ノートルダムの鐘 - August 2, 2022 ソワレ
7年ぶり2回目となるミュージカル「ノートルダムの鐘」を観劇。
なお、日本語での観劇は初めて。
「ノートルダムの鐘」は幼少時に観た映画に始まり、レ・ミゼラブルを切っ掛けにヴィクトル・ユーゴーを読破した際に勿論読んだし、フランスで音楽劇を観たこともある。
子供とき―映画を見たときは「醜いという理由だけで嫌われていたカジモドを可愛そう」。そして「エスメラルダのように本質を見られる人になりたい」そう思って見ていた。
自身の成長に伴い、人の傲慢さに思いを馳せたこともあるし、生まれや育ちによる差別を強く意識した時もあった。触れるたびに様々なことに思いを馳せる作品ではあったけれど。
私自分が「そこそこ」大人になったからかー
今回の観劇で得た衝撃は「カジモドではなくフロローの物語」として「ノートルダム」の鐘を観ている自分に対するものだった。
おそらく、その思いに至ったのはフロロー役の村俊英さんの秀逸な演技にあると思う。
アメリカ版フロローのパトリック・ページは厳格な聖職者であるが故に、少々肉親の情に薄く。カジモドとフロローの関係性は第三者的ー教師と子供、もっと言えばただの上下関係「だけ」に見えていた。
それ故か、カジモドに対する憎しみが先行しすぎているように当時の私には見えたのだ。
安易な言葉を遣うならばカジモドが心の奥底に積年の恨みを抱きかねないフロローとしてとらえており。カジモドが私刑を執行することに同情の余地がない印象を受けた。
一方、村フロローには身元引受人としての彼なりのぶれない正義が有る。
カジモドを世間の目から守りたい、神の御前に真っ当な道を歩ませたいと。フロローに対する態度は聖職者の立場にありながら幼い子供を諭す父親そのものであるし、威圧感だけではないものを感じさせる。
カジモドの幼さをいやがおうでも実感せざるを得ず。カジモドの私刑に対しある種の不快感を覚えさえする。
何より面白かったのは、村フロローが寺元カジモドに相対するとふたりの関係が共依存に見えたということ。
これまで、フロローが記憶力があまりよくない、言葉が回らないカジモドに対して上から押し付ける印象があったのだが、フロローの刺すような言葉とそこに垣間見える人間の情にカジモドが恐る恐るも寄り添う姿に共依存を見たのだ。
弟がジプシーとの駆け落ちすることでフロローは肉親を失う。
弟からの手紙で一瞬肉親を取り戻すが、弟の死で再び肉親を失い、残された不完全なる者=カジモドを手に入れる。
そう考えるとこの共依存の関係は酷くはまるように感じられる。
またエスメラルダの赤のスカーフとフロローの「聖」と「性」がリンクしている点が良かった。
欲を言えば大聖堂の中でのエスメラルダとフロローの語らいの段においては欲望を見せぬまま終わらせる演出の方が、聖職者としての葛藤がより感じられるのではと思っているが、これは私の好みの問題である。
アメリカ版においてフロローはエスメラルダのスカーフをしっかりとしまい込み、己の欲望を隠すという示唆的な演出があり、それに酷く納得させられたことに起因していると分析している。
寺元さんのカジモドは動きは発展途上だが、感情の起伏が魅力的。
私たちが理解し難いカジモドという人間のリアルな感情を上手く出していたと思う。
醜いと言われるカジモドのビジュアルと透明感のある水のような声のバランスも魅力だ。
一方、カジモドの声をクリアに喋らないよう作り。であるにもかかわらず、最後方にいてもクリアに聞かせ、歌とセリフの境目なく声を響かせていたマイケル・アーデンの技量はすごかったんだな、ということを今更ながら実感したことも書き添えておきたい。
これは日本語と英語の言語構成による違いも大きい。
ただ、これには演出もひとつ影響しているかなということを観劇後数日たって考えている。
アメリカ版では"The Hunchback"と言うだけあり、とてもわかりやすくカジモドの右肩を膨らませている。だが、日本においてその表現は穏やかだ。
例えば、私自身は黒塗不要論者だ。肌が黒い人の役をする際に過度の黒塗りをするのはNGだと思っている。2トーン暗い色を使う程度ならともかく、黒く塗って過度な訛りを持って表現することに対する抵抗感はある。
だが、ある種のファンタジーである本作品。かつ400年以上前の話である。カジモドの身に起きていることは呪いでなく病であることを現代の人たちは知っている。
過去にあった不幸な病であることを前提として理解している観客たちに対して上演すること。
そして、なにより、プロローグと終わりの演出を考慮すれば、その表現はあってもいいのではないかと感じた。
そのことによってもっとカジモドは自由な動きを手に入れられると思うし、物語上許される誇張であるように思っている。
これがストレートプレイであるならば今のままでいいかもしれないが、「背むし」の表現を肩の「荷物」に任せることで、役者は腹筋に力を入れやすくなる。そうなればもっと歌で表現できる幅が広がるだろうと思うと、肩の表現は余計な配慮だったように思える。
そうするとカジモドとフロローの関係性にもっと深みが出てくるし、カジモドが私刑に至る経緯もクリアになるように思えてならない。
舞台のクオリティは流石の劇団四季で、最初から最後まで何の不安もなく舞台に没入できた。
アメリカで笑いが起きていたシーン、本来、全く笑うような内容ではない場面で演出方法が面白いが故に起きてしまっていたシーンは綺麗にバッサリとカットされていたのは物語に集中するためにいいカットだったと思う。
少々気になったのは、アンサンブルがト書きを言うシーンが少々込み合っていたところ。
訳詞の問題だと思うが、台詞がビジーで少々聞き取りづらかった。誤解を生まない正しい表現に徹底したのかもしれないが、音の数に対してセリフ量が多くなり過ぎだったので、ここまでビジーにしなくてもよかったかなということは感じた。
照明構成も同じだが、その効果がクリアになっていたのは四季版の面目躍如。特に1場面で2つのシーンが同時進行しているところのサスとスポットの使い方が素敵。
一方で、勿体なかったかなと思ったのは階段の使い方。
全てをアメリカに揃える必要はないが、縦空間を効果的に使えるシーンで使用していないのは勿体ないというよりほかない。
ただ、その手法を取らなかったのは法律の壁もあるかなということは感じている。
あとは、難しいとは思うが会場の広さや音圧を考えると聖歌隊はもう少し人数が欲しいなというのは正直なところ。
恐るべき低価格で上演されているので、致し方ないけれども、個人的には値上げしてでもいいので是非聖歌隊を増やして欲しいと思っている。
また、観劇記録に生オケの良さをとうとうと語っていることを見つけ。あの重厚な音楽には是非生の演奏をということもは思わずにはいられない。
来年には東京の再演があるとのことなので楽しみにしている。
なお、もし野中万寿夫さんがもう一度キャスティングされるなら野中フロローも拝見したい。
別の演目で拝見し、絶対にフロローは当たり役だと思っていたので、とても気になっている。