余白の美 - 「ナイツ・テイル -騎士物語-」2021 総括
2021年の「ナイツ・テイル -騎士物語-」が終わりました。
博多座の前楽、そして千穐楽ー
それは何もかもが煌めく、素敵な「何か」にやさしく包まれた愛おしい時間でした。
「同じ演目をなぜ複数回に渡り観るのか」という問いに対し「同じ舞台はふたつとしてないから」と答える。そのことを疑ったこともない。
だが、博多座の「ナイツ・テイル」は帝国劇場の千穐楽から大きな変化を遂げており。同じ舞台と評することを個人的には躊躇する。
帝国劇場公演は素晴らしい公演だった。
だが、些細な「引っ掛かり」が残る公演でもあった。
それは「なぜ、このセリフが用いられたのか」「なぜ、この単語が、助詞が遣われたのか」「なぜ、ここにあるのか」という本当に些細な…いや、些末と言っていい程の引っ掛かりである。
裏を返せば、その程度の引っかかりしかない演目でもあった。
でも。
その引っ掛かりは喉の奥の小骨に同じく。
複数回観たというのに毎回同じシーン、同じセリフが頭にすっと入ってこない、消化されない感情が残ったりするものであったので、脚本の構造的な、若しくは翻訳の問題であろうと思っていた。
冒頭から大きく演技を変えてきた人、そしてキーマンは、シーシアスの岸祐二さんだった。
(第1幕 - 第1場 スキタイからアテネへの道中)
過日、博多座3階からの景色において記したが、シーシアスは「単純な男」という表現を11/4の公演より強めてきたと思う。11/4マチネは観劇していないが、少なくとも11/3ソワレにおいてはその表現はなかった。
その結果、「愚かな男性」と「賢い女性」という構図が明確になっていたのだが、博多に入ってからのシーシアスは三人の王妃が呼びかける通り「慈悲深き」陛下となっている。
三人の王妃の歌を聴きながらヒポリタからの真っすぐな視線を受け、深く息を吸い、ゆっくりと天を仰ぐ。その姿に、ピリソスら兵士は三人の王妃の陳情をシーシアスが受け入れたことを悟り、彼に強い視線を向ける。
シーシアスのこの造形は「愚かな男」からはかけ離れたものであった。
いくら親交があった王の為とはいえ、クリオン討伐を行うことは彼にとってベストな解であるとは言い難い。だが、彼の矜持や信ずるものがシーシアスを動かしていく様が活き活きと表現されていく。
シーシアスに生まれた「(政治面における)思慮深さ」、そして消えた「単純さ」。この影響は実はとても大きいと思っている。
おそらく帝劇公演を観た多くの人が抱いたであろう「愚かな男性」と「賢い女性」という構図が打破されたことを意味するのだ。
シーシアスはアマゾンの女王・ヒポリタを妃にすると宣言しているが、これはあくまでも「政治」でしかない。
「手かせを外してもついてきてくれるか」とヒポリタに問うシーシアスの声はそれまでの硬質なものから柔らかく変わり。
「取引成立」との声も義務的なものではなくなった。ヒポリタの額へと落とすキスはある種の緊張を感じさせる口調とは異なりひどく優しく、温かさを感じさせるものだった。兵士たちに戦いの準備を告げるシーシアスが放つ硬質なセリフとの差が彼を偉大なる大公に変貌させた。
帝国劇場前半ではヒポリタもシーシアスも「かたくな」であった。
ピリソスがヒポリタの妹たちをスキタイへ迎えに行く際に「ピリソスは去り、愛は育まれよう。そうであってくれ」というセリフがあるが、ここがひどく浮いたー咀嚼するには時間のかかるひとことになっていた。
シーシアスに育むべき愛、すなわちヒポリタに対する無自覚な愛があるようには見えなかったのだ。
それが帝国劇場の千穐楽直前から、シーシアスがヒポリタへの興味ーやさしさといった方がいいかもしれないーを示すようになったことで、唐突感がなくなった。
そして、博多座にきて、シーシアスはその無自覚な愛を真っすぐに表現するようになった。気が付いていないのはシーシアス本人だけ。妹・エミーリアも部下の誰もがそのことに気が付いている。
「お兄様を愛することはできない?」
エミーリアがヒポリタに問うこのひと言が俄然大きな意味を持つようになった。
また、スキタイへと向かった大公の部下・ピリソスの「そして愛は育まれよう」の台詞も同様である。
帝国劇場でピリソスが抱いたのは「そうであってくれ」という「シーシアスに対する願い」であった。そして、博多座のそれはヒポリタの妹たちを招待するという自らに課せられたミッションが達せられるときには「ふたりの距離は縮まっているのではないか」という希望を感じさせた。
芝居に正解はない。
けれども、元々素晴らしかった作品にあったかすかな違和感が霧消し、パズルがピタリとはまっていくこの感覚というのはたまらぬものがあった。
同じく、アテネサイドで演技を変えてきたのはエミーリアの音月桂さん。
(第3場 アテネへの道中)
当初は幼馴染のフラヴィーナを語るところで、意図的に「枷」を嵌めたような演技であった。それが感情を抑えなくてはという姫の自覚、立場を意識したかのような抑制の演技となっていた。
出会って間もないヒポリタの前で感情をさらけ出すというのは彼女の育ってきた環境・過程では有り得ないことだったのかもしれない。
「泣いてはいけない、でも涙がほろりと流れる」
私にはそう見えていた。
演技が大きく変化したのは11/2のソワレだった。
フラヴィーナを思い出すと胸が張り裂けそうになる…姫としてではなく人間・エミーリアの感情ーそれは音月さん自身の感情かもしれないーが出てくるようになった。
フラヴィーナに対する思いの深さがはっきりと示されたことで、やがて訪れる彼女との対面で溢れ出すエミーリアの気持ちをすっと受け入れられるようにもなった。
そして、博多座の千穐楽。
