏したということは明確に否定されている。
ところが、宮田の独特の本尊問答抄の解釈は、久遠実成の釈尊も法華経によって成仏したということを前提としてなりたっている。しかし、そもそも、日蓮の本尊問答抄というのは、「釈迦と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり。」というように天台学に依拠することを明言する書なのであるから、天台学に反する主張を前提にして本尊問答抄を強引に解釈することにはどう考えても無理があるだろう。よって、宮田の独特の本尊問答抄の解釈は破綻していると言わざるを得ないのである。