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1人でいるのが好きでも、人生は楽しく生きられる。

「人間は社会的な動物であり、他人との交流や接触を求める生き物である」

これはよく大人たちが述べていたり、心理学や生物学の本などに書かれている言葉だ。ほかにも、「人は決して1人では生きていけず、生きていくためには他人とのつながりが不可欠である」という言葉もよく聞く。

でもそれは本当なのだろうか?

私は基本的に1人でいる時間が多く、他人と時間を一緒に過ごすことが少ない。仕事がフリーランスというのもあり、会社で同僚に会うこともないし、仕事終わりにご飯を食べに行くということもない。友達と一日中遊ぶなんてことはここ数年していないし、1人の時間の心地良さに気づいてからはあえて1人でいることにこだわりを持つようにもなった。

そんな生活をしていて最近言われたのだが、世間一般からすれば、どうやら私のこの生活スタイルはつまらないように見えるらしい。もっと言えば、孤独で寂しい人間に見えるようだ。


1人でいるのが好きになるまで

たまに知り合いと会うと「ずっと1人でいて寂しくないの?」と言われることがある。

フリーランスの場合は自宅が仕事場だ。朝起きてから仕事するまでに外出はないし他人との接触もない。仕事も自分でスケジュールを組んで、締め切りまでに間に合うようにマイペースで仕事を進めていけばそれでいい。ここ何年もこうした生活を淡々と送っている。

しかし、さきほども述べたように、どうやら周りからすればそれはちょっと「おかしい生活スタイル」に見えるようだ。仕事でもプライベートでも他人と接触することなく、ずっと1人で生活する。知り合いから見ると、私という人間は友達がいなくて寂しいやつで人間嫌いで根暗でコミュ障みたいに見えると言う。

でも、私からすれば上記の言い分はまったくの間違いであり、少なくとも1人でいることに寂しさを感じているわけではない。もちろん、人間が嫌いなわけでも根暗でもコミュ障なわけでもないし、孤独な時間が嫌いなわけでもない。友達がいないというのは否定しないが。


価値観の転換

私は昔からずっと1人でいたわけではない。小中高はみなさんと同じように、友達と一緒に遊んだりふざけたりすることが生きがいだった。毎日友達とくだらない話をして笑ったり、ふざけたことをしたり色々なところへ遊びに行くのが最高に楽しかった。

でも社会人になり、それなりに歳を重ねてくると色々な面で人は変わっていく。それまで当たり前だと思っていたことが当たり前ではなくなり、楽しいと感じていたことは楽しく感じなくなり、優先するべきものや守るべきもの、大切にするべきものも変わっていく。

その中でも、自分の場合は読書をはじめて価値観がガラリと変わったことが大きいのだと思う。今でこそ毎日本を読むことが習慣となっているが、昔は読書なんてしたことがなかった。本を読むぐらいなら当てもなく外をぶらぶらしたり、友達とゲームをしていたほうが好きだった。

しかし、社会人になってから悩みや迷いにぶち当たることが多くなり、今までの価値観や考えではどうにも生きづらいことに気づいた。そんなときになんとなく手にしたのが本だった。


自分から求めて1人になる

本を読んでいると、次第に悩みや迷いとの向き合い方というのがわかってくる。以前は知識が圧倒的に不足していたがために考えられなかったことが、本を読んで知識を身につけた後ではまるで世界が変わったように見えるのだ。ちょうどパズルのピースがピタリと当てはまるような感じである。

読書に没頭してから数年経ったときには、以前持っていた価値観のすべてが180℃変わっていた。俗に言うコペルニクス的転回である。一日中遊び回ることの充実感が空虚感に変わり、友達と一緒にいる時間は疎外感を感じさせ、娯楽やストレス発散の対象となるものは虚無感の対象となっていった。

そうして、気づいた時には1人になっていた。強がりでもなんでもない。仕方なく1人になったのではなく、自分から求めて1人になったのだ。

昔は誰かと一緒に過ごすことでしか感じられなかった楽しさや充実は、ほとんど1人で感じられるようになった。次第に、やりたいことの多くは1人の時間でしかできなくなっていった。そうなると自然と1人でいる時間が多くなる。

はじめはなんとも言えないような寂しさがあったかもしれないが、人間には「慣れ」と「適応」という便利な機能がある。それが私を、孤独を愛する1人でいるのが好きな人間に変えていったのだ。


