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霧雨が煙る丘陵を、一千名弱の歩兵大隊が黙々と歩み続ける。
全ての兵が防水性の高い黒色の外套を纏いフードを目深に被っているために、それはさながら墓所へ向かう葬列だった。風を受け勇壮に翻るべき金獅子の隊旗も、今は湿り気を帯びて重く垂れ下がるのみ。
「……中佐。オーガス中佐」
騎馬の手綱を引く参謀の声に、オーガスは我知らず伏せていた顔を跳ね上げる。
「すまない、少し考え事をしていた」
拙い嘘で誤魔化す。この暗い雰囲気にすっかり呑まれていたなどとは口が裂けても言えなかった。背筋を伸ばし胸を張り、この大隊を預かる指揮官らしくあろうとする。
「隊の先頭が、指定の地域に到達したようです。如何しましょう」
年嵩の参謀は泰然として見え、それがまた若いオーガスの羞恥を煽った。まずは平常心を取り戻そうと、わざとらしいくらいの深い呼吸をひとつ吐いて。
「取り決め通りだ。第一、第二、第三中隊は五列横隊。北側の森と南の森の間に壁を作る。予備を含めて重盾兵を前面に厚く立てて、直後に銃剣兵だ。猫の子一匹通さぬ構えで密集させろ。曲射兵と騎馬兵は後ろへ。第四、第五中隊と共に温存する」
「恐れながら、今は、兵の足元が……」
「この程度の雨でぬかるみに填るとも思えん。端から歩みを止めて守りを固めていては、想定外のことが起きた途端に二手も三手も後れを取るぞ」
「……心得ました。では、御心のまま」
オーガスは馬上で指揮杖を振りかざす。と、傍らにいた軍楽隊が即座に反応。まずは喇叭による符丁が流れ、続いて太鼓が一定のリズムを刻み始める。それらに合わせて一千の兵が動き出し、徐々に陣形を整えていく。
(良くないな、これは……)
己を中心として動き続けている兵の足取りが、訓練時とあきらかに違っていた。あまりに重く、そして鈍い。
実戦を前にして緊張があるとか、天候が芳しくないからだとか、そんなことが理由でないことは、オーガスもよくよく承知をしていた。
この暗い雰囲気を打ち払うのも、大隊長たる己の職分と自覚はするが――。
「本当に、来るんでしょうか。敵は」
脇からの不安げな声。前列へ向かう銃剣兵を率いる小隊長だった。
「山向こうで陣を張った本隊は静かなままです。砲音も銃声もいまだ聞こえてきません。何かの間違いだった、ということは……」
「ないよ。敵は来る。必ずな。西端の国境付近から命懸けで脱出した伝令、哨戒の騎兵隊、そして気球の物見。その全てが口裏を合わせて同じ嘘など吐くわけがない」
「どうして突然……。あれから十年以上、ずっと静かだったのに」
「知らんよ、蜥蜴どもの考えることなど。ろくに話も通じんのだから」
オーガスが言う「蜥蜴ども」、正しくは爬牙族と言う。体高はおよそ六ヒルツ強、人間の成人男性と大差ないものの、太くて長い尾と異様に発達した前腕のために一回りも二回りも大きく感じる。端的に言えば巨大なイグアナか小型の恐竜かといった形だが、厄介なことに独自の言語を用いる程度の知能があり、かつ、竿状武器を巧みに扱う膂力と器用さを備えていた。
「十四年前の悪夢が、繰り返されるのでしょうか」
小隊長の声は、恐怖に震えていた。
それは、この場にいる一千の兵らの代弁でもあった。
「あの時、人類は何もできなかった。一方的に蹂躙されるだけでした。爬牙族の表皮は分厚く強靱で、一発や二発の銃弾では奴らの突進を止められない。頸も丸太のように太く、歴戦の勇士が渾身の力で叩き付けた戦斧すら跳ね返したと」
「……その話は、私も聞いたことがあるが」
オーガスは、つとめて冷静に応じる。