ぽろぽろとこぼれ出る涙と嗚咽は、シーシアスとの会話で一層「頑なの鎧」をまとってしまったヒポリタの心の扉を激しく叩くことになる。
キャストの誰かが「帝国劇場は戦いを挑む劇場、博多座は我々を受け止めて優しく返してくれる劇場」といったニュアンスの話をしたと聞いた。
それを実感したのはアーサイト・堂本光一さんとパラモン・井上芳雄さんが「奴を殺したのは俺だ」と言い張るシーンだった。
(第2場 テーベ市内)
「従兄弟様」と呼び合うふたりのセリフにはシェイクスピアらしいセリフ回しがある。
帝国劇場ではそれを少々大仰に、すなわち「芝居がかった」ような会話をしていた。互いの剣に付着した血が致命傷となったのだと張り合うシーンはその筆頭で、精神的に幼いふたりの騎士がムキになって言い合う様に客席からは笑い声が上がっていた。
光一さんと井上さんが同い年であるというフィルターがあるからか、このふたりを見ていると2匹の子犬がじゃれ合っているように見える。原作では、アーサイトが年長者であるが、彼らの芝居からはわずかながらにアーサイトが年上であろうということが何となく伝わるにとどまっていた。
博多座に入り、ふたりの大仰なセリフ回しが自然な会話に変わったことで、アーサイトから無邪気さが消えた。落ち着いた声のトーンと間はパラモンとの対比において精神的に幾分成熟した男性のものであるとわかる。
「ならば、ふたりでやっつけたことにしよう、従兄様」
「それで君が喜ぶのなら、従兄弟よ。そういうことにしよう。」
帝国劇場で、互いに口をとがらせながら会話をしていたこのセリフ。
博多座に入ってからは「あーはいはい」と受け流すような声が聴こえそうな表情をアーサイトがするにとどめ、一歩引く姿勢をとったことでパラモンの未成熟さが明確に見えてきた。
このアーサイトの芝居が2幕森の中でふたりが決闘するシーンでの判断の違いへとつながっていくが、それは後述することとする。
博多座がいい劇場であるということは昨年の初来福で知っていたが、しみじみいいなと感じたのはこのシーンだった。
(第4場 テーベの壁の外側にある戦場)
今回、観劇した博多座公演は3回。
3階、2階、1階とすべての階から観劇したが、いずれの席からでも作曲家やオーケストレーションをした者が意図したメッセージを明確に受け取ることができた。
帝国劇場では5回目の観劇にして、漸く2階席での観劇が実現したのだが、2階席に座って、聴こえていなかった音がこんなにもあったのかと衝撃を受けた。
また2階席からの景色を見て初めて理解できた物語の世界があまりに多く、迂闊に2階席のチケットを追加することになったのだが、博多座のそれは、帝国劇場の2階席の比ではない衝撃だった。
少し話を戻すが、プロローグ、オーケストラが奏でるオーバーチュアが観る者の心を高揚させた余韻が静寂に変わるーその「音」が聴こえた。
そして、内藤さんが打つ宮太鼓の音が一音で空間を変化させる様を観た。一閃という言葉が頭をよぎった。一打とともに朱赤に染まった空間を戦場に変えてみせた。空間が割れるような感覚とはこういうものなのかと。
不思議なことに和楽器が激しい音を奏でる際に出る甲高く割れたような音は人に不快さを与えることがない。
そして、澄み切った空気を切り裂く鋭い音が心臓を射抜きに来る感覚は博多座でしか味わうことができないものだった。また、附締太鼓(一番高く鋭利な音を出している太鼓)が脳天にダイレクトに響く感覚もまた同様だった。
オーケストレーションの中で、各楽器に役割を与えるということはよくある話だと思うが、3種類4面の太鼓の役割がひとりの人間の異なる体感に訴求するなど、考えもしなかった。
テーベでの戦いに話を戻す。
アップテンポの三味線と篠笛、尺八、低いところを支える和太鼓という絶妙な音のバランス中で展開される戦いは「クリオンの滅亡」であるが、と同時に、実は優しきパラモンの正義の描写が隠れたコアだと思っている。
クリオンの滅亡を「祝福されるべき行為」と定義するパラモンは「素直に育ったいいとこのお坊ちゃん」だなと常々思っていた。アーサイトには「家」や「公」の視点から物事を観ることができるが、パラモンはそういった意識に欠け気味だ。
アーサイトもパラモンも、信じる正義は同じであるがどちらかと言えばまだ現実路線のアーサイトに対し、パラモンは理想論者…いや、夢想的である。パラモンは鏡たるアーサイトに自分の幼さや足りなさといったものを感じるため、所在無げな自信のなさが見える。それは彼の肩に置かれたアーサイトの手に安堵する動作やアーサイトを上目に見つめクリオンについて断罪するシーンに現れている。
そんなパラモンの正義のリアリティのなさが如実に表れるのがこの戦いのシーンである。アーサイトがシーシアスの首に剣を突き付け「やれ!」と命じる中、己の剣を振り下ろすことができない。
クリオンの滅亡を実現させるであろうシーシアスの命を奪うことへの葛藤がある。私が博多座で観た3回は息を「はくっ」と飲み込む、「ううっ」と唸る、黙っていてシーシアスが跳ね上げたときに「あっ」という3パターンであったのだが、そのいずれも苦悩の声が和楽器の音に消されることなく聞こえてきたのだ。
そんなことかと思われそうだが、役者の小さな演技が3階まである劇場の最上段まで綺麗に届くというのは並大抵のことではない。帝国劇場での演技が少々大仰だと書いたけれども、帝国劇場では「少々大仰にしなければ伝わらない」が正確な表現かもしれない。
例えば、ピリソスがシーシアスの命を受け、スキタイへ行くシーン、ピリソスは「スキタイ」という言葉を一続きではなく「スキ/タイ」の2音に切って言う。帝国劇場ではサラリと流れていた言葉がある種の印象と意味を持たせたものに変わっていた。
