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「エリート」であるはずの財務省が緊縮財政へと暴走してしまう、必然的なメカニズム

昨今、厳しい緊縮財政を強力に推し進めようとする財務省に対する国民による反発が強まっています。デモなども起きているようで、俄かに注目が集まっています。しかし、財務省を構成する財務官僚の多くは、東京大学という日本の最難関大学を卒業し、国家公務員試験という狭き門を突破して、国家・国民のために貢献しようと志していたエリートであったはずです。それにも関わらず、国民の生活に目を向けずに、あくまでも財政の健全化を金科玉条として、増税や緊縮財政を実現すべく暴走しているというのは、一見極めて不合理に見えます。
しかし、社会科学において蓄積された知見を用いれば、彼らのような優秀がエリート財務官僚が緊縮財政へと暴走してしまうメカニズムが財務省に埋め込まれていることがわかるのです。

これがわかれば、「財務省はエリートだから間違えているはずがない!」などという、いやらしい権威主義的な言説に対抗する一つの論理武装が可能になるはずです。
本稿では、①社会心理学における「集団浅慮」、②認知科学における「暗黙知」という二つのキーワードに焦点を当て、財務省が極端な緊縮財政に走ってしまうメカニズムを論じてみようと思います。

財務省の掲げる財政健全化目標の異常性

まず、上記のようなメカニズムを検討する前提として、財務省の目指す財政健全化が、理論的に見ても、他国との比較で見ても、異常であるということを、以下簡単に確認していきたいと思います。

主権通貨を持っている政府の支出には、資金的制約はない

財務省は、財政健全化の具体的な目標として、プライマリーバランス黒字化目標(以下、「PB黒字化目標」と言います。)を掲げています。プライマリーバランスとは、利払い費用を除いた財政の収支状態を示す指標のことで、要するに財務省は、(政策的経費-税収)の額を黒字化しようとしているということです。

しかし、アメリカや日本のように、政府が主権通貨を発行できる場合、政府は財政の収支それ自体によって何らかの危機に陥ることがないことは自明でです。キーボードを叩けばいくらでも新しく発行することができるのに、どうしてその「財源」を集めなければならないのでしょうか。そのような空想上の制約の代わりに、政府は、完全雇用や、資源の実効利用を新たな制約条件として財政運営を行うべきなのです。

このような主張は、わざわざMMTのような異端派の経済学説を持ち出すまでもなく、正当化が可能です。財務省は隠しておきたい事実でしょうが、ノーベル経済学賞を受賞している著名な経済学者であるジョセフ・スティグリッツや、ポール・クルーグマンも、緊縮財政を常々批判しています。

加えて、米国経済学会の会員を対象としたアンケートでは、「大きな財政赤字は経済に悪影響を及ぼす」という項目に対し、2000年の調査では40・1パーセントが賛成し、反対は20・2パーセントしかいなかったが、2021年の調査では賛成19・7パーセント、反対38・6パーセントと、賛否が逆転しているのですこちらの記事を参照)。

経団連「あるべき経済財政運営~変わる財政政策の考え方」より引用

そうである以上、PB黒字化目標のような財政健全化目標を掲げていることが、いかに理論的に誤っているかがお分かりいただけるでしょう。(MMTの主張の詳細については、MMTの創始者の一人とされているビル・ミッチェルによるこちらの記事をご参照ください。)

他国との比較から見るPB黒字化目標の異常性

上記の理由によって財務省の異常性は十分言い表せていると思いますが、それに加えて、日本以外の主要国においては、PB黒字化目標という、赤字それ自体を削減するというような極めて厳格な財政規律は全く採用されていないということも指摘すべきでしょう。

京都大学大学院工学研究科の藤井聡教授は、他の主要国、例えばEU、カナダ、オーストラリア、ドイツ、フランス、イタリア、韓国、スペイン、イギリス、スイス等はすべて、債務対GDP比に基づく債務目標を掲げており、日本のような、プライマリーバランスについての明確な目標に掲げている国はないと指摘しています(こちらの資料を参照)。

つまり、他国との比較においても、財務省が固執するPB黒字化目標という目標設定はあり得ないものなのです。

小括

以上で見てきた通り、財務省の目指すPB黒字化目標が、理論的に見ても、他国との比較という観点から見ても、明らかに異常であるということがお分かりいただけたかと思います。

財務省内では、「集団浅慮」による大失敗が起きている

次に、なぜ財務省はそのような極端な緊縮財政に走ってしまうのか、という論点に入っていきましょう。

財務省は、その組織規範である財務省設置法第3条1項において、「健全な財政の確保」が財務省の任務として明記されています。つまり、財政健全化が財務省の存在理由(レーゾンデートル)であるわけです
そうだとしても、優秀な財務官僚は、各政策の良し悪しを自分の頭できちんと判断できるはずであり、原理主義的な緊縮財政には反対するのでは?とも思われます。