「誇張された話だよ。負け戦の後では、よくある」
「では、今の話も、誇張ですか」
小隊長はもはや、恐怖を隠そうともせずに。
「爬牙族は一昨日の夜遅く、西の国境を越えてきたと。推定でも三万は下らない大軍勢を前に、瞬く間に三つの砦が陥落。捕らえられた兵は男も女もなく一人残らず殺されて骸を切り刻まれ、その莫大な量の血肉をもって盛大な宴が催されたとか」
その情報は佐官以上の高級士官にのみ伝えられ、この小隊長は知らないはずだったが、オーガスは特に驚かなかった。人の口に戸は立てられぬという諺通りであろうから。
「そもそも十四年前の負け戦で、私たちは全面降伏……いえ、絶滅していてもおかしくなかった。山で、河で、浜で、原野で、森で、人類はことごとく爬牙族に負け続けたのですから。わずか三年でメセラン大陸の半分以上を失うほどに」
「……酸鼻極まる有様だったらしいな。私も父や祖父から聞いている。敵が突如として兵を退かなければ、今頃どうなっていたかわからない、と」
「単なる偶然です。私たちは本当に幸運だった。爬牙族の宗教的指導者が老いて死に、その後継者争いで揉めたとかで」
「いいや、違う。むしろ不運だった。あの頃、百年戦争で疲弊しきっていなければ、もっと早くに五族が団結できていれば、ああも好きにはさせなかった」
「その通り。ええ、中佐の仰る通りです。同じ神を信じ、同じ祖を持つ者同士が、聖典の些細な解釈違いで内輪揉めの殺し合いを百年も続けていなければね!」
「…………」
「どの賢者も口を揃えます。あれは百年戦争に対する天罰だったのだと。すっかり神のご加護を失って……そうして、悪魔を信奉する爬牙族に蹂躙され――」
「そして今度こそ、人類は滅ぶ、か?」
オーガスは、わざと声を張る。
「十四年前、我々は負けた。多くの命が無為に失われた。確かにそれは天罰だったかもしれん。が、愚かな爬牙族は何の理もなく兵を退き、我々は失った土地を即座に奪い戻した。慈悲深き神は罪深き我らを完全にはお見捨てにならなかったのだ。誰もがそれを悟り、悔い改め、聖都にて宗派の違いを超えて団結し、神聖なる誓いを交わした。そうしてひとつとなった我らは、二度とあのような悲劇を繰り返すまいと決意し、襟を正し、邪悪なる軍勢へ対抗すべく軍備を着々と整えてきた。その証したる我が隊を見ろ。参謀には永き民。前列で重 盾を担う剛の民。騎兵隊が駆るのは育みの民が手塩に掛けて育てた名馬ばかり。そして、諸君らが手にする最新鋭の軍用銃。十四年前とは何もかもが違う!」
それはもはや、ここにいる全ての兵に向けた激励だった。
「恐れるな! 臆するな! 爬牙族どもが束になって押し寄せようと、もはや人類が負ける道理など何一つない! 蹴散らせ! 殺せ! 躊躇うな! 悪魔を信奉する蛮族どもに、聖祖の子たる我らが裁きの刃を振り下ろす時が来たのだ!!」
オーガスのその声が、霧雨に溶けて消え去るまで、少しの間があった。
そして、兵の誰かが言った。「神のご加護を!」と。大声で。
死を恐れるな。敗北を思うな。神は必ず我らをお救い下さる。戦いに勝たせて下さる。そんな想いを込め、皆が大声で一斉に唱え始める。神のご加護をと。それは幾重にも重なり、大きなうねりと化していった。
「至高神エルの御心のままに!!」
オーガス自身もそう叫び、指揮杖を持つ手で天を衝く。勇気を奮い立たせる兵たちに応える。一千の兵たちの間にはもはや、先刻の重苦しい空気など微塵も漂っていなかった。
その高揚感の中で。
「……申し訳ありませんでした、中佐」
悲観的な発言を繰り返していた小隊長が、頭を下げ、逃げるように去ろうとする。
オーガスは、その小隊長の背中に声を投げた。
