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「自立=一人暮らし」ではない、自立の本当の意味。

最近、一般的には「当たり前」と思われている言葉の意味について考えている。

今まで疑いすらしなかった言葉の意味、概念、常識といったものと向き合い、真っ白な頭の中でもう一度よく考える。そうしたことをしていると、今まで思い違いをしていたことや、間違った捉え方をしていたことに気づく瞬間がある。イメージとしては、がんじがらめにされていた鎖を引きちぎるような感じだ。

このエッセイで改めて考えていく言葉は、「自立」の意味についてである。自立は現代人にとって人生の大きなテーマであり、重要な概念でもある。しかし、この自立という言葉に苦しんでいる人が多いのも事実である。

現代では「自立=一人暮らし」と短絡的に考えられているが、はたして人は親元を離れて一人暮らしをしているだけで自立していると言えるのだろうか?


一人暮らしすれば自立?

近年、「自立できていない大人が増えている」とよく言われる。だが、そもそも「自立」という言葉がどういった意味なのかを真剣に考えたことがある人は少ないのではないだろうか。

個人的な意見ではあるが、現代では「自立」という言葉の意味が捻じ曲げられているように感じる。というのも、現代では一人暮らしすれば自立しているという認識が当たり前になっていると感じるのだ。

人は成長していくにつれ、知らないうちに言葉の鎖に縛られてしまう。周りの大人たちが当たり前のように使っていた言葉の意味をそのまま受け取り、自分の頭で考えることなく受け入れてしまう。そのため、大人たちが間違った概念を持っていると、後の世代の人たちまで間違った概念を持ち、間違った考えをあたり前だと思ってしまう。

自立はまさにその典型例である。


現代の「自立」は経済的な自立

おそらく、大多数の人たちは「自立=一人暮らし」という考えを持っているだろう。就職して自分でお金を稼ぎ、親元を離れて一人暮らしをし、自分のことは自分でやる。それこそが人として自立することなのだ、と思っている人は多い。

たしかに、自分で自分が生活するためのお金を稼ぐことは大切だ。大人になっていつまでも親からお小遣いを貰って生活しているのは、とてもじゃないが自立しているとは呼べないだろう。

しかし、自分が生活するためのお金を稼ぐというのは、自立という言葉に含まれた一つの意味にすぎない。つまり、「経済的な自立」という意味である。

だが、経済的な自立が人として自立していると証明することにはならない。ここが多くの人たちが勘違いしてしまう部分だ。「自分でお金を稼いでいれば自立している」「一人暮らししていれば自立している」と考えるのは、経済的な側面からしか自立という言葉を考えていない。

だからこそ、世間的には自立しているように見えても、人間的には子どものような大人が世の中にたくさん存在するのだろう。まさに見た目は大人、頭脳は子どもの逆コナン状態だ。

「自立=一人暮らし」という考えは、自分で自分の首を絞め、現代社会で生きづらさを感じる原因にもなってしまう。これについては後で詳しく述べていく。

そもそも、「一人暮らしすれば自立している」という認識は、不動産屋が儲けるためにつくられた言葉である。「子ども部屋おじさん」などはまさにその典型例だ。自立とはお金のあるなしで測れるものではない。人間性の自立にはもっと別のものが必要なのだ。


人間関係の自立

さて、自立した大人に本当に必要なのは何だろうか? それは、精神的な自立である。

いくら経済的に自立していたとしても、精神的に自立していなければ一人前の大人とは言えない。もちろん、精神的に自立していたとしても、経済的に自立できていないのであれば、本当の意味で自立した人間とは言えない。

精神的な自立とは、人間関係の自立にほかならない。つまり、他人に依存したり執着せず、自分一人だけでも人生を楽しく生きられる精神のことを指す。

とはいっても、精神的な自立をするために人間関係を断ち切る必要はない。家族や友達、恋人や同僚と楽しい時間を過ごすことも、人生の醍醐味であり幸せの形の一つである。ここで述べているのは、他人に対して過度に依存や執着、期待をしてはならない、ということだ。

精神的に自立できていない大人は孤独耐性が低く、ちょっとでも寂しさを感じると、友達と遊ぶ約束をしたり恋人に電話をかけたりする。一人でいる時間の孤独感に耐えられず、常に誰かとつながりを求めるてしまう。一日中SNSばかりチェックしている人に対しても同じことが言えるだろう。

彼らは精神的に自立できていないがために、他人に依存して執着することでしか楽しさや充実を感じることができない。そうした人たちは経済的には自立していたとしても、精神的に自立しているかどうかは怪しい。

孤独と友達になれず、一人の時間は寂しさを感じる時間でしかなく、常に「誰か」がいないと日々が充実しない。人とつながることでしか自分を満たすことができない。これが本当に自立した大人の姿だといえるだろうか?