しかし、実際に、矢野康治財務事務次官(当時)の文藝春秋への寄稿(通称、「矢野論文」)や、齋藤次郎元大蔵事務次官の文藝春秋への寄稿を読むに、彼らは本気で財政破綻論を信じており、緊縮財政が国家や国民のためになると本気で信じているようなのです

(ここでは、「財務官僚は、私益のために悪意で緊縮財政を推し進めているのだ」という仮説も一応あり得ます。しかし、彼らの文章から伝わる"熱意"を信じて、差し当たり、「彼らは、悪意なく財政破綻論を正しいと信じ込んでしまっている」という仮説を検討します。)

では、なぜ彼らのような優秀な財務官僚が、緊縮財政を盲目的に信じてしまっているのでしょうか?それには、「集団浅慮」という社会心理学において指摘されている現象が関係しているのです。以下、見ていきましょう。

「集団浅慮」のメカニズム

集団浅慮とは、米国の社会心理学者アーヴィング・ジャニス(Irving Janis)が提唱した概念で、集団による意思決定プロセスとその結論が、個人で行う場合より、マイナスに作用することで非合理な「愚かな結論」になる傾向のことです。

エリートと呼ばれるような、極めて優秀な人材によって構成される集団であっても、集団で意思決定を行うと、個別に決定したものより、明らかに非合理的で劣った決定がなされる場合があることがわかっています。その典型例が、1986年にNASAによってアメリカで打ち上げられたスペースシャトル、チャレンジャー号の打ち上げです。チャレンジャー号は、発射直後に大爆発を起こし、7人の乗組員全員が犠牲となりました。

チャレンジャー号の打ち上げの例では、当日の悪天候や冬という季節ならではの低気温、部品の欠陥があったことから、安全な発射が難しく、現場の技術者たちは、チャレンジャー号の打ち上げを目前に、チャレンジャー号の打ち上げを延期するように求めていました。それにもかかわらず、NASAの上層部は、「絶対に計画は失敗しない」という信念をもち、その信念に反する事実(現場の技術者たちによる、計画決行に危険性があるという指摘)を無視して、打ち上げを決行してしまいました。

上記のように、エリート集団であったとしても、「自分たちは正しい」として外部からの忠告や都合の悪い情報を無視したり、あるいは、忠告をする雰囲気を作らせず、少数意見を持つ者に対し同調圧力をかけることによって、愚かな自信の下に愚かな判断を集団で下してしまうことがある、というわけです。

財務省は、とりわけ同調圧力の強い組織である

「集団浅慮」を提唱したジャニスの"Groupthink"によると、「集団浅慮」は、特に全員の一致を求める傾向が強い集団に現れやすいとされています。

この点、官僚とは、政治的に決定した政策を円滑に遂行することを要求される集団であることから、最も全員の一致を求める傾向が強い集団の一つであると言っていいでしょう。

その中でも、財務省やその前身の大蔵省というのは特に強烈な組織のようなのです。元大蔵事務次官の齋藤次郎氏は、以下のように述べています。

入省して(筆者注:1959年)、徹底的に教え込まれたのは、財政規律の重要性でした。「財政の黒字化は当たり前のことでなければならない」、「赤字国債は絶対に出すな」……毎日のように先輩から言い聞かされました。
(中略)
 私も予算査定の際には、主計局の上司や同僚にしょっちゅう議論を吹っ掛けられていました。そうやって厳しく教育されながら、大蔵官僚たちは「財政規律の大原則」を脈々と受け継いできたわけです

齋藤次郎「『安倍晋三 回顧録』に反論する

このような強烈な同調圧力があれば、その分だけ「集団浅慮」のメカニズムも強く働いてしまいます。その結果として、エリート官僚であるはずの財務官僚たちが、いつの間にか財務省の論理に飲み込まれてしまうのも、無理はのない話です。

「現場」の不存在と「暗黙知」の不足 ― マイケル・ポランニーの視点

それにしても、特に財務省が他の省庁と比べても同調圧力が苛烈なのはどうしてなのでしょうか。その疑問に対してヒントを与えてくれるのが、科学者にして哲学者であるマイケル・ポランニーの「暗黙知」の理論です。

ポランニーの「暗黙知」の理論

マイケル・ポランニーは、『暗黙知の次元』において、我々が持つ知識の多くは、「形式知」として明示的に表現できるものだけでなく、言葉にすることのできない知識である暗黙知」であるとしています。このことを、ポランニーは「私たちは、言葉にできるより多くのことを知ることができる」と述べました。