「助かった。君のお陰だ」
小隊長が振り返る。目を丸くして。
「私だって、怖くてたまらん。こんなものは空威張りだよ。みんなそうだ。……戦場に臆病さは必要だ。蛮勇よりよほどいい。お互い、生きて帰ろうな」
その言葉に、小隊長は表情を引き締めた。敬礼。そして駆け足で去っていく。
「お見事でした」
傍らで控えていた参謀の一言で、オーガスはようやく素の顔に戻る。
「見事もクソもない。やっと最低限だ。ここからだぞ」
「御意」
そうして、オーガス麾下の大隊が陣形を整え終えた頃に。
「……始まった」
誰ともなく呟く。軍の本隊がいる山向こうから、砲声、銃声、兵たちの雄叫びや断末魔の悲鳴が入り交じった木霊が届いてきたのだ。
そこでどんな戦いが繰り広げられているのか、オーガスと一千の兵に知る術はない。が、もしも爬牙族の中に、大規模陸戦のいろはを理解している指揮官が一人でもいるとしたら。
「この丘陵地帯は、我が軍の生命線になりうる」
参謀から乗馬の手綱を受け取りつつ、オーガスは言う。自らに言い聞かせるように。
「一個大隊が通るにも苦労する狭い土地だが、少数精鋭の騎馬隊なら問題ない。本隊の脇腹をいくらでも刺しに行ける。そして、戦局の推移次第では……」
「我が軍の総司令部を直接攻めることも可能かと。それほど致命的なルートに化ける可能性があります。故に、爬牙族は必ずここを押さえに来る」
「かつての戦役で人類側が敗北を重ねた大きな理由のひとつは、奴らを愚鈍な蜥蜴にすぎないと見下していたことだ。火器も持たず、力任せに戦うしか能がないと。……だが実際には、奴らは人類と同等かそれ以上に知恵が回り、そして、獰猛で残忍だった」
「人間の指揮官は特に、相手の見た目で能力を決めつけがちな悪弊があります。自惚れも強い。この地上でもっとも優れているのは、神に祝福されし万物の霊長たる我らだと。そうして目が曇り、戦場で現実に起きていることすら見えなくなるのです」
「やれやれ、耳が痛いな」
「いいえ、中佐。ここでもっとも反省すべきは、当時、意見具申を躊躇った私たち永き民です。隊内で意見が衝突することを厭い、賢しらな保身に汲々として皆が口を噤んでいた。これでは聖祖に与えられた長寿も持ち腐れ。どれだけの月日を学びと思索に費やしたとて、何の意味もない」
「頼りにしているぞ。気付いたことがあれば、いつでも、何でも言ってくれ」
そのオーガスの言葉の途中で、エルフの参謀が突然顔色を変えた。外套のフードを撥ね除け、氏族の特徴である長く大きな耳を外気に晒す。
「……来ます。正面からこちらへ、真っ直ぐに。ヴェロケクスの足音。爬牙族が乗用する馬擬きの竜脚類です。数はおよそ、百……いえ、二百」
「間違いないのだな?」
「十四年前、嫌というほど聞かされましたから」
「最前列の重盾兵に対騎兵槍を構えさせろ! 次列の銃剣兵は直ちに弾丸を装填! いいか、焦るなよ、敵が見えてもまだ撃つな、充分に引きつけるんだ!」
その指示が指揮系統を経て全隊へ行き渡り、各兵が準備を始めた頃には、オーガスの耳目にもその存在が捉えられるようになっていた。霧雨の作る白いカーテンの向こうから、馬ほどの大きさがある駝鳥に似た生物の群れが一塊になって猛然と突っ込んでくる。
そして、その生物の背の上には、曲刀に似た長大な武器を構える爬牙族の戦士たち。
「今だ、撃て!!」
指揮杖を振りかざしてオーガスは叫ぶ。命令系統を通じて全軍へ指示が行き渡るまでの時差を考慮した上で出した、これ以上ない完璧な指示――の、はずだった。
軍用銃のトリガーが引き落とされ、火打ち石が散らした火花が火皿へ届かんとするその刹那。爬牙族の戦士たちは騎乗するヴェロケクスの腹を一斉に蹴る。