博多座という劇場は、たったひとつの言葉を簡単に観客に印象付けさせることができる場所なのかもしれない。
シーシアスが勝利を収めると和楽器の演奏が終わり、鐘の音とともに再びオーケストラの音色が響く。三人の王妃がその勝利を祝う歌を奏でるが、鈍色の空に天使の梯子のように3本の光が降り注ぐ様を2階席から観たとき。
こんなにも美しい、インプレッシブなシーンが帝国劇場の時にあったのかと瞠目した。セリフも歌も演技も変わっていないはずなのに…だ。
Overtureが楽曲を繋ぎ「♪アテナ」に変わるときに地明かりの色が変化するのだが、その時天井を見上げ、驚いた。照明機材の数の多さ、そして照明までの距離感がアメリカ的な高さだったのだ。
帝国劇場の照明は元々かなり高い位置に引き上げられており、ミュージカルの公演ではその位置をかなり低いところまでおろしているが、博多座のそれは舞台高よりわずかに上にあり、照明の露出が随分と多い。そして、その数が圧倒的に多いのだ。
ナイツ・テイルの照明は舞台中央から広がるように構成されており、手前の地明かりにはライトにはグリーンブルーが4枚1セットが設置されている。
シェイクスピア作品のコアとなる森を多彩に表現するための配色である。その間にオレンジなどの暖色が配置されており、細かいニュアンスを加えるようになっている。
奥は見えなかったが、手前のグリーンブルーを中心にブルー~パープル寄りのブルーのような寒色が中心に配置されていると推察する。
舞台から照明用のバトンまでの高さが近いということは、色のポテンシャルが圧倒的に高いということになる。
より色がはっきり出るが故に細かな調整が難しくなるが、細やかな描写ができるようになる。光源が近いのでコントラストも出る。舞台高がある博多座ならではのセッティングがうまく機能していた。
また、スポットや地明かりの光源を拡散させる幅も実によく考えられていると思った。
バンドのライブでもあるのかと思わせるほどのたくさんのライトが吊るされていたが、パーライトも含めたライトたちが与えられた役割を全うした結果、三人の王妃が勝利を歌うその場面、頭上に横たわるどんよりとした雲が割れ、強力な光が差し込む様がありありと浮かんだ。
そこに飛び出す鳩が作り物に見えないのだ。強い光の中で陰影をたたえる鳩はクリアで、活き活きと目に入ってくる。
博多座について、音響の良さがよく言われるが、光の、照明の美しさにも是非注目して頂きたいと思っている。
なお、帝国劇場の照明にはまた別の良さがあるが、ナイツ・テイルのシンプルな舞台構成においては、より繊細な照明演出が求められ、その点、博多座の照明が圧巻だったこと、書き添えておく。
余談になるが、戦いに敗れたのちのこと。
名前を呼ばれたパラモンが狸寝入りを決め込み、顔を地面のつけたまま、視線だけでシーシアスたちの様子を伺い、彼らの会話に怯えや絶望を感じころころとその表情を変えるシーンがある。
「騎士とはかくあるべきである」との思いを抱きながらも絶命の恐怖を抱いたり絶望したり、シーシアスの「人として敬おう」との発言に反応したりー忙しい彼の表情がパラモンの内面をよく表現しており、ナイツ・テイルに数多ある大好きなシーンのひとつである。
天井桟敷であろうと、オペラグラスはできるだけ使わない派なのだがこのシーンだけは井上パラモンのその細やかに動く表情が観たく、オペラグラスを使用している。
(第5場 アテネの牢獄内)
囚われの身となったアーサイトとパラモン。
見かけの表現を変えたのはパラモンだった。牢獄の中で縮こませていた身を丸めるようになり、四肢を投げ出したアーサイトとの性格の違いが明確になった。ベッドで背中を丸くし客席を背に向け=牢獄の壁を向くパラモンの背中が泣きそうになっていた。
そして、博多座で最も自然になったもの、進化したのは光一さんのシェイクスピア台詞の言い回しだと思う。
シェイクスピアが天才と思う所以はいくつかあるが、文字だけを見ると難解で回りくどいと感じるセリフが役者が演技することによってすっと咀嚼できるという点がある。ただ、役者自信がセリフを咀嚼していなくてはならないし、それを日常会話が如くージェロルド先生に倣えば、基礎原理として骨身にしみこませ流麗に言えなくてはならないので、何を言っていたのかわからないとなるケースも多々ある。
帝国劇場初期は、特定のキャストに限らず、そういった「何を言っているのかわからない」セリフがぽつぽつとあったが、帝劇千穐楽を迎える頃には引っ掛かりはなくなっていた。
そういった中で牢獄のシーンの光一さんのセリフは少々角ばっていたと思う。少々大袈裟な表現かもしれないが、シェイクスピア劇の狂言回しを意識したような言い回しをしている感じが強かったのだ。
それは前述した帝国劇場と博多座の違いに因るものかもしれないが、力任せに持っていってた帝国劇場に対し、博多座のそれはゆったりとフェルマータをつけたようになっており、全く異なる印象を受けた。
囚われの身を嘆き、しょぼくれているパラモンに対し、余裕を感じさせるアーサイトになっていた。
似た者同士、精神年齢が幼いふたりに見えていた。ポジティブ思考というよりはお気楽な性格に見えていたものが、閉じこもりがちなパラモンの背中を叩く兄貴分に変ったのだ。
牢獄が見える庭で散策するエミーリアも、囚人たちに観られていることに気が付いた瞬間を、帝劇の「びっくり」との表現から「びくっ」と反応するにとどめた。帝劇では笑いが起きるシーンであったが、博多座では芝居の自然な流れの演技であったため、観客が反応すことはなくなっていたのだ。
