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Back to the past !

 本稿では、投稿コンテスト「かなえたい夢」の意図には沿わず、反則扱いになるのを承知で書かせていただきます。またもやcanvaを利用して「#タイムスリップ #大学入学」をキーワードにしてAI君にイラストを描いてもらったらこんなイラストが登場。そのニュアンスは何となく伝わるでしょう。さて、かなえたい夢の実現のため、1981年に戻ってみます。

1 昭和のグローバル人間になる?

 もしタイムスリップして、大学入学の時まで戻り自分自身を正したら、どんな人生を歩んでいたのでしょうか?あくまでも、これまでの自分の人生を全面的に肯定した上での想像ですので、どうぞ悪しからず。もしもそれを否定するのであれば、高校時代に遊び呆けたことや、身の丈に合った進路先にしなかったことなど、後悔の念が次々と押し寄せて来るでしょう。

 ただし、あの時逃したチャンスも多かったことは、正直に認めます。しかし、一浪して入学できたのがこの程度の大学だったという思いが根底にありました。すなわち、入学先の教育方針の魅力的な点や多大なメリットを活用できなかったのです。表向きは、ミーハー大学。しかし、昭和50年代の日本としては、実に画期的な教育システムや裏事情を有していたのです。

 改めてそれを反芻したところ、単純に「もしも」という視点で軽はずみな考えを巡らせるのも面白かろうと思い、こんなタイトルを考えつきました。在学中の4年間は、怠惰による回避の連続でした。すなわち、「もったいない」の連続だったのです。ただし、そんなことを思い始めたのは、つい最近になってのことです。

 特色も知らずに入学した大学が、アメリカのプロテスタントの宣教師によって150年前に創設されたミッション・スクールゆえ、とにかく英語の習得を最重要視する学校でした。英会話教室など昔からあったものの、その徹底ぶりは比較にならず、凄いカリキュラムでした。

 高校までは、ろくに英会話もできない教師たちから英文法を教え込まれ、英単語を暗記しまくった結果、読んだり書いたりする面では、むしろ得意としていました。今、授業場面の記憶を辿ると、教師の発音は日本語訛りを飛び越して、単語の順番に沿った機械的なバラバラ音読でした。生徒たちは教科書の文章を目で追うだけ。リスニングとは程遠いのが、普通でした。

 大学では、学部を問わずに2年間の英会話の時間、「オーラル・イングリッシュ」が必修で20人未満の少人数、そして教師は日本語を話せないネイティブでした。容赦ない巻き舌発音で “Pardon “の繰り返しでイラつかせ”Shit !”
と言わせる展開が常でした。どうやらネイティブさんたちは、日本に派遣された米国人ビジネスマンやその妻(主婦)という感じでした。

 しかし、これを2年間受講させるという方針は、「本気」を感じました。しかし、度々自主休講しました。出席すると”absent”の”reason”
を訊かれました。 理由も、I had a head-ache. stomach-ache,had a cold などでは済まず、遂にネタが尽きて、”canser” にGoddamn !”というオチに至る MANZAI  に成り果てました。

 もし、この時間を最大限に利用して、英会話に勤しんだとすれば、その当時のセミ・ネイティブ間違いなしだったと思います。一緒のクラスになった人たちは、単位欲しさに我慢の一文字。誰も、フランクな会話などできず、戦勝国民による叱責の連続に耐えているだけでした。

 もし、この授業を制覇する者が出現したら、当時のグローバリズムの最先端に立つことができたはずです。何たって英語ではない米語ですから、スーパー巻き舌+スラングあり。単語間にスペースのない発言をまくしたてられるのを分解して理解するのは、至難の業でした。

 現在、とっくに還暦を過ぎた私の向学心は、この授業を全うする自信があります。もっとも今の若い人たちなど、「御茶の子さいさい」でしょう。学校には、ALTが常駐しています。当時の私が生まれて初めて外人と話したのが、あの授業の最初のレッスンでした。1981年入学。そもそも、時代が違うのです。