ヴェロケクスが、跳んだ。
オーガス隊が放った銃弾は、そのほとんどが爬牙族の戦士に当たることなく虚しく地面を穿って終わる。他方、爬牙族の戦士を乗せた二百騎のヴェロケクスは疾走と跳躍の勢いに任せて宙を舞い、その放物線の頂点、およそ十ヒルツ強の低空で翼を広げた。
「……なっ?!」
ヴェロケクスの翼は、とても空を飛べるようなものではない。短く、狭く、まばらに生えた羽毛と翼膜を合わせてほんのわずかな間の滑空を可能とする程度の代物だったが、戦列歩兵の最前線、対騎兵槍を構えた重盾兵の頭上を越えていくには充分だった。
一斉射撃を終えたばかりで無防備になった銃剣兵らの頭上へ、ヴェロケクスらが次から次に降ってくる。必殺の銃弾を雨霰と浴びせるべく密集していた銃剣兵たちに逃げ場はない。そのままヴェロケクスに踏み潰され、頭が割れ、胴が割け、手足がもがれ、鮮血が噴き上がる。
「馬鹿な、こんな、十四年前には一度も……!!」
参謀が狼狽する間にも、数百騎のヴェロケクスが勝手気儘に跳ね回り、銃剣兵らを手当たり次第に踏み潰していく。その背の上にいる爬牙族の戦士たちも滅多矢鱈に武器を振り回した。次から次に血が流れ、あっけないほど簡単に友軍の兵が死んでいく。恐慌状態に陥った者たちが逃げ惑い、掻き乱された戦列は阿鼻叫喚の巷と化した。
「第一、第二、第三中隊は散開! 友軍の最前列を越えてきた敵からとにかく距離を取れ! 後方の第四、第五中隊は着剣! 銃剣による白兵戦に備えろ!!」
大隊指揮官のオーガスはまだしも冷静だったが、必死に叫んだ命令はなかなか伝達されない。交戦中の兵たちは自分の身を守ろうと精一杯。着剣もされていない銃を棍棒のように振り回すか、前後左右もわからず逃げ惑うか、黙って殺されるかの三者択一だった。
戦列が乱れ、崩れていく。統制が失われていく。
「参謀、しっかりしろ! 予想もしなかったことが起きるのは戦場の常だ! ここからどうすれば立て直せる?! 考えろ、私に策を示せ!!」
「……ッ、銃剣突撃による白兵戦に移行するのは得策ではありません。それでは爬牙族の思う壺、向こうの得意な土俵に自ら上がることになります」
「敵はもう最前列を越えてきているんだぞ?!」
「だからこそ、戦列を下げて再構築すべきです。後方に温存した第四、第五中隊のみで最前列を引き直す。そして、可能な限り迅速に、敵に対して再度の一斉射を」
「味方に味方を撃てというのか?! 混戦状態なんだぞ!!」
「それができなければこの戦局は持ち直せません!」
オーガスの頭にかあっと血が上る。無能な参謀め、理屈ばかりが先走る頭でっかちめ、今まさに命を危険に晒している兵たちを全て見捨てろというのか、これだからエルフは使えないんだ。そう罵倒しそうになる。
が、喉元まで出かかったその言葉をオーガスはかろうじて呑み下す。この戦況下で大隊長と参謀が意見を違えて口論を始めたら、それこそこの隊はおしまいだ。兵たちはこの戦いに勝てる見込みはないと見切りをつけ、千々に散って逃げ始めるだろう。
逡巡している時間もない。オーガスは血が流れるほど強くきつく唇を噛み、その痛みによって今まさに蹂躙されている友軍を見捨てる覚悟を決めた。温存していた後方の第四、第五中隊に向かって指揮杖を振りかざす。
「あ、っ、あああああッ……!!」
後方の兵たちの様子がおかしい。指揮官である自分を見ていない。かといって、ヴェロケクスに蹂躙されている友軍を見ているわけでもない。
南北に広がる森のほう? それとも、はるか前方? 丘陵地を白く薄く覆う霧雨が作り出した白いカーテンの向こう側か?