人間関係だけが人生を豊かにするわけではない

普通の人にとっての楽しい時間や息抜きの時間というのは、友達や恋人と一緒に時間を過ごすことだろう。でも私は違う。今の私にとっては、1人でいる時間こそが楽しい時間であり、息抜きの時間であり、ストレス発散の時間であり、癒しの時間なのだ。周りからはきっと社会不適合者に見えるだろう。

人が楽しさを感じるのは「共感」の感情がベースとなっている。しかし、自分の場合は楽しさを感じる部分が周りの人たちと違うのだから、一緒の時間を過ごしても楽しくなるわけではない。

「楽しもうとしていないから楽しくない」ともよく言われるのだが、そもそも楽しいと感じていない部分を、無理やり楽しもうとする必要性はどこにあるのだろう? きっと心意気次第と言いたいのだろうが、嫌なことは嫌だし、楽しくないものは楽しくない。投資の神様であるウォーレン・バフェットが言うように、「うまくやる価値のないことは、うまくやる価値はない」のだ。

世間の一般的な通念が「人間関係が人生を豊かにする」であったとしても、人間関係だけが人生を豊かにするわけではない。1人でいるのが好きでも、周りからすれば孤独に見えたとしても、人生を楽しむことはできるのだ。


1人の時間の大切さ

現代では、1人で過ごすことが苦手な人がとても多い。今の世の中はスマホさえあれば誰とでもすぐにつながることができるし、SNSを通じれば普段自分が関わるはずがない人たちとも簡単に関わりを持つことができる。

誰かと連絡を取りたいと思えば、スマホの上で親指をスラスラ動かすだけで、仮想空間上で簡単に誰とでも会話ができる世界に生きている。見ず知らずの人と音楽の趣味が合うからと仲良くなることができ、ツイッターで呟いていることからわかる相手の性格と自分の性格が合っていると感じればフォローしてお話することもできる。

現代はスマホとSNSによって、人間関係のフリー化がもたらされた時代だ。でもその副作用として、現代人から1人でいる時間、孤独を愛する時間を奪ってしまった。

フランスの哲学者であるパスカルは「人間の問題はすべて、部屋で1人静かに座っていられないことに由来する」と述べた。これは人が孤独を恐れるあまり、娯楽や社交といった行動へと駆り立てられるのだという意味である。

人は孤独が嫌いである。しかし、孤独の時間の中にこそ、1人でいる時間の中にこそ豊かさといった精神的享楽も存在する。


誰かとつながるのが当たり前の現代

人間関係のフリー化は多くの人たちに大きな恩恵をもたらしてきた。はじめにも述べたように、人は元々社会的な動物であるため、自然と他人とのつながりや社会とのつながりを求めるものだと言われている。だが、つながりを求める気持ちを現実的に行動に移すことができるようになったのはここ最近の話である。

人間関係のフリー化は、多くの人たちから「1人の時間」をごっそりと奪いさっている。週末に1人で過ごしていると、「寂しい」だとか「孤独」だとか「つまらない」と感じる人が多いというが、これは現代人の孤独耐性が著しく低下していることの表れでもある。

一日中ベッドの上でスマホで音楽や映画やYoutubeを楽しみながらも、日曜の夜に明日の仕事を考えながら憂鬱になる「サザエさん症候群」は現代人の悩みの種だ。サザエさん症候群の多くは寂しさや孤独感、寂寥感や空虚感といった感情がベースとなっている。

だが、「いつでも簡単に誰かとつながれる」というのは、「いつでも誰かとつながっていなければならない」という強迫観念を生んでしまう。人間関係がフリー化しているのに、まるで人間関係を楽しまないのは損だとでも言いたげな社会だ。


「1人」と「独り」の違い

私は1人でいる時間が好きだ。自分の好きなことを好きな時間にできる自由は快適以外のなにものでもない。食べたいときに食べ、寝たいときに寝て、行きたいところに行き、やりたいことを飽きるまでする。こんな贅沢な時間はほかにはないだろう。

他人に束縛されない時間のフリー化は、日々の生活の中でのストレスのフリー化にも貢献してくれる。やりたいことをやりたいだけやってストレスを感じる人はいない。つまり、私にとって人間関係のフリー化は、時間のフリー化とストレスのフリー化にもつながっているのだ。

