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詩の授業の思い出

 詩人の谷川俊太郎さんが亡くなられたというニュースを目にしました。心より、ご冥福をお祈りいたします。言葉が、あちらこちらでキラキラ輝く詩を書かれた方でした。しかし、私自身は、こうした純文学的な詩の世界には疎くて谷川さんの作品は、光村書店の国語教科書の冒頭に載せられていた『朝のリレー』や『春に』ぐらいでした。

 そのため、詩の授業といえば、年度初めの音読の様々なスタイルを伝達する手段と捉え、余計なツッコミをせずに、「流す」という感じだったと思います。3年生の『春に』では、音読の授業の最後に合唱バージョンC Dを聞かせたところ、生徒たちの多くにため息が出たことは記憶しています。聞かせる前に、「これから魔法をかけます。詩から文字が浮き出てくるよ」という暗示の効果は、テキメンでした。

 これから私のささやかな実践を紹介したいと思いますが、無知ゆえに心配していることがあります。それは、著作権法および著作物の引用に関することです。そこで、次に法的な確認を示します。主に引用に関することです。

公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。

著作権法第32条第1項

 上記の法的条件に基づく著作権侵害を避けるルールは、次の5つとされています。

1 引用部分が明示されていること。
2 引用元が明示されていること。
3 自分の著作と引用する著作との主従関係。
4 著作物を引用する必然性があること。
5 引用部分を改変していないこと。

 ここで引っかかるのは「主従関係」という言葉だと思います。自分の書いた文章が、あくまでもメインになり、引用部分がサブだということです。そのため、文章の大部分が引用で占めるのは、他人のふんどしで相撲を取るということになり、法に触れてしまうことになります。これら5つのルールを守るだけでいいとは思いませんが、最低限守るべきルールとしていくべきだと考えるところです。

 さて、前置きが長くなりましたが、1編の詩を引用したいと思います。最近、この記事を書くきっかけとなった小さな本と再会しました。平成3年以来のご無沙汰でしたから、33年ぶりでした。書名は以下のとおりです。

茨木のり子『詩のこころを読む』 
     1989年 岩波ジュニア新書9

 谷川俊太郎、吉野弘、石垣りん、工藤直子、新川和江。こうした著名な詩人たちの詩を引用し、評論しつつも自分の詩に対する思いや考え方が、書き綴られている本です。その頃、私は「詩とはなんぞや?」という疑問をもちながら生まれ故郷の中学校で、3年生を担任しているジャスト30歳の国語教師でした。ジュニア文庫を手にしたのは、まずは初歩からという思いからだったと推測できます。この本の、p115〜に載せられている詩を引用して、学習シートを作りました。詩は、やはり縦書きでないと落ち着きませんね。

 ここで、またもや疑問が生じました。引用の引用、すなわちダブル引用は許されるのでしょうか。本では、詩の終わりに『濱口圀雄詩集』と、引用元が記されていました。学習シートにも同じく「濱口圀雄詩集より」と引用元を付けましたが、私はその詩集を手にしたことがありません。これでいいのかどうか、教えてくださる方はいらっしゃいませんか?

 この授業は、国語ではなくMの時間に行われました。時間割上、給食前の4校時に行いました。朗読者は私自身です。当時の私の指導方針は、「勉強よりも働こう」という突飛なものでした。また、この中学校は、校舎竣工年と私の誕生年が同い年。昭和36年にできた建物で、トイレは全部和式の汲み取り式という古式ゆかしい状態でした。ですから、生徒たちにとっては現実そのものだったわけです。

 かなりの抑揚、そしてスピードの変化をつけつつ、40人の表情を細かに確かめつつオーバーに朗読しました。その反応は、予想を外れていました。嫌がるリアクションがなかったのです。あまりのリアリティに顔を青ざめる子がいたものの、全員が詩に食いついていることが、国語教師として読み取れました。最後の1連はできるだけ優しい口調で丁寧に読みました。

 朗読後、ほぼ全員が 「フーッ」と息をつきました。数分間、どんな雰囲気にになるか観察しました。これも予想に反して、隣近所でひそひそ話するぐらいで、ネガティブ発言はありませんでした。どうやら、詩のエネルギーに圧倒されたようで、逆に仕組んだ私の方が驚かされたぐらいでした。