首だけを捻って兵たちの視線を追ったオーガスは、その姿勢のまま絶句。先行してきたヴェロケクスに遅れる形で、爬牙族の歩兵たちがこちらへ行進してきているのだ。その数は四百や五百どころではない。およそ一千。こちらの総員とほとんど変わらない。
「これでは……温存した兵で、最前列を引き直しても……」
それは参謀の声だったのか。それともオーガス自身が漏らした絶望の声だったのか。
――と。
『良くないな。完全に押されている』
誰かの声。オーガスの耳元、いや、左肩の少し後ろあたりから聞こえてきた。
半ば反射的にそちらを見る。が、誰もいない。何もない――わけでも、ない。
「蛍……?」
光る何かが、オーガスの左肩付近をふわふわと漂っていた。
『おや、オーガス。君には見えるのか、妖精が』
光を放ちながら空を漂うそれから、どこか聞き覚えのある声がする。
「閣下? サオマ准将ですか?!」
『驚いたな、声も届くか。君にエーテル適性があるとは思わなかった』
「ほ、本当に閣下なのですか?! 本隊は無事ですか?!」
『こちらは問題ないよ。だが、君の隊が抜かれては少々厄介だな。……今すぐそちらに近衛隊を送る。まずは敵のヴェロケクス隊を叩こう、その隙に味方を立て直せ』
そして、漂っていた光は唐突に消えた。
「? 閣下……閣下?!」
「……佐、中佐! オーガス中佐!! 私の声が聞こえますか?!」
今度は下方、騎乗している馬の傍らからの声。エルフの参謀だった。
「我が隊はもう保ちません、撤退命令を! 留まっても死者が増えるだけです!」
「参謀、君には声が聞こえなかったのか……? 今、この辺りに、蛍のような光が」
「中佐、しっかりしてください!! 今は一刻を争いま――うわっ」
エルフの参謀が、誰かに背を押されてよろめき、その場で膝を折る。
全身を白銀の鎧に包み、長剣と盾で武装した騎士がそこに居た。
百年も二百年も昔から時を超えてきたような古めかしい装備のその騎士は、オーガスと参謀の脇を通り過ぎて真っ直ぐ前へ。友軍の銃剣兵を蹂躙しているヴェロケクスへ向かい、盾を構えて猛然と駆け出した。ヴェロケクスに体当たりを敢行しようとして。
しかしそれは、身一つで五倍以上の体重差がある相手に突撃するということ。幼い子供が大人に向かっていくよりはるかに分が悪い。ただ死にに行くも同然だった。
――ガアンッ。
猛然と走る馬車と馬車が正面から衝突したような、凄まじい音が戦場を疾る。吹き飛ばされたのだ。文字通りに。その衝撃に耐えきれず高々と宙を舞い、勢いよく地面に叩き付けられてそのまま絶命した。騎士ではなくヴェロケクスが。
ヴェロケクスの背に乗っていた爬牙族の戦士は、達磨落としの頭のごとく騎士の足元へ落ちる。血と雨を吸った汚泥にまみれて転げ回り、それでも即座に立ち上がろうとしたが、その首は騎士の振るった長剣によって粉々に叩き潰された。それはもはや剣というより、一ルフトンもの重さがある巨大な鉄鎚による一撃だった。
白銀の騎士が身を翻し、次のヴェロケクスに向かって突進していく。その結果は先と全く同じ。ヴェロケクスも、爬牙族の戦士も、何もできないままひとりの騎士によってあっけなく叩き潰された。そしてまた次のヴェロケクスも。
「あれは……あの騎士は、友軍、なのですか?」
エルフの参謀は、もはや呆然と呟くのみ。
「近衛隊を送る、と、閣下はそう仰ったが……」
才能のある者が鍛錬に鍛錬を重ね、体内の闘気を自在に使えるようになると、正に超人のごとく戦うことができるようになる。そういう伝承がこの地にはあった。子供たちに人気のある邪竜退治の英雄譚は、決して荒唐無稽なお伽噺ではないのだと。
「しかし、いくら強くても、一人では……。嬲り殺しにされるだけです」
