「自受用報身如来」の天台学的意味

法華経の寿量品で説かれている【五百塵点劫の昔に最初に成道した仏(久遠実成の釈尊)】の報身を「自受用報身如来」と表現することがあるが、そのように表現することはほんらいの天台学に反するものでは全くない。このことを以下に説明しておく。

最初に成道した仏(第一番成道の仏)である久遠実成の釈尊の特徴を天台学ではどのように捉えているのかについてまず確認しておこう。

湛然の『法華文句記』には以下のような問答がある。

問。恐墮無窮唯論釋迦。今欲論諸佛展轉禀教。終有一佛在初無教。無教爲本有何無窮。若許有窮墮無因過
答。拂迹求本本求所説。以獲實利。縱有最初不同今初。何益行解耶。

問。若許有最初無教。何須禀今佛之教。
答。無教之時則内熏自悟。有教之日何得守迷。如百迷盲倶不知路。一迷先達以教餘迷。餘迷守愚不受先教。誰之過歟。且驗釋迦一化得益難思況復爾前益難稱紀。寧不禀教。然終成無益之論。不可以此爲窮。以無益於禀教者。

湛然『法華文句記』、大正蔵第34巻、p.158a

この問答の結論の核心部分を言えば、【第一番成道の仏は「無教之時」に「内熏自悟」で成道した唯一の仏である】ということになる。

湛然の『法華文句記』のこの議論を継承して、四明知礼は、以下に引用するように「最初一佛雖無禀教之因。而有内熏自悟之因。」という(源信の質問の部分も含めて引用しておく)。

十五問。妙記第一決釋最初無教佛云。終有一佛。在初無教云云。疑者云。義猶未了。若許無教有佛。墮無因過。若言禀教。墮無窮過。願聞一揆矣

答。最初一佛雖無禀教之因。而有内熏自悟之因。記中示之甚明。何言墮無因耶

『四明尊者教行録』「答日本國師二十七問」、大正蔵第巻46、p.888a-b

核心部分を四明知礼の表現を用いて言い直してみると、【第一番成道の仏は「禀教之因」を有さずに「内熏自悟之因」によって成道した唯一の仏である】ということになる。逆に言えば、第二番成道以降の仏はすべて「禀教之因」により成道した仏であるとするのが天台学である。

つまり、第一番成道の仏とそれ以外の仏の決定的な違いというのは、「禀教之因」による成道なのか、「無教之時」の「内熏自悟之因」による成道なのかの違いだということになる。

第一番成道の仏だけが、唯一、「禀教之因」を有さずに「内熏自悟之因」によって成道した仏なのであるから、その仏の智慧(報身)は「自受用報」であるといえるが、第二番成道以降の仏はすべて「禀教之因」により成道した仏であるから「自受用報」とは言えない。

ゆえに、第一番成道の仏の報身のみが、唯一、「自受用報」たる報身であると言いうるのである。

ちなみに、湛然は、久遠実成の釈尊の報身について、以下に引用するように「報身爲天月者。自受用報非多故也。」といっている。

應身即水月者。諸水非一故。報身爲天月者。自受用報非多故也。

湛然『法華玄義釋籤』、大正蔵第33巻、p.899b

もちろん、ここで「非多」と言われていることの意味は、「非一」との対比からも明らかなように、天の月と同じく唯一という意味である。

久遠実成の釈尊(本仏)の報身を、他の仏(迹仏)にはない「自受用報」というユニークな特徴によって表現すれば「自受用報身如来」という表現になる。これが、久遠実成の釈尊の報身を「自受用報身如来」と表現することの天台学的な意味である。

以上、五百塵点劫の昔に最初に成道した久遠実成の釈尊の報身を「自受用報身如来」と表現することの天台学的な意味を説明した。


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