でも私は、「1人」は好きだが「独り」は嫌いだ。これを言うとよく意味がわからないと突っ込まれるのだが、なんてことはない。ただの言葉遊びである。前者の「1人」は状況的な1人を指すが、後者の「独り」は社会的な文脈の中で孤独な状態を指している。

1人でいるのが好きで、何事もあえて「1人」で行動する人は「独り」ではない。一方、社会的なつながりを一切持たず、ずっと自分の殻に閉じこもっているだけの人は「独り」であることが多い。引きこもりなどは「独り」という言葉を表す典型例だ。

「1人」は自由を与えてくれるが、「独り」は社会からの疎外感を感じさせてしまう。自由はストレスをフリー化してくれるが、疎外感はネガティブな感情をフリー化してしまう。自分の中を駆け巡る感情のどれをフリー化するかによって、その人が実感する「ひとり」の状況が変わるのだ。いわば、「1人」か「独り」でないかは心意気の問題ともいえる。


不必要な人間関係

前述したとおり、私は子どもの頃は友達と常に一緒にいるような生活を送っていたが、大人になってからは、1人で過ごす時間が大切だと心から実感している。

学生時代は友達との関係が日常生活の大部分を占めていたが、大人になると仕事やら恋愛やら職場の人間関係やら、さまざまなものが意図せずとも自分の生活の中にズカズカと土足で入り込んでくる。

でも、自由な時間は意外と簡単に手にできる。というのも、不必要な人間関係をスッパリ断ち切り、1人でいる時間を確保すればいいのだ。

もちろん、これは家族や恋人、気の合う友人などとの交流をやめろと言っているわけではない。あくまでも、「不必要な人間関係」に時間を割くのをやめようと言っているのだ。たとえば、行きたくもない会社の飲み会やら、暇つぶしのために友達同士で集まるといった類の関係だ。

学生時代の1人は苦痛でも、大人になれば1人が快適へと変化する。

現代の人間関係のフリー化は、ストレスをフリー化するのではなく、不必要な人間関係を築くことに貢献している。ちょっと話が合うだけですぐに友達気取りになる人や、一回会っただけで「友達」だの「友情」だの口にする人たちは、大抵都合の悪いことが起きればすぐにいなくなる。こうした関係には価値なんてないし、大事にする必要もないのだ。


人間関係は「量」ではなく「質」

人間関係のフリー化はより多くの人と関係を持つことを可能にしたが、その一方で、人との絆のつながりは100円寿司のヒラメぐらい薄いものになってしまった。

人は1人では生きていけない。これは真理だ。でも、人間関係をたくさん持つことがいいわけではない。社会的に疎外されている状態である「独り」は避けるべきだが、人生を自由気ままに楽しむためには「1人」になることも大切なのである。

適度な距離感を保ちながら、普段は自分の人生に集中しながらも必要なときに助け合い支えあう関係性。それが現代で人間関係を良好に保つ秘訣なのではないかと思う。むやみやたらに人とのつながりを求め、何でも「より多く」を望むのは現代人の悪い癖である。よく言われるように、大事なのは「量」ではなく「質」なのだ。

人間関係が大切なのは言うまでもないことだが、孤独耐性が低いままだと精神的に自立することができない。「1人」と「独り」を分けて考えることに意味はないかもしれないが、常に誰かとつながることを強いられる社会では、あえて「1人でいる時間」を持つことは生きづらさを解消するとともに、人間的な成長にも欠かせないことなのではないかと思うのだ。


【まとめ】先のことは誰にもわからない

今でもふとした時に、昔のような価値観と生き方をしていれば、どんな人生になっていたのだろうかと考えることがある。今でも十分充実した日々を送っているが、もしかしたら今よりも楽しい人生になっていたかもしれないし、なっていないかもしれない。

しかし、そんなことを考えるのは時間の無駄だ。今自分が生きている世界が紛れもない現実なのだから。でも、今は1人でいるのが好きで心地良いが、この先私の価値観がどう変化していくかはわからない。

何かをきっかけに人恋しくなる可能性もあるし、以前ような人付き合いを求める可能性もある。価値観は日々変化するものであり、ひとつの価値観をずっと持ち続けるものではない。変化なくして成長なしだ。

でも、今はまだ1人でいたい。孤独を味わいたい。人付き合いの楽しさがあるのもわかっちゃいるが、今の私は1人でいることの楽しさのほうが勝っている。1人でいる時間の中にある虚無と空虚と静けさを味わうのが、今の私にとってもっとも心が安らぐ時間なのである。

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