この直後、彼女を見たふたりの「俺が先に見た」合戦がどうしたってくすりと笑えるシーンだけに、その直前が自然な芝居になったことで、従兄弟様たちの争いのしょうもなさがより際立ったと思う。
そして、光一さんがアーサイトのセリフを我が物にしたと最も感じたのは、エミーリアの愛し方について愛したいと語り合った後、再び「♪囚人の歌」に戻るところー両手首の手かせを打ち付けるシーンだった。
この間合いが絶妙で、もう少し早ければ互いの怒りに任せて一触即発になるし、ワンテンポ遅れればパラモンの理不尽な言い分に言い負かされたようになってしまう。
パラモンの幼稚さが招く理不尽さとアーサイトの呆れを含んだ憤りが伝わるいいタイミングだった。
そして、今更ながら間合いというのは難しいものだと感じている。
同様に、大公らにアーサイトだとばれないようにと不自然な動きを取るフィロストレートのセリフ回しもナチュラル。
セリフに気を取られないようになると、動きに神経がいきわたるので芝居行き届いたものになるという好例だった。
役の深め方とセリフ回しという点では、最初に観たときから気になっていたことがある。セノアの描写だ。
(第6場 アテネ郊外の森の中)
セノアをLGBTQのキャラクターとして登場させることに対しては、全く違和感はなかったのだが、口調が過度に作られたようにみえ、多少の違和感を覚えてしまったのだ。世間一般的にいう「オネエ」の話し方で、セノア自身の喋り口に聞こえなかったのだ。
そんなセノアのセリフ回しもまた物語になじんできて、同じLGBTQではあるものの、樋口さんの考えるセノアという人物になってきたように思う。
オネエ的な口調はあっても、強調した抑揚がなくなり、ジェロルドの周りを走り回る様子にもセリフだけでは表現できないふたりの関係性が見えるようになってきた。
ひとつのことを深める作業というのは演者や制作者にとって難しいものであるが、こういった深化がまた楽しくもある。
(第7場 牢屋)
「初めて声をかけたときから愛していた」
後日そう語るパラモンだけれども。いったい、いつから彼はフラヴィーナ=牢番の娘のことが気になっていたのかー帝国劇場での初見(10/8ソワレ)の際、最も違和感を覚えた場所がここだった。
アーサイトが去り、森の牢獄へ移送され。ひとりベッドの上で膝を抱えるパラモンから感じられたのは拒絶だった。
フラヴィーナに声をかけたのも孤独な彼の反射的なものであったと思う。
なにより、自暴自棄な部分が見え隠れするパラモンの姿勢をみるにつけ、フラヴィーナが彼のどこにそんなにも惹かれていったのか、一切見えなかったのだ。
もちろん、フラヴィーナは彼らが牢に閉じ込められたときからパラモンを知っているし思いを寄せているわけだが、いくら恋に盲目であったとしても、そんなパラモンを「我が身の平穏と父の命を懸け」てまで脱獄させようと思わせるような空気はなかったのだ。
それはパラモンも同様。「祝福されし庭」に立つエミーリアに思いを馳せるほどの気力があるようにも見えなかったのだ。
このあたりの描写が変化したのもやはり11月に入ったタイミングだった。
パラモンの牢番の娘に対する態度が柔らかなものに変化したのだ。
前半は孤独の殻に閉じこもっていたパラモンは、いたずらに、そして反射的に娘に声をかけたようであったが、後半は彼女の来訪が孤独の中のわずかな安らぎに変わった様だった。
パラモン自身に欠片ほどにも希望のなかった帝国劇場前半、それがわずかな希望に代わった帝劇後半。
そして、博多座は食事が差し入れられるわずかな時間、人と触れ合えることへの喜びが牢番の娘との会話に現れる。
さらには、フラヴィーナがパラモンのベッドを整える際、パラモンが自分に近い毛布の端を軽くつまみ、共に整えるというほんのちいさな動作がひとつ加わった。
フラヴィーナの恋心が暴走を始めるには十分過ぎるほのめかしであった。
最も、パラモン自身が無自覚なのが本当に手に負えないのだが、その無自覚さがひどくリアルなのだ。
かくして、井上さんの演技の変化が牢番の娘の恋心が猛スピードで加速するきっかけを作ったことで、この後の物語がスムーズに展開されることになった。
一方のアーサイト。
フィロストレートと名乗りエミーリアの誕生日を祝う一座のダンサーに紛れ込み、敵将シーシアスとその妹エミーリアの前に躍り出る。
(第8場 宮殿の庭)
帝国劇場ではアーサイトがエミーリアの姿に興奮し我を失う姿をコミカルに、そして動物的に表現しており。ジェロルドの説教に観客の目と耳が向かわないという状況が生まれていた。
ジェロルドの真後ろで興奮するアーサイトと彼を大人しくさせるために動き回る森の民たちというのが、あまりに騒々しく。言葉を選ばなければ、「五月蠅過ぎた」のだ。
その後のダンスシーンでも同様で、芝居のバランスが悪く感じられた。
博多座でも、アーサイトは目の前のエミーリアに興奮はしているが、芝居の進行を阻害するような動きやセリフはなく。アーサイトを御するべく、セノアが「ダメだってば」などと高い声をかけ続けていた帝国劇場とは異なり、声を出すのは最小限。動きも過度な表現やドタバタとしたものがなくなり、ワルツを踊るようにアーサイトを正しい位置へと誘導しようとする。
予定通りに踊らないアーサイトに戸惑うジェロルドやエミーリアへのアピールをする森の民、エミーリアと談笑するペンセアス、踊りの輪に加わったエミーリアを見つめる大公ーこうした芝居の要素があったことに気が付いたのは博多座にはいってからだった。
「私が女性ならば我が主人となりそうだ」
アーサイトに冠を授けたエミーリアが、アーサイト受け答えの素晴らしさに顔を綻ばせ、フィロストレートという偽名に微かな不安を抱いたことなど知らぬ大公が朗らかにこのセリフを言うようになったのも大きな変化だった。
