井伏鱒二  山椒魚を考察する



山椒魚と蛙 

閉じ込められたものが侵入してきたものを閉じ込める。にらみあったままでおよそ2年がたつ。両者は黙り込んで、自分の嘆息が相手に聞こえないように互いに注意していた。

 

井伏鱒二が削除したのはこういう内容だった。
 

岩のくぼみにいた蛙が「ああああ」と「不注意にも深い嘆息をもらしてしまった」のである。それは「最も小さな風の音」のようだった。
 

山椒魚はそれを聞きのがさず「お前は、さっき大きな息をしたろう?」とたずねた。
 蛙は「それがどうした?」と意地をはってはみるが、「空腹で動けない」と弱気になる。
 

山椒魚「それでは、もう駄目なようか?」
 蛙「もう駄目なようだ」
 暫くして山椒魚はたずねる。「お前は今どういうことを考えているようなのだろうか?」

 これに続く最後の二行。
 

相手(←蛙のこと)は極めて遠慮がちに答えた。
「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」



 蛙の嘆息からこの最後までのくだりがなくなってしまった。晩年の井伏鱒二が1985年に自選全集で削除したのである。
 なぜ井伏は削除したのか?

蛙が先に嘆息したのがまずかったのだろうか。
 

閉じこめたほうの山椒魚のほうに何らかの自戒が認められないからか。
 和解する場面として解釈されるのが気に入らなかったのか。
 

蛙が「今でも」「おこってはいないんだ」という科白はいろいろと考えさせてくれる。
 
 

この作品は1923年(大正12年)に『幽閉』と題して発表され、1929年(昭和4年)に加筆して『山椒魚』と改められた。中学や高校の教科書にもよくとられていたので、1985年当時、削除のことはかなりの話題になった。少なくとも戦後30年ほどのあいだ「和解のラスト」を多くの中学生や高校生、国語を担当する教師が読み、親しんでいたのだ。

 

以後、井伏鱒二がこの部分を削除したという説明が必要となり、そののちに刊行される井伏の作品集には和解なしの結末の『山椒魚』が載るようになった。
 20年以上たった現在では「以前はこうだった」とふれることも少なくなってきたのではなかろうか。

 

和解の場面があると、たしかに安心できる。予定調和故に中学生や高校生には無難な読み物となる。
 

削除によって、結末が両者の膠着状態だから、その後のゆくえについては読者にゆだねられる。
 

一方で、蛙は岩屋に入るときは自由に入れたのに、どうして出られないのかという疑問も出る。蛙の身体は別に大きくなったわけじゃない。すきまを見つけて出られるのでは?山椒魚が全神経を投入し、持てる能力をすべて使って、蛙を出るのを阻んだのか。
  

少なくとも、けんかする程度には「友だち」「仲間」だった時期があることはあった。
 

削除するときに、結末になる部分を本当は少し変えたかったのではないか?変えてしまうと、ますますやっかいなことになる。とにかく変えることはしないで、蛙のほうが嘆息し、白旗めいたものをあげ、山椒魚をゆるすかのような言葉をのべる、その一連の場面をバッサリなくしてしまった。

 

『山椒魚』はファンがけっこう多い。この作品を好きだという場合、結末をどちらにしてもあまり気にならないかもしれない。
 

山椒魚がおかれる「寒いほど独りぼっち」の状況への共感。救いがなくて何ともならないことの、妙なリアルさ。
 

日々生きていることの感触が、物語の底からにじみ出るものと出会うときに、ああこういうことなのかなあと思える。

「寓話」としての魅力でもあるのだろうか。

 

閉じ込められたままで何がいけないのか、出られなくなったものをひきずり込んで何がわるいのか。そんな居直りの気持ちも起きてくる。
 

結論が欲しいのが人情、しかし答えが出ないときは出ない。
 

老年の井伏鱒二は、その「答え」を回収しようとしたのではないか。なぜならその方がはるかにリアルである。『あらし』『子犬を連れた貴婦人』のリアリズムを感じるのだ。
 和解などということを安易に取り扱ってはいけない。

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