例えば、我々はいくら自転車の乗り方を理論的に教わったとしても、それだけでは決して自転車に乗れるようにはなりませんよね?自転車に乗るために本当に必要なのは、実際に自転車に乗るという、実践であり経験なのです。実際に自転車に乗る経験は、理論という言語的表現では決して表しきれない膨大な知識を我々の無意識に提供してくれます。それらを実践の中で学習して初めて、我々は自転車に乗れるようになるというわけです。

つまり、物事の本質を学習するには、必ず、実践や経験による無意識的な学びが不可欠であるということになるわけです。そして、暗黙知は、日常における知覚のみならず、科学的な探究においても重要であることをポランニーは指摘しています。

ポランニーは、彼の暗黙知の理論が、プラトンが提起したメノンの逆説を解決すると論じています。メノンの逆説とは、もし我々が何を探しているのかを知っているのであれば、そもそも問題というのは存在しないはずであるが、もし我々が何を探しているのかを知らないのであれば、そもそも何かを見つけることはできないはずである、というものです。

しかし、いまだ発見されざるものを暗に予知する能力が私たちに備わっているというのなら、それも合点がいく。

マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』ちくま学芸文庫,48頁

つまり、暗黙知の蓄積によって、我々は、「明示的には知らないけれど、無意識的には知っている」という状態になることが可能であり、それによって初めて、科学的な探究や発見が可能になるのである、ということです。
逆に言えば、実践経験の世界に身を投じて、暗黙知というものを蓄積していなければ、正しい科学的な営みを行うことは不可能だという帰結が論理的に導かれることになるのです。

財務省は暗黙知を蓄積する「現場」を持っていない

この点において、財務省というのは大いに問題含みです。他の省庁、たとえば厚生労働省や経済産業省などは、例えば福祉の現場や、ビジネスの現場といった「現場」を有しています。そして、各省庁は、その現場との直接的な接点を持ち、その中に身を投じることで、国民経済・国民生活についての暗黙知を獲得しているのです。有り体に言えば、「地に足がついている」とも言えるでしょう。

これに対して、財務省は、主に抽象的な財政政策、予算編成を担当しており、少なくとも予算の編成を行う主計局のレベルでは、具体的な「現場」というものを持っていません。せいぜい、他の省庁との調整という「現場」という程度のものでしょう。しかし、それらは、他の省庁の予算を削る際の交渉術についての暗黙知を提供してくれることはあっても、決して財政についての暗黙知を提供してくれるものではないのです。対比的に述べるならば、財務省は、「地に足がついていない」と言えるでしょう。

つまり、現場で得られる「暗黙知」という、政策実務の土台となる科学的探究を行う前提を欠いているため、必然的にその政策実務は、教条化された理論やイデオロギーに傾倒せざるを得なくなるというわけです。実践知、暗黙知によって批判を受けないイデオロギーは、それ自体が非常に強い同調圧力を持つことになります。
その結果、財務省の内部では、現実との接点を持たない空理空論に基づいた緊縮財政、財政健全化が何らの修正もなされずに跋扈してしまうという事態が発生してしまうわけです。

まとめ

上記の二つの視点を取り入れれば、財務省には、現場がないという固有の特徴から、「暗黙知」が欠落し、教条化された財政健全化というイデオロギーに傾倒せざるを得なくなってしまう。その結果として、省庁内の同調圧力が特に強化され、「集団浅慮」が起きやすくなってしまっている、という一連のメカニズムが見えてきたと思います。

さらに、それだけではなく、「集団浅慮」が起きることによって、さらに観念的なイデオロギーへの傾倒に突き進み、その結果、さらに現場から乖離して暗黙知が欠落する、という負のスパイラルが起きてしまっているのではないかと思います。つまり、上記で指摘した二つの要因が、相互作用を及ぼしてしまっているというわけです。

以上のような議論を踏まえれば、財務省がいかに国民の感覚から乖離した政策を推進していたとしても、もはや驚きはないでしょう。

もちろん他にも、財務省の異常性について説明を試みている著作はたくさんあります。その代表例が、今年1月28日に亡くなられた森永卓郎氏による『ザイム真理教』でしょうか。僕は、これらの著作の主張を否定する気は全くなく、むしろ補完する議論としてこの記事を参考にしていただけたらと思っています。

いずれにしても、「財務省はエリートだから間違えているはずがない!」などといういやらしい権威主義的な言説に対抗する一つの論理武装として、この記事を活用していただけたら幸いです。


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