兄として大公として「一応」はくぎを刺すという大公としての立ち位置を意識していた演技には威厳や年長者の諭しの色が強かった。エミーリアの反論に対してはNOを突き付ける空気感もにじませていた。
だが、森の民のダンスを心から楽しみ、彼らと楽しそうに踊るーおそらく見たことのないエミーリアの活き活きとした姿に破願する大公がその愉快さを残した状態で歌う「♪妹よ」があまりに魅力的で。
己が内で起こった感情を整理し、妹の顔をしながら自分の主張を兄に伝えるエミーリアと妹に甘い大公、そして思わず口をはさむヒポリタという構図が収まるべきところに収まった感覚なのだ。
アーサイト、パラモン、シーシアス。
エミーリア、フラヴィーナ、ヒポリタ。
それぞれに、いつ、彼らは恋に落ちたのか、もしくは相手を気にかけるようになったのかというのがこの物語で一番引っかかるところでもあったのだが、特に分かりにくかったのがヒポリタだった。
大公が動けば動くほどヒポリタは頑なになる。ヒポリタの気高さが正直な物言いを回避させるとはいえ、睨むような視線のヒポリタと大公然としたシーシアスが交わるとは到底思えなかったというのが私の初見感想だった。
最終的にスキタイから呼び寄せた3人の妹たちとの再会でヒポリタの心がほぐれていくのは理解できる。だが、シーシアスとの関係が成熟しない中で挙式すると言われたときのヒポリタの表情があまりに弛んでいるのが心地悪かったのだ。
それは妹たちとの再会に対する喜びではなくシーシアスに向けられた好意であり。その好意があまりに「見え過ぎていた」ことに起因すると思う。
この作品でシーシアスとヒポリタがふたりだけで対峙するシーンはない。それどころか、ふたりのまともな会話だって、ヒポリタをアテネに連行する際の数センテンスしかないのだ。
観客がふたりの関係性を見るのは、必ず誰かのエピソードに関連し、意見や思いを披歴するシーンだけ。とても難しいのだ。
だが、シーシアスがヒポリタへの敬愛や親愛の情を示し、そして人間的な魅力を振りまくようになったことで、ヒポリタが頑なな人間には見えなくなっていった。彼女の物言いはシーシアスへの反骨等ではなく、人としての意見を彼にぶつけている=彼がぶつけるに値する人物と判断するようになっているように見えた。
ヒポリタがシーシアスに直接心の内を見せるシーンはない。
でも、各エピソードを通じて、彼の人間性を強制的に見せつけられることで、ふたりの関係性が変化していく姿が見えてくる。
森の民のダンスをふたり肩を並べ見るとき、アーサイトとセノアのワルツを見て驚き笑みを浮かべるところ、そっとエスコートする姿、名前を呼ばれたときの反応…さもないシーンにヒポリタの心情を見やることでできるようになっていき、公演最終日には初見時に感じた違和感は最早霧散していた。
話を戻す。
ジョン・ケアードがアーサイトとフラヴィーナは小型犬、パラモンとエミーリアは大型犬でそれぞれが似ていると発言していたけれども。
パラモンとエミーリアの他人に対する愛情表現までも近しいものがあるいうことに気がつかされた時には思わず笑いが込み上げてきてしまった。
ふたりとも受動的であるだけでなく、心の中に芽生えたものに当初は気が付いておらず、ともすれば蓋をしようとさえしていた。そして、恋心に通じるものをそれぞれの心の中で無意識に萌芽させるようになる。
自分に自信がないからか、その芽に栄養を与えるのではなく、疑いの目を向けてみたり。棒で恐る恐る突いてみせる。
アーサイトが彼女の顔に一目ぼれをしたのは間違いないが、彼女のどこかにパラモンの姿を認めたのかもしれないなどと懸想したりすると、アーサイトはエミーリアのことを彼女自身が思っているより深く理解しているの可能性に思い当たり…ふたりの関係性が補完されていくようにも思う。
一方の、フラヴィーナ。
彼女の滾る若さか、熱しやすいの心の所為か…真っすぐに走り出すフラヴィーナを止められる人は多分誰もいない。
(第9場 ダイアナの森)
情熱のままにひとり暴走気味だった帝国劇場のフラヴィーナの目には大好きなパラモンさえも映っていなかったのではないかと思ったことがある。パラモンを脱獄させるという目的の達成が彼女にとっての最優先事項で、それが彼への好意からくるものに見えなかったのだ。脱獄の段階で彼の手かせを外すということに思いが至っていない。それが必死だったから失念していたというのではない感覚なのだ。もちろん、博多座でも手かせは外されていないが、必死に見えた博多座のそれより、周囲を全く見ることができていない感覚が強かった。
そんな彼女にパラモンは終始押され気味でーなぜ彼女はここまでのことをするのかと「いぶかしむ」感情の方が強く見えた。森をかき分け路を作っていくフラヴィーナのあとをパラモンが恐る恐るついていくようでだった。
それが、博多座ではフラヴィーナがパラモンの手を引き(実際に舞台上で手を取っているわけではない)、そしてパラモンもフラヴィーナを信じ突き進む様子が見えたのだ。
フラヴィーナの猛進の愛に、ある種の献身が加わったこと、パラモンのマインドがわずかながらに開かれた方向に動いたことで「♪昇る太陽」の歌詞がすっと腑落ちするようになった。
ダイアナの森でフラヴィーナと別れ、そして始まった鹿狩り。まだそのことに気が付いていないパラモンが森の奥でシカの一団と出会う。
シカがいるところはまるで発光しているかのような温かな空間になっているのだが、そこを見つけたときのパラモンの顔は最初からほころんでいた。
ここはどこだろうと警戒しながらシカを眺めていた帝国劇場。牡鹿と目が合ったパラモンは野生の動物に対する恐れをもって牡鹿をみていた。
