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「敬意を払う」ことが「敬称を用いる」ことにつながらなくて困る
言いたいことそのものは表題の時点で終わってんなコレ。
いやね、最近の僕はどうも「敬称」が上手に使えなくて。
別にマナー講座を一席ぶちたいワケでもないし、TPOに合わせて適時使い分けましょうねで終了する話ではあるんだけども……その上でなお、文章書きのはしくれとして、相手の呼称をどう表記すべきか悩むケースが年々増えているような気がするんですわ。特に敬愛の情をもってある人の名を呼ぼうとすると、敬称の有無も種類もバラバラになってしまい、文章としてたいへん見苦しくなってしまうという。
実例を挙げたほうが早いかな。
たとえば、僕がいま個人的に敬愛している著名人第1位といってもいい米津玄師は、あらゆるシーンにおいて「米津玄師」あるいは「米津」って呼びたいんですよ。いわゆる著名人に対して敬称を略することは別に失礼なことではないし、だいいち「米津さん」なんつったら背筋がゾワゾワしてくる。米津玄師というひとりの人間を必要以上に神格化して奉り上げて壁を作ってるような気がするんだよね。
でも、僕の中での敬愛の度合いで言えばほぼ米津と同じレベルにあるといっていい庵野秀明氏とかは、もう、とてもとても呼び捨てにできないんですよ。可能な限り「氏」をつけるか、あるいは「庵野さん」と呼びたい。いわゆるオタク界隈では二十代そこそこの若造ですら「やりやがったな庵野ォ!」みたいな言い方するのが慣例みたいになってるけども、いやお前それは普通に失礼だからな、としか思わないんで。
はい、あきらかに矛盾してますね。
純粋にファンであり、その生き方や考え方にまである種の尊敬の念を抱き、あわよくばその人の発言や作品から「何か」を学び取りたいという意味で、米津玄師と庵野さんは僕にとってほぼ同じ場所にいる人なんですよ。けれども、かたや呼び捨てにすることで、かたや絶対に敬称をつけることで「敬愛の情」を表現しようとしているわけ。
客観的に考えるに「米津玄師は自分よりだいぶ年下だからなのでは?(≒庵野さんは10歳以上年上である)」と思わなくもなかったんだけど、ぼかぁ別にそこまで儒教的な価値観を重視してる保守派ってわけでもない。ゲーム屋さんなんかで働いてると年下の上司や取引先に「さん付け」することはむしろ日常だったしね。
でね。
ややこしいことにこの現象、物語に登場する架空の人物にもよく起きるんですよ。
ここからは漫画〔メダリスト〕を最新話まで読了している前提で話すので、現在放送中のアニメ版で同作を追いかけてる人には一種のネタバレをしてしまう可能性があります。警告したぞ。したからな。
さて。
ぼかぁね。いのりちゃんは「いのりちゃん」って呼びたいんだよ。だって僕は司先生じゃないから。彼女のことをひとりの選手として尊重する必要がないから。司先生のように「いのりさん」と呼んでしまうとある種の責任感を彼女に負わせてしまいそうで。強いて言うなら親戚のおじさん目線で「ローティーンの年頃の女の子」と思っていてあげたい。
でも、狼嵜光は「狼嵜光」って呼びたいんだ。この理由はうまく説明ができない。強いて言うならそれがいちばん彼女に似合っていると感じるから。がんばれ……がんばれ狼嵜光……ノーミスでFSを滑りきってくれ……! いのりちゃんのために、そして何より、夜鷹純という檻を出て君自身が自由になるために……!
な。意味わからんよな。
親戚のおじさん目線という意味で言うなら、いのりちゃんも狼嵜光も可愛い姪っ子みたいなもんですよ。いのりちゃんと光ちゃんでええやんけ。でもダメだ。いのりちゃんはともかく光ちゃんはなんかキモいねん。僕の心はそう感じてしまうのだから仕方がない。
あと、男、女、男子、女子、男の子、女の子、男性、女性の使い分けなんかもそう。いつも表記がブレてるのは承知してるのだが、自分の中でははっきり使い分けのルールがある。ただ、それは読者に伝わるものなのか。
○
問題なのは、僕がまがりなりにも「文筆業」に従事している人間だということ、なんだな。
少なくとも素人ではないので、自分の書いた文章がマスに向けて送り出されるということに対して自覚的であるべきなんだ。そして、文章を書くことを生業とする人たちはおおむね「表現が統一されていない」ことを蛇蝎の如く忌み嫌うものなのである。このno+eなんかはまあ勝手にすりゃいいんだが、こんな調子で仕事の文章まで手がけちゃった場合、編集や校正に赤を入れられるか「統一すべきでは?」って注釈ついてゲラ突っ返されるのがオチなのよ。
そんな場合、果たしてどうすりゃいいのやら。
だって、文筆屋としては失格だということは自分自身が一番よくわかってんのよ? 米津玄師を米津玄師と呼ぶのであれば、庵野秀明も庵野秀明と呼ばねばならないし、結束いのり、狼嵜光、とするべきなのだ。それが「記述のルール」なわけなので。
でも、そのルールに押し込めたら僕の心が死んでしまう。
著者権限で「全部ママ!」って言うことそれ自体は簡単なんだけども。
おかしいから直せと突っ返されたときに「俺の心情としては合ってるんだよ!」と主張して本当にいいんだろうか……?
○
なお、この自問に答えやオチは特にない。
強いて言うなら、小説における地の文みたいな三人称なら(その世界において心と感情のある存在が語っているわけではないので)記述は極力そろえましょう、で問答終了なんだけどね。
人間の心ってめんどくさいよな。
最初から破綻するようにできてるとしか思えん。
2025/02/23