自立に取り憑かれる現代人

そもそもの問題として「社会人=自立しなければならない」という風潮はいつから生まれたのだろうか? 「一人暮らし=自立」という認識はいつから世間の当たり前になったのだろうか? そして、大人になれば必ずしも自立して一人暮らししなければならないのだろうか?

よく、大学生などがお金がなくて困っている姿をSNS上でも見かける。大学生に限らず、社会人になっても給料が低く、満足した生活を送れないと述べている人も多い。お金に関する悩みは全世代共通のものであり、若者から大人まで、多くの人たちがお金に対する悩みを抱えている。

そうした悩みを吐き出している人を見ていつも思うのだが、なぜ経済的な悩みを抱えているのにも関わらず、実家を飛び出し一人暮らしをしているのだろうか? なぜお金がないとわかっていながら、お金がかかる生活をわざわざ自分で選んでしまうのか?

おそらくほとんどの人は「自立」することに取り憑かれている。社会人になったら自立するのが当たり前、大人になったら親元を離れて自分の力で生活するのが普通、そうした世間の常識や当たり前を自分で勝手に背負い込み、自分で自分を追い詰めてしまっている。


自立というイデオロギー

「一人暮らし=自立」という認識を持っている人は、「社会人になったら一人暮らししなければならない」という世間の当たり前を背負い込む。一人暮らしして自立していれば、自分が人間的にしっかり生きているような気がするし、頑張って自立している自分を誇らしく思う人もいるかもしれない。

だが、多くの人は次第に生きづらさを感じていく。「自立しなければならない」という世間の当たり前を背負うことで、つらくても苦しくても自分でお金を稼ぎ、自分の力で生活しなければならないと思い込み、少しずつメンタルが消耗していく。

「生きてるのが楽しくない」「毎日つまらない」と述べている人の多くは、自分で自分を追い込んでいることに気づいていない。

さらに、一般的な意味でいう自立にはお金がかかる。何度も言うように、世間では「自立=一人暮らし=自分でお金を稼ぎ生活すること」と思われている。つまり、お金と自立は切り離せない。だから、お金がなくて自立できない人のことを、ダメな人間だとレッテルを貼るのだ。

誰だって他人からダメ人間だとは思われたくない。そして、そう思われたくがないために、人は世間の当たり前を背負い込み、お金がないのに一人暮らしをしたり、わざわざお金のかかる生活を、「自分は自立してますよ」と自分と周りに言い聞かせるために、生きづらさを感じながら頑張って自立しようするのだ。

正直、お金がないのにわざわざお金がかかる生活をしている人を見ると「コメディ映画でも撮ってるんですか?」と思ってしまうのだが、日本人は必要以上に他人の目や世間体を気にする性格をしているので、自立に執着してしまうのも仕方がないのかもしれない。

お金がないことは悪いことではないし、お金がないなら実家で家族と暮らしたり、できるだけ生活コストを抑えて生きるという方法だってある。にも関わらず、多くの若者や大人たちが、お金に困っていながら一人暮らしやお金のかかる生活に執着するのは、やはり「自立」がイデオロギーとして世間や現代社会に深く根づいているからなのだと感じる。


「自立」に込められた2つの意味

ここからは、さらに自立という言葉の意味を深堀りしていく。読むのに疲れてきた人はコーヒーでも用意し、もう少々お付き合いいただきたい。

さて、「自立」という言葉を我らがグーグルで検索してみると、以下のように出てくる。

自立(ジリツ)とは、1:「他への従属から離れて独り立ちすること」「他からの支配や助力を受けずに存在すること」、2:「支えるものがなく、そのものだけで立っていること」

この定義から考えると、親元を離れて一人暮らしする若者は1つ目の項目は満たしているといえる。しかし、2つ目の「支えるものがなく、そのものだけで立っていること」においては、一人暮らしだけの時点では満たしているかどうかはわからない。

自立という言葉は「社会的自立」「精神的自立」の2つに分けることができる。ここからは、その2つの自立の意味について考えていく。


社会的自立

自立の説明の1つ目である「他への従属から離れて独り立ちすること、他からの支配や助力を受けずに存在すること」というのは、まさしく「社会的自立」のことである。

一般的にいえば、社会的自立は「経済的に自立しているかどうか」であり、学校を卒業して企業に就職することで、経済的に自立するため必要なお金を手にしたといえる。

人によっては学生のときからアルバイトをしたりして、自分でお金を稼いでいる人もいるだろう。しかし、学生のアルバイトだけで一人暮らしするだけのお金を稼ぐことは難しい。そのため、多くの若者は学校を卒業し、企業に就職することで、経済的な自立である「社会的自立を果たした」といえるわけだ。これが社会的自立の意味である。