だが、シカが発する光に導かれるようにやって来た博多座のパラモンは愛おしい景色を見るかのようにシカを眺め、神々しいまでの牡鹿の姿に興味と畏敬の念に近いものを抱えて近づいていく。
このシーンの振付や意味はあまりに興味深く、数多ある好きなシーンの中でも1,2を争う。牡鹿と目が合い、通じ合うものがありー
シーシアスの到来を告げるファンファーレが鳴り響く中をひとりと一匹が駆けて行く。
フラヴィーナだけでなく、鹿に対してもオープンに振る舞ったことで、牡鹿が共通の敵たるシーシアスを引き付ける役割をパラモンの為にかって出たように見えるようになったのも博多座で感じた大きな変化だった。
通じ合ったひとりと一匹が森を駆けるときー膝から下を外旋させるように走る牡鹿・松野乃知さんと、少しガニ股気味に走るパラモン・井上さんー
短いシーンだが、深い森を掻き分けながらも全力で走る様が見える、お気に入りの振付のひとつだ。
ダイアナの森でアーサイトと再会したパラモン。
(第2幕 - 第1場 ダイアナの森)
「うまいことやったな、兄弟!」
明確な愛がそこになくとも。
危険な橋を渡ってまで助けようとしてくれたフラヴィーナのことが気になって仕方なくなっているパラモンにとって、アーサイトのこの一言はさらにフラヴィーナのことを考えるきっかけとなる重要ワードだ。
自分の中で堂々巡りしていたものを他者から指摘されることで自認するというよくあるものではあるが、パラモンの意識がフラヴィーナに明確に向いていく大きな転換点ができたから。
そして、それによって「♪悔やむ男」パラモンの悔やみに苦悩がきちんと加わっていた。
帝国劇場の、まだ幼さが強いアーサイトがフラヴィーナへの感情の萌芽に気が付いていないパラモンに声をかけたシーンは、パラモンにとっては残酷なシーンであった。
「♪宿敵がまたとない友」のラスト、パラモンが天を仰ぎ鼻から深く息を吸い歌う箇所がある。
帝劇のそれはアーサイトの無邪気な残酷さをぐっと飲みこみ、フラヴィーナのことを頭から引き離す儀式のようであった。悩まし気に眉間に寄せた深いしわが、精神的に幼いパラモンを一瞬酷く年を重ねた男性に見せた。
それが、博多座では自認したフラヴィーナに対する感情を己に問い直したパラモンがー心にかかった靄を吐き出し、身体から引き離す行為に見えたのだった。
「ナイツ・テイル」の構想の中で、最初からぶれなかったキャラクターが牢番の娘・フラヴィーナだと聞いたことがある。原作には牢番の娘=フラヴィーナという描写は明確にはない。物語のコアとなるキャラクターであるからかもしれないが、東京公演の間、演技が一番定まっていたのは上白石さんだったと思う。
そんな上白石さんのフラヴィーナが大きく変化したのはこのシーンだったかもしれない。
(第2場 サンザシの茂みの近く)
「パラモン様…出てきて。やすりと食べ物よ…」
帝国劇場でパラモンを呼ぶ声は、まるで飼い犬に呼びかけるかのようなーそんな響きがあった。精神的に深い傷を負っているパラモンへかける声としてそれは正しいものだったかもしれないが、フラヴィーナの愛が占有の愛であるかのように聴こえた。
逃がす手引きをして「あげた」自分、そして彼の手かせが取れるまでは自分の庇護下にあるパラモンという無意識の占有が感じられたのだ。
だが、博多座のフラヴィーナが呼んでいたのは紛れもなく彼女が好意を寄せる愛しい人の名前だった。
勝手に好きになり勝手に終わりが来た彼女の恋。パラモンが彼女に見せた糸より細いー人間に対する親愛の表現に愛の夢を見出し、舞い上がり、そして抜け殻に至る直前の胸の高まりと甘やかなる高揚感が押し寄せてくる。
彼女の愛は独善的なものかもしれない。そして猪突猛進で、盲目的でもある。だが、彼女は自分の心に正直に、そして真っすぐに生きている。そうであるからこそ、このシーンでは「愛しき人の名を呼ぶフラヴィーナ」を期待せずにはいられなかった。
でなければ、魂が彷徨うほど深い絶望の淵に沈むこともないのだからー
最後の最後にそんな愛しき少女の姿を観られたことを観客として嬉しく思う。
このシーンが好きないくつかの理由のひとつが雌鹿に触れるフラヴィーナの描写だ。触れようとしたのは彼女が森に生きる者だからー「決して裏切らない森」という解釈もできようが、牡鹿との距離を取ってその動きにびくりとするパラモンとの対比演出が気に入っている。
そして、囁くようにパラモンを呼んだのはアーサイトも同じだった。
(第4場 森の奥深く)
迷子を捜すかのように大きな声で探していた帝国劇場。
パラモンを見つけ出すことは「俺の手で殺すためか」と悩んでいたアーサイトが、パラモンを他の誰にも見つけさせないために小さな声で呼ぶとのは自明だった。
アーサイトの大きな呼び声に違和感を抱いたことはなかったが、囁くようにパラモンを呼ぶ声を聴いた今においては遡って違和感を覚えてしまう。
「誠実でもないアーサイト」の背後よりふてくされた顔で出でたるパラモンに驚き「いいから座れ」と促すところ、「あの女性の話はするな」というふたつのセリフにも、冒頭に書いた年長者の余裕を感じさせる。
面倒事はごめんだといった投げやりさではなく、きちんと会話をした上でこの先のことを話さねばというアーサイトの配慮がにじむ。
「言えないよ」のひと言にかかるアーサイトの思い、言外にある複雑な数多の感情が伝わって来る。
光一さんのアーサイトがほんのわずかに大人になったことの好影響は多岐にわたる。だが、一番はフラヴィーナへの思いを抱きながらも「我こそがエミーリアの正統なる騎士」と宣言する不器用で愚か、素直になれない従弟・パラモンとの違いが明確になった点であろう。