実際、瞬く間に三騎を失った爬牙族は、何か異常なことが起きているとすぐに察したらしい。人類の喉では発することのできない奇怪な声で鳴きながら、周囲にいた五、六騎が連携して一斉に騎士へと襲いかかった。ヴェロケクスの跳躍力を活かした巧みな連係攻撃に、さしもの騎士も防戦一方。立っているのが精一杯といった風に追い詰められていく。
「いや、しかし……。あれでもまだ、立っていられるとは……」
その凄まじさはオーガスも理解はするが、いかんせん戦況としては何一つ変わっていないのだ。前面に展開した戦列は数百騎のヴェロケクスに蹂躙され続けていて、遠くからは一千近い爬牙族の歩兵隊が少しずつ歩を早めて押し寄せつつある。
一刻も早く、全隊へ撤退命令を出すより他に、術はない――。
「……? 何だ、この声は」
それは呟くようでもあり、歌うようでもあった。南の陸央海を越えた先にある砂漠の国、異教の王朝ルガ・キニで用いられている言葉に似ていることにオーガスが気付く頃には、呪文の詠唱は終わりを迎えていた。
「雷よ走れ、眼前の敵を容赦なく薙ぎ払え!!」
轟音。閃光。戦場に突如として雷が落ちる。それは、白銀の騎士を取り囲み責め立てていたヴェロケクスと爬牙族の戦士だけを一瞬のうちに焼き尽くした。
「……魔術師まで」
オーガスが我知らず呟いた。頭から足先までをすっぽりと異国風なローブに包み、男か女かもわからない魔術師が一人、参謀の脇を通り過ぎて眼前の戦場へ向かっていく。
十四年前、爬牙族に滅ぼされかけたことを期に、評議会や元老院は恥も外聞もかなぐり捨てて異教徒のルガ・キニ朝にまで助けを求めたという。門前払いも覚悟の上だったが、使者たちはみな国賓として迎えられた。メセラン大陸が爬牙族に滅ぼされれば、次はルガ・キニ朝が危なくなると思ったらしい。王家の一部で秘匿されていた宝物――世界に遍く存在する魔力を操り、様々な超常現象を引き起こす魔法理論――を惜しむことなく開示してくれたという。
魔術師がいるというなら、先刻、白銀の騎士がいきなり現れたのも合点がいく。魔法による瞬間移動は、千年以上前の旧帝国期には誰もが日常的に使っていたというから。
「しかし、あんな軽装で戦場に出るなど……」
二度目の雷が放たれる頃には、爬牙族の戦士たちもこの異変に気付いていた。魔術師の出で立ちは戦場においてあまりに目立ちすぎたのだ。相当数のヴェロケクスが銃剣兵を蹂躙している場合ではないと理解し、危険な魔法使いを排除すべく殺到する。
その魔術師を護るように、白銀の騎士がヴェロケクスの行く手に立ち塞がった。
が、騎士が一度に戦える相手の数には限度がある。何騎かのヴェロケクスが騎士を迂回し、あるいは頭上を飛び越して、呪文を唱え続けている魔術師へ襲いかかる。厄介な攻撃魔法を発動させる前に殺してしまえ。あまりに単純で、あまりに正しい判断だった。
――そこへ、一閃。
細身の曲刀を引っ提げてふらりと現れた軽装の剣士が、敵の一団の間を風のように駆け抜けていく。ただそれだけで、ヴェロケクスの脚が、爬牙族の腕や首が、次から次へと斬り飛ばされていく。一騎たりと魔術師の前へは辿り着けない。
「……そんな、嘘だ」
エルフの参謀は我が目を疑った。歴戦の勇士が渾身の力で叩き付けた戦斧すら弾き返す、爬牙族の表皮はそれほど強靱なはずだった。それがどうだ。この剣士が振るう刀の前では薄紙も同然ではないか。
「これが、斬術……。扶桑ノ国の侍」
人類が生き残るためには――爬牙族に対抗するには、ひとつでも多くの人類生存圏に接触し助力を請うしかない。そう考えた人々が、キャラベル船四十三隻にも及ぶ大規模な調査船団を編成して世界中へ散っていった。しかし、帰還したのはわずか一隻。極東にある島国〔扶桑ノ国〕に辿り着いたガーズィ号のみだった。
