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考えることはつらいし苦しい。でも考えずにはいられない性格。

現代ではよく「自分の頭で考えることが大事」と言われ、何事も自分の意思で選択することが後悔のない人生を生きるコツだとも言われている。

たしかにそのとおりである。他人が考えたことを盲信し、「有名人が言っているから」「あの人が言っているから」という理由で何でもかんでも信じてしまうのは間違だ。

物事を自分の頭で考えるのは、他人と自分との比較パラダイムから抜け出し、本当に自分が求めている人生を歩むのに大切である。

しかし、だからといって幸せを感じながら生きられるとは限らない。

考えることは大切だとしても、考えることで悩み、迷い、苦しむことも多いのだ。

私は物事を深く考えるのが好きだ。

これは子どもの頃から変わらず、思い返してみても、1人で公園やら近所を散歩しながら長い時間考えごとをしてた記憶がある。

歳を重ねるにつれて外見や趣味嗜好が変わったとしても、性格の本質的な部分は子どもの頃と大人になった今でも対して変わりがない。おそらく人間とはそういうものなのだろう。

だが、私は考えごとが好きな自分が好きではない。

物事を深く考えるのは好きでも、考えごとをしている自分が好きなわけではないのだ。

というのも、考え事をしてるときは楽しくても、考え事が好きな性格をしていることで、考え事から得られるメリットよりも、考え続けることのストレスのほうが大きかったりする。


考えすぎる性格

私が普段考えていることは、人生や生き方についてである。

とはいっても、自己啓発本に書いてあるような陳腐なことを考えているわけではない。

人間の生とは何か、死とは何か、徳とは何か、より良い人生とは、善と悪との違いとは、なぜ人は生きるのか、価値あるものとは、追求すべきものは何か、みたいなことを毎日考えている。

ほかにも、日常の中で起きた出来事や人との出会い、どこかで耳にした言葉や誰かが語っている考え方などについても、その都度あれこれ自問自答しながら考え事をしている。

周りからはよく「めんどくさい奴」と言われるのだが、意識して考えているわけではなく、自然と何でもかんでも考えてしまう癖があるのだ。

さきほども言ったように、私も自分のこの性格が嫌いである。

実際、考えることほど精神的に疲れるものはない。

本当に考えるべきことを考えるのは大切だが、私の場合は考えなくていいことまで考えてしまうのだ。

他の人にとっては本当にどうでもよくて素通りする出来事であったとしても、立ち止まっていちいち思考せずにはいられない。

本当にめんどくさい性格をしていると実感する毎日である。

考えることが大事でも、それが幸せにはつながらないというのはそういうことだ。


考えずに生きる人

一般的には、考えることはとても大事だと言われているが、それは普段考えることが嫌いな人に対して言えることである。

考えることが好きな人からすれば、考えることが常に正解であるとは言えない。

余計なことを考えることで、何も考えていない人よりも苦しむことが増えるのだ。

私の知り合いには、毎日何も考えずにゲームばかりしている人がいる。

彼は不動産収入があるだかで働かなくていい状態であり、毎日ゲームをしながら日々を過ごしている。

そんな彼に「毎日ゲームばっかりしてて不安になったりしないの?」と聞いたことがある。

そしたら彼はこう答えた。

「不安になることなんて何もない。ゲームしていれば余計なことは何も考えないし、楽しいことを毎日できればそれでいい」と。

実際、こうした考えを持っている人はたくさんいるが、本当にその考えを実践して体現できている人は彼以外に会ったことがない。

大体の人は自分を慰め、言い聞かせるために「余計なことなんて考えなくていいんだよ」なんてことを言っている。

そして、いつも数日後に余計なことを考えて落ち込んだり、不安に押しつぶされそうになっている。言葉と行動が一致していない典型的なパターンである。

でも人間はそういう生き物なのだ。

だからこそ、言葉通りの生き方を体現している彼に、私は心底尊敬の念を抱いたのだと思う。


人生は生老病死

正直、彼のように何も考えずに生きられたらどれだけいいだろうと思っている。

余計なことを何も考えずに幸せに生きられるならそれが一番だ。

考えることは苦しいし疲れるしめんどくさい。考えることが好きだと毎日メンタルに負荷がかかる。

さらに、私のように人生について考え続けていると、人生全体を覆い尽くしている絶望と虚無にも気づくことになる。

もちろん、人生に対してどのような価値観を持つのかは人それぞれだが、私の人生の価値観の根底には仏教の「生老病死」がある。

生老病死とは、人生は「生まれること、老いること、病気になること、死ぬこと」という4つの苦悩があるという思想のことだ。

我ながら暗い価値観を持っているなと実感する。

だが、生老病死の絶望と生きることの虚無の間にある、わずかな希望を求めて生きるのがわりと好きだったりもする。

そういう意味では、私は決してネガティブな人間などではなく、どちらかというと情熱的で前向きな人間である。

何度もいうが、本当にめんどうくさい性格である。


物書きが私の生きる意味

しかし、この考える性格にもひとつだけメリットがある。

それは、物書きとしてのネタが尽きないことだ。

何でも考えてしまう性格をしていることで、毎日身の回りの物事がキーワードとして自分の中に入ってくる。

言い争いをしているカップルを見ると、男と女の価値観の違いについて考えてしまうし、不倫問題も人間の心理や生物的な特徴について考えるきっかけになる。

仕事に疲れたら働く意味について考えるし、収入が減ればお金の存在意義について考える。

イライラすることがあれば怒りの感情の正体について考えるし、死にたくなれば人生の意味について考える。

つまり、考える性格をしていると日常生活のすべて、いや、人生全体が思考のきっかけとなり、ネタの宝庫に見えてくるのだ。

そして、考えていることを言語化しているまさにこの瞬間。

この瞬間こそ人生の中でもっとも楽しく、生き生きとしている時間である。

きっとこの先もずっと余計なことを考えながら生きていくのだろう。

だが、こうして考えたことを言語化し、物書きをしているときに幸せを感じられるのであれば、それだけで私は生きる意味があると実感できる。

人生とは結局のところ、ほんの一瞬の幸せ、刹那的な幸福感を追求するだけのもの。その程度なのかもしれない。

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