元々短絡的なうえに、正常な判断能力を失っているパラモンはこじつけに近い無茶苦茶なロジックを並べ立て、アーサイトの配慮や忠告を無視する。
アーサイトはパラモンをひっそりと逃がし、テーベに帰したかったに違いない。だが、ふたりが似たり寄ったりの幼さを見せてしまうと、アーサイトの忠告がパラモンの身を案じるものから追いやる言葉へと変わってしまう。
結果、「逃げろ」「破滅する」といったセリフの意味が失われるような錯覚に陥るのだ。
シーシアスの前にふたりが引きずり出されるに至るまでに、冷静さを失ったパラモンとぎりぎりで己を見失わず状況を俯瞰するアーサイトという構図が絶対に必要だった。
そのために、アーサイトが精神的にわずかでも成熟しているということは本当に重要なポイントだった。
そして、このふたりの従兄弟様たちが手に負えず、また、まったくもって面白いところは、裁可者ーそれもこの場合、敵であるシーシアスーを目の前にすると、アーサイトが賢さのかけらを投げ捨て、愚かさの体現者パラモンと同じ場所へと堕ちていくところにある。
シーシアスに決闘と死を乞う馬鹿なふたりのセリフの応酬はシェイクスピア劇で最も楽しいセリフのやり取りのひとつだと思っている。
シーシアスが口をはさみたくてもはさめないという状況を作るにはアーサイトとパラモン、そしてペンセアスの茶々がセリフとして、でもリズミカルに進行せねばならない。
ふたりのセリフのテンポがよくなり、なめらかになったことでそこで右往左往するシーシアスの戸惑いや人間性、単純さ、ふたりへの憧憬といったものがよりクリアになった。
今にして思うと、帝国劇場の「ナイツ・テイル」は随分と笑いに満ちた公演だったように思う。キャラクターの輪郭をくっきりさせるために、少々大仰にしていたからである。
ただ、その笑いを取るシーンが本当に必要だったか否かは検討の余地があると思っている。
「狂ってる」
そうつぶやいたのは、盲目の愛を振り向けられたエミーリアだった。
恋に盲目になったふたりの騎士と兄の部下、あまつさえ兄でさえどちらかの騎士を選んで結婚せよと満面の笑みでエミーリアを見つめている。
エミーリアは心の内を吐露するきっかけとして客席に向かい「狂っている」とのセリフを口にするが、帝劇のそれは観客に「この狂った男どもを見て」という「語りかけ」であった。顔を客に完全正対し放たれたこのセリフに客席にはくすくすと笑い声が広がった。
だが、博多座では、目線を少し斜め下に落とし、自己整理をし呟くようにセリフを吐き出した。かすかな反応はあったが総じて客席は静かだった。
エミーリアの敬意ある誓いを観客が理解するには、帝劇公演におけるこの笑いは不要だったのかもしれないと今は思っている。
そして、人々が去った後、夜の森でエミーリアが歌う「♪ヴィーナスとマルス」は至高だ。この演目はどこを切り取っても魅力的なのだが、照明・演出・歌声ーそのすべてが結集されているこのシーンは目頭を熱くすることなしに観られない。
余談だが、アーサイトにフィロストレートを名乗らせるジョン・ケアードのセンスがたまらなく好きだ。シェイクスピアの「真夏の夜の夢」に登場するシーシアスの家来がまさに「フィロストレート」なのだ。
「真夏の夜の夢」の舞台である5月祭の大騒ぎとエミーリアの誕生日翌日の鹿狩り~パンとフローラのイベントは通ずるものがある。
そして、エミーリアの「私の顔かしら」「愛を錯覚する魔法の根っこでもむさぼったの」というセリフもやはり「真夏の~」を連想させる。
そんなことを考えていると本筋とは異なるところでくすりと笑ってしまいそうになり、己の中に湧き上がってくる笑いをこらえるのにも必死の演目であった。
体力を回復したフラヴィーナのもとにエミーリアが訪れる。
(第5場 塀に囲まれたエミーリアの庭)
フラヴィーナが過去の記憶を思い出すこのシーン、彼女の記憶が目まぐるしく再生されるところに聊かの唐突感があった。
少女がフラヴィーナであるとの確証を得られないエミーリアは優しく声をかける。少女はナルシサスー水仙の花にまつわるエピソードを思い出せるかと呟く。
「聞かせて」というエミーリアの声に、初めてエミーリアを正面から見たフラヴィーナの目が大きく揺らぎ、「聞き…たい?」という。
この目の揺らぎとセリフの間に僅かな、本当に小さな息をのむほどの間が生まれた。この小さな間が、フラヴィーナの記憶が凄まじい勢いで蘇るスペースとなったとことで、唐突感が消えた。作りこまれて進化してきた芝居の集大成を見た思いだった。
あとは皆様ご存じの通り。
「ひとりは…フラヴィーナ…だった」との言葉にエミーリアも観客も熱い思いが胸に広がり、涙があふれてくる。
再会したエミーリアとフラヴィーナは己の罪を告白し合う。
(第7場 宮廷の庭)
パラモンを逃がしたことを告白し、自身が牢獄行きであると告げるフラヴィーナに「私も一緒に」というエミーリア。
東京のそれはどこか無理をし、楽し気に話すものであった。フラヴィーナの不安を和らげるかのようにはしゃぐようなトーンだった。
だが、件の「狂っている」に同じくー博多座でのエミーリアは自分自身に向き合った感情としてその言葉を絞り出した。そこには「アーサイトを愛した」という「悪事」に向き合う女性の姿があった。
なお、この愛するという行為を「悪事」と定義するエミーリアの心理については未だ深堀の最中である。
また、何が、どう違ったのかを未だ咀嚼も分析もできていないのだが、千穐楽にして、「手を打つのよ」と歌うヒポリタに熱いものを感じ、胸がどきどきとした。これについては咀嚼できた時点で追記したいと思う。
そして、戦いの冒頭ー
附締太鼓の甲高い音が静寂を切り裂き、篠笛が不穏な空気を作り出した。
