観心と観身と観人
わたしが言う観心というのは、自分の心の動きを自分自身でモニタリングしていくことである。
時々刻々と変化していく自分自身の心の状態を俯瞰的に対象化して意識するように努力すると、当の心理状態に飲まれるということがなくなるから、例えば、怒りの感情に支配されてつい大声を出してしまったりというようなことはなくなる。
また、観心によって自分の心の動き方の傾向性を把握することも可能になるので、もしある傾向性に不満を感じるならば、意識的に修正を加えていく努力が可能になる。自分にとっての理想的な心の動き方というのがあるとして、それに近づくための日々のトレーニングが可能になるという感じか。
わたしはこの観心というものを日蓮の仏教から学んだのだが、これは少なくともわたしの人生に大いに役に立っている。そして、最近はさらに、観身ということを意識するようになった。
観身というのは、わたしの造語で、自分の身体の動きを自分自身でモニタリングしていくというようなイメージである。
例えば、自分が話をしているときのスピード(早口になっていないか)を意識するということも観身のひとつである。声の大きさを意識するというのも観身のひとつだろう。
観身を実践する際の観察ポイントは無限にありうるので、自分の身体の動きのどの点に注目して観身を行うかが重要になると思うのだが、注目すべき観察ポイントは人によって異なるだろうし、これは経験的に絞られてくるのだと思う。例えば、つい早口になってしまって話していることが相手に伝わらないということを経験した人は、自分が話をしているときのスピードをモニタリングすることになるだろう。
自分が理想とする身体の動きがあるとして、無意識についしてしまう動きがその理想とする動きとズレてしまうということがよくある場合には、意識してそうならないように常に注意していれば修正できるという、ごくあたりまえのことを観身と言っているだけの話である。
で、この観身と観心とを同時進行で行っていくと、自分の心の動きと身体の動きの連動性を俯瞰的に対象化して意識することが可能になる。すると、その連動のしかたの傾向性も把握できることになり、もしそれらのうちのある傾向性に不満を感じるのであれば、その連動の傾向性に意識的に修正を加えていく努力(トレーニング)が可能になる。
人は心と身体でできているわけだから、観心と観身を同時進行で行うというのは、「観人」とまとめてもいいのかもしれない。観人というのは、普通の人がある程度まで自然にやっていることだろうと思うが、それをきちんと言語化して意識的に(努力的に)やるということには意味があるだろうとわたしは思っている。
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