報告によると、扶桑ノ国は修羅の国であったという。神の加護も奇跡もなく、爬牙族よりもさらに質の悪い人食い鬼や魑魅魍魎が湧く魔境だった。だがそれ故に、この国の人々は敵がいかなる存在であろうと一刀のもとに斬り捨てる術を追い求めた。メセラン大陸ではおよそ生まれ得なかった特異な戦法〔斬術〕を発達させていったのだ。
ただ、斬術を十全に駆使するには、身軽でなければならない。白銀の騎士のように、全身を金属鎧で覆うわけにはいかなかった。
「……ああっ?!」
爬牙族の戦士が破れかぶれで振り回した武器が、運悪く侍の身体を掠める。それだけで侍の右腕は断ち切られて宙を舞い、肩口から背へと伸びる致命傷を負う。
そして、一人で可能な限り多数を引き受けてきた白銀の騎士も、もはや限界に達しつつあった。四方八方から斬り付けられ殴りつけられ、鎧の下にある生身の身体を少しずつ損なわせていった。騎士は思わず盾を取り落とし、片膝をつく。
すかさず、爬牙族の戦士が棍棒のような太い腕を振り回して騎士の腹部へ叩き付けた。鎧越しであってもその衝撃は耐えがたいものだったのだろう。被った兜の面頬、その隙間から、吐き出された赤い血の飛沫がはっきり見えた。
しかし、それは終わりを意味しない。この大陸には神の奇跡が実在するのだ。
「神よ、どうかお慈悲を。傷ついた同胞を癒やし給え!」
力強い祈りの言葉だった。普段は寺院や修道院に籠もり、この世の安泰を願って祈りを捧げている高位の司祭が、鎧に身を固めて鎚鉾を手にしてこの戦場に立っていた。
司祭の祈りはすぐさま天に届き、今まさに頽れんとした騎士の身体をたちまちに癒やしてみせた。千切れ飛んだはずの侍の腕すら元通り。勝利を確信していたであろう爬牙族の戦士たちは無惨に叩き潰され、あるいはなます斬りにされる。
そして、騎士と侍によって守られた魔術師は、長く複雑な呪文をついに唱えきった。
「地獄の業火よ、悪しき者どもを骨ひとつ残さず焼き尽くせ!」
凝縮した膨大な魔力が爆発的な閃光となって戦場を覆う。それは魔術師の視界内にいたヴェロケクスと爬牙族の戦士たちを残らず全て焼き尽くした。骨の髄からいきなり燃え始めた彼らは、叫び声ひとつ上げることも許されずに灰の塊と化したのだ。
オーガス麾下の兵たちは、誰も彼もが呆然としている。無理もない。つい先程まで全滅の瀬戸際にあったのに、わずか数名の活躍で戦局が覆ってしまったのだから。
だが、戦いはまだ終わっていない。
白銀の騎士が。魔術師が。侍が。司祭が。津波のように押し寄せてくる爬牙族の大軍へ向かって駆け出す。千に近い大群を前にして、怯みもせずに。
「……ッ、何をしている! 全隊、あの勇士たちに続け!」
けれど、オーガスの声が届いた範囲は限られていた。一度ズタズタになった命令系統はそう簡単に回復しない。末端の兵の中には今の隙に逃げ出そうとしている者すらいた。
「軍楽隊、全隊に活を入れろ!!」
いきなり叱りつけられるように指示が飛び、軍楽隊の指揮者が背筋を伸ばす。
だが「全隊に活を入れろ」と言われても、具体的に何をすればいいのか。
「なんでもいいんだ! あの勇士たちの活躍を称えるような、できるだけ派手な曲を奏でろ! 俺たちは負けてない、勝ってるんだと知らせるんだ! 急げ!!」
戦場にはおよそ似つかわしくない、まるで戦勝後の凱旋かのようなマーチが鳴り始める。と同時に、オーガスは手近にいた旗持ちの兵から銃剣と隊旗をひったくる。そして乗馬の腹を思い切り蹴った。
「気付いた者から俺に続け! この金獅子の旗と共に走れ! 俺たちは負けない! あの勇士たちがいる限り、俺たちは絶対に負けないんだ!!」
声を振り絞って叫びながら、オーガスは勇士たち――近衛隊の後を追う。
近衛隊。
それは、エーテルを駆使して戦う、剣と魔法の精鋭部隊。
後にその指揮官として頭角を現し、大公の位へ上り詰め、爬牙族との戦役を人類の完全勝利へと導いていく〔オーガスⅠ世〕の物語は、まさにここから始まったのだ。