 授業は淡々と進みました。補足として、国鉄詩人と言われた濱口さんのことや、私が大学生だった国電の駅トイレの状態、大きな居酒屋でバイトしてトイレ掃除した経験談など、わざと顔をしかめる話をしました。その後、原稿用紙を配布して、「この詩をまねして、ハタラク詩を書いてみよう」と指示したところ、すんなり受け入れて原稿用紙とのにらめっこが始まりました。

 机間指導をする中で、1人の女子生徒が話しかけてきました。「最後のところが、とってもいいですね」と言い、その隣近所の数人も深くうなづきました。そうなんです。本の筆者の茨木さんも、こう語っています。

「便所掃除」を詩たらしめたものは、終わりの四行なのです。ここへきて飛躍的にパッと別の次元へ飛びたっています。飛行機にたとえていうと、一つ一つの労働描写のつみかさねは、じりじり滑走路をすべっている状態でだんだん速度をはやめ、或るとき、ふわっと離陸した瞬間が終わりの四行なのです。

『詩のこころを読む」p121.,122

 なんと巧みな比喩でしょうか。私などの考えた比喩では、落語のオチぐらいしか思いつきませんでした。この部分も、生徒たちに紹介しました。多くの子たちが、うなづきました。そして、オリジナルの労働描写に取りくむ姿勢も一変しました。しかし、日常の掃除等を詩にするという行為は、なかなか筆が進まず、ボーっと天井を見上げる姿が次々と見られました。

 散文を得意とする生徒でも、行き詰まっている様子でした。そんなとき、レトリック等のアドバイスをしようとしましたが、拒む子が多かったのも新しい発見でした。国語を教える立場として、学ぶべきことを見つけたという感じです。すなわち、大人の余計なお世話で、自由な発想が妨げられる弊害を認識できたということです。黙って見守りました。

 ここで話は少々脱線します。その時期の勤務校は、生徒数1100人余、教員も60名はいたと思います。私にとって3校目でしたが、全部が汲み取りトイレでした。そのため、生徒用トイレは教室から離れた場所に設けてあり、常に強烈な臭いを放っていました。1100人の排泄量たるや想像を絶する世界で、短いスパンでバキュームカーが来て汲み取らないとあふれてしまうと聞いていました。

 赴任したとき、教頭から最初の教えは「おつりをもらわないようにすること」でした。「おつり」をご存じでしょうか?和式便座の下から襲来する落下物の跳ね返り現象です。それが打ち上げられたら、お尻を浮かせて対応しないと大変なことになります。特に汲み取り後には、落差が大きくなるので警戒態勢で臨みます。当時の生徒たちは、ちゃんと心得ていました。恥ずかしながら、私は1回失敗しました。

 そんな環境の中、生徒たちは力強く学校生活を送っていました。こうした刺激に対しての知的好奇心旺盛で、ハタラク詩にも積極的に取り組みました。しかし、詩を作る行為は意外に難しいもので、その困難も味わったようでした。ここに名を伏せた作品4編を載せてみましたがとてもハイレベルとは言い難い作品でした。

 語彙は拙くても、私には作者の生徒の熱い思いを感じます。今読んでみても、可愛くってたまりません。私もパワー全開の時期でした。思い出に残る詩の授業でした。

 さて、卒業式の日。式が無事に終わって、学級の時間がありました。一応、これでお別れの瞬間を迎えます。そして、解散の時間になりました。その時、起立!の号令により全員が立ち上がった瞬間を、今でも忘れません。何と一人一人が小さな花束を携えていたのです。それまで密かに机の中に忍ばせていたのでした。

 そして、全員で「1年間、ありがとうございました」と言ってから、一人ずつ私の前に歩み出て、一言スピーチの後、花を渡して教室から去って行くのでした。そして教室には、40束の大きい花束を抱えて涙ボロボロの私が一人。巧妙な彼らの演出にやられてしまいました。

 このビックリ大作戦は、後輩にも伝わり、何人かが私と同じく泣いたそうです。その後、成人式、33と42の歳祝いで大人になった彼らと再会してきました。次は、還暦祝いに呼ぶそうです。その時、私は75歳。これこそ一生のお付き合いです。

 ここに出席を誓い、筆を置きます。


注)Mの時間とは何でしょう?この記事をお読みください。by 変なガッコのセンセ

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