世間では学校を卒業したり、就職して自分でお金を稼ぐようになれば、親元を離れて一人暮らしすることが当然のように思われている。その流れに対して若者も、特に何の疑問も抱くことなく、世間の波に乗るのがあたり前だといわんばかりの顔で、揃いも揃って親元を巣立っていく。

ほかにも、いくら経済的に自立していても、実家にいる限りは本当に自立しているとはいえないと考える人もいる。毎日の食事、洗濯、掃除、食器洗いやお金のやりくりなどを自分でやらなければ自立しているとは言えず、甘えていると考えてしまう人も実は多いのだ。

だが、そうした「自立=一人暮らし」という考えは、自分で自分の首を絞め、生きづらさを感じる原因にもなってしまう。

本当に自立したいと思うのであれば、たとえ実家にいようと、自分でご飯をつくり、自分の服は自分で洗濯し、掃除、米研ぎ、食器洗い、ゴミ出しはできる。さらに、家賃の支払いや、電気・ガス・水道代などのお金のやりくりも自分で計算したり、親と半分ずつ支払えばいい。

実家を出なければ自立できないというのは、環境が甘いからではなく、自分自身に甘えているに過ぎない。これは次の「精神的自立」にもつながってくる話である。

まとめると、社会的自立とは経済的に自分で生活できるだけのお金を持っているかによって判断され、実家暮らしだろうが一人暮らしだろうが、それと社会的自立には何の関係性もない。

社会的自立はあくまでも、「自分1人のお金で生活できるかどうか」なのである。


精神的自立

次に「精神的自立」について考えてみよう。

精神的自立とは、さきほどの自立の説明の2つ目、「支えるものがなく、そのものだけで立っていること」という意味である。ここではその意味を「精神的自立」として置き換えて考えていくが、精神的自立は、主に精神が自立しているかどうかで判断することができる。

その判断基準としては、自分で考え、自分で決断し、自分で行動しているか、という点がポイントとなる。そして、精神的自立でもっとも重要なのが、前半のほうで述べた他人から自立しているかどうかという部分だ。

普通の人なら中高生のうちから自分で自分の進路を決めたり、アルバイトをするかどうか、部活に入るかどうかなど何事も自分で考え、決断して行動しているだろう。しかし、そうした人の中にも、他人から自立している人というのはおどろくほど少なかったりする。

さきほどの社会的自立の場面でも述べたが、実家暮らしか一人暮らしかの違いでは社会的に自立しているかどうかは判断できない。だが、精神的自立においては、実家暮らしか一人暮らしかで、精神的に自立しているのかどうかをある程度判断することができる。

私たちは小学校に入るなり、「友達100人でっきるっかなぁー♪」などという歌を歌わされるが、これは「友達は多ければ多いほどいい」という考えが世間に深く根づいているからだろう。友達は多いほうがいいのかどうかは人によって異なるが、大事なのは数ではなくお互いの関係性である。

精神的自立をするには、自分だけで思考・決断・行動するだけでは足りない。他人に依存や執着することなく、一人で生きていける心の強さを持つことが不可欠である。

SNSやツイッターなどでよく見かける「メンヘラ」といった人種は、他人から自立できていない代表例だ。実家暮らしか一人暮らしかで精神的自立がわかるのは、実家暮らしの人は親に依存して執着しているケースが多いからである。

実家暮らしをしている人は社会的(経済的)には自立できていたとしても、精神的には自立できていない人が多い。でもそれは「一人暮らししなければ精神的な自立は果たせない」といっているわけではない。

大切なのは、「他人がいなくても人生を楽しめるかどうか」なのである。


【まとめ】自立とは心の状態

私たちは自立という言葉を普段何気なく使っている。しかし、その言葉が意味していることを深く考えてみると、言葉の本当の意味と現代人の解釈には大きな差があることに気づく。

自立はまさにその典型であり、一人暮らしをしている人を見ると世間は簡単に「自立している」と思い込んでしまう。世間的な認識と本来の言葉の意味との間にはかなりのギャップがあり、多くの言葉は現代人が自分たちに都合のいいように解釈し、意味をすり替えながら使用している。

自立は一人暮らしをした状態ではなく、一人で生きられるお金を持ち、他人に依存していない心の状態なのである。

自立はなにも一人暮らしでしかできないわけではない。お金を稼いでるから自立しているわけでもない。人間としての自立はそんなところにはない。自分で勝手に世間の当たり前を背負い込み、自分で自分を追い込むのもバカげている。そんなのはお金に汚い拝金主義の人や、つらい生活が好きなドMにでも任せておけばいいのだ。

自立が社会的なイデオロギーとして認識されてきたのは現代になってからである。昔は家族みんなで支えながら、助け合いながら、団欒と暮らしていたものだ。

世間の声に惑わされて言葉の本質を見誤ってはいけない。何事も常に、自分で考え、選択し、行動していかなければならない。私たちは、自分次第でもっともっと自由になれるのだ。

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