パフォーマーがいいということと同じくらい、そのパフォーマーの表現を倍加させる劇場の懐の深さに再び首を垂れることとなった。
アーサイトとパラモンの戦いに決着がつき、大公は裁可を下す。
パラモンへの思いをさらけ出すフラヴィーナ。
フラヴィーナへの愛を伝えるパラモンが、彼女の頬に添えた震える手のやさしさ。
打ちひしがれるアーサイトを覗き込むように声をかけるエミーリア。
言葉にすると陳腐かもしれない。だが、愛と互いを思う心が満ちる空間に訪れであろう悲劇に胸が切なくなった。
そして、私にとっての「ナイツ・テイル」のピースがすべて嵌ったのは「♪アテナ」のシーンであった。
帝国劇場で16回の観劇をした。最前列から2階最後方、上手下手センターとありとあらゆる席から観劇したが、2階のセンターブロックで観劇することは終ぞ叶わなかった。
その後、博多座で3階の天井桟敷に座り(11/17 観劇記)、前楽ー18回目の観劇にして、2階のセンターブロック中央に座することとなった。
戦いの赤、スローモーションの暗闇に浮かび上がる床の赤い光。
戦いが終わり地明かりとなった舞台。
そして、暗闇の中、ヒポリタが描いた蒼き炎。
ヒポリタを中心にエミーリア、フラヴィーナがアテナを呼び起こしー
グリーンブルーを基調とした照明の中、舞台中央に黄金のアテナの仮面が現れるー
初演の仮面とは異なり、ワイヤーの骨格だけで作られた仮面は光を通すようにできており。
帝国劇場のそれより強い光源で照らし出されたマスクは舞台上にもうひとりのアテナを出現させた。
アテナの光臨に合わせ、グリーンブルーの照明に地明かりやオレンジの光が降り注ぎ…3人の女性以外の色が配されていた舞台中央から自然の色彩がどっと広がるその光景に涙が止まらなくなった。
この文字を打ちながら、また涙がこぼれてきている。
あぁ、この景色を見るために私は博多までやってきたのだと、アテナが心に訴えかけるこの景色を見るために、ミュージカルでの初遠征をしたのだと思えた。
特に前楽についてはアテナが描き出したこの景色が頭を支配しており、それ以降のシーンについては何も記憶がないほどなのだ。
そして、それ以上の景色を見ることはないだろうと思っていた千穐楽ー
全てのシーンは、もう2度と見ることができないシーンだと思いながら観ていた。目に焼き付けようという気持ちが強すぎたのか、我が心持ちなのか…心が泣いているのに涙が零れることはなかった。
そして、「♪アテナ」のシーン…中央奥の通路からゆっくりと歩を進めてきたアテナ、折井理子さんを目の端に、舞台全体を見渡していた。
私が座っていた1階最後列に、未だ嘗て聴いたことのない声が聴こえてきたー
美しい声、アテナの声-
いつも聴いていたその声は少し細く、そしてアテナへの賛歌が盛り上がる中でその声を次第に大きく響かせていくものだった。心を少しずつ侵食するような、柔らかく岸辺に寄せる波のようだった。
それが大千穐楽を迎えたこの日ー
折井アテナの柔らかい響きをたたえた第一声は光の広がりと同じ速さで、会場を満たしーコーラスの盛り上がりにあわせて更に広がっていったのだ。会場の天井が割れ、光が差し込む感覚に、それまで踏ん張っていた私の涙腺が崩壊した。
アテナの独壇場だったー
「ナイツ・テイル」が今のプリンシパルキャストを迎えて再演される可能性はとても低いかもしれない。
脚本に演者、演出ーあまりに魅力的な作品に、時間ができればチケットを探し、劇場へと通い詰めた2か月弱の日々だった。
その千穐楽ー今まで過ごしてきた愛おしき時間をー自分の中に焼き付けようと思っていた。幸せだった時間を心に頭に刻み込み、鍵をかけー
いつか、その箱を開け、幸せに浸ろうと、そう思っていた。
最後の最後に、また新たな世界を魅せつけられー
私の心はまだアテネをさまよっている。
あの素晴らしきアテナの声を聴くことができた。
ただただ。幸せだった。
東京という日本のエンターテイメントが集中する場所の近くに住まっているが故に、遠征ということを考えることが全くなかった。
昨年の「僕らこそミュージック(レポート:ミュージカルに導かれた"なか""よし"が辿り着いた場所)」で初めて博多座を訪れ、それから約1年、再び「ナイツ・テイル」で訪れた博多座ー
大きな劇場であるにもかかわらず、細やかな役者の感情までも丁寧に観客に届けることができる素晴らしい劇場で、初演では一度も拝見できなかった「ナイツ・テイル」の舞台、その大千穐楽を見届けることができた幸運に感謝している。
どうしても仕事の都合で、当日の飛行機で帰京せねばならず。
本編のアンコールを見届けて劇場を飛び出すこととなった。
皆様の感想や、キャストのコメントを読んではいるもののー
私の時は大千穐楽ー2021/11/29 20:43で止まっている。
いつか、またその時が来たならばー
博多座に出向き、騎士の、わたしの物語の続きを描きたいと思っている。
最後に、飛び出す際に驚かせてしまったジョン、ごめんなさい。
生まれて初めて見たのミュージカルは貴方が演出したレ・ミゼラブルだった。帝国劇場1階上手、サブセンターの通路前方席だった。
すべてのものがきらめきを伴った記憶として私の中に残っている。
その時、エポニーヌとして舞台中央に立っていた島田歌穂さんー
私が舞台に恋をした瞬間を作って下さったそのおふたり。
35年の時を経て、そのふたりがかかわるプロダクションに再び出会えたことを、嬉しく思っている。
本当にありがとう。
また、逢える日までー
さぁ、描こう、貴方の、私の物語をー
11/17 「ナイツ・テイル」3階席からのレポート(簡易版)
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