 あの時代にタイムスリップして、大学1年生の私自身に憑依して、2年間に渡るネイティブによるオーラル・イングリッシュの授業に参加する。私は、その後どうなることでしょう。多大なプラス作用を、どう受け止め、どんな道を進んだのか。想像するしかありませんね。

2 ギャップの連続に驚愕して

 私が選んだ学部は、文学部でした。文系では法、経済 経営などがありました。まあ、ビジネスから逃避しようという思いからでした。後にそうした実学の面白さに気づくわけですが、こちらを選んだら教員にはならず、きっとビジネスマンになっていたはずです。

 文学部には、学校の看板的存在の英米文学科を先頭に、史学科、日本文学科、フランス文学科などがありました。私は、そのどれでもない教育学科を選びました。しかし、教員になりたかったわけではなく、学部を選ぶ時と同様に未来を絞り込むことから回避するためでした。

 それと矛盾していたのは、以前書いた以下の記事で、受験できなかった大学が史学科だったということです。あれこれ言いつつ、学部や学科は二の次だということが、バレバレですね。

 私たちの世代は雨後の筍大学ができる前だったため、私立大学の倍率は50倍前後で、一応受験戦争などと呼ばれていました。それでも現役の時に全滅したのは、クジに当たらなかったからだと解釈する始末でした。つまり、都会の大学であれば学部や学科などは、どこでも良かったのでした。都会生活のみが、目的でした。

 そもそも、入試合格がゴールであり、入学後はモラトリアムだと決めつけ、就職を遅らせる思いしかなかったわけです。ですから、教員免許でも取っておくかというノリで選んだに過ぎませんでした。しかし、入学後、その学科のスペシャルな点に遭遇したのです。

 現に、その学科のカリキュラムが中学・高校の5教科全ての教員免許が取得できる上に、当時は玉川大などの少数の私立大学でしかできなかった小学校の教員免許まで取得できるという珍しい学科だったのです。当時、このシステムは、国立大学教育学部の専売特許でした。

 選べる校種も学科も自由自在。しかも、何を取得するかは、入学後の履修登録で決める方式で、教育学部では想定もされなかったシステムだったのです。通常の教育学部では、専攻教科を選び学科が決まるという方式でした。

 免許状に必要な教職課程に関する科目は、学科の必須とされていました。そして、英語の教員免許を取る場合には、英米文学科の授業を履修すればいいのでした。私は、この選択肢の豊かさを実感もせず、一番簡単そうな母国語である「国語」を選んだというわけです。

 学科は1クラス75人の3クラス、単純計算で225人いました。私のクラス名は、PQRのQ組でした。同じ学科に友人は少なく、主にサークル仲間たちと付き合っていました。場の雰囲気で、人種の違いを感じたからです。

 都会のど真ん中の敷地には、大学、短期大学の他に、幼稚園、初等部、中等部、高等部が、ひしめき合っていました。いわゆる「エスカレーター式」という総合学園でした。そのため、キャンパス内には、大学生以外の様々な年齢層の人間が闊歩していました。

 大学には、2種類の人間がいました。地方から出てきた田舎者とエスカレーターで半自動的に上って来た者です。その後者の1人が同じ学科で、自宅がキャンパスから徒歩2分。ごく普通の一軒家でした。そこが、男女を問わずたまり場となっていたことを知ったのは、入学から半年後のこと。本人から誘われたのでした。

 行ってみると、広くもない庭に大勢いてバーベキューをやっていました。一応、会費を払って、プラスチックの使い捨てコップにビールを注がれました。和気あいあいな雰囲気は、入学以前からの付き合いである由縁で、新参者の私は珍しがられました。

 ここは、私にとっては、便利な情報源となりました。ほぼ全員が、高等部出身で教育学科だったのです。自分たちを、「残念組」と呼んでいました。結局、このキャンパスで全ての学校生活を終える無念さを、肌で感じました。マンネリズム集団でした。人種の違う私を誘った理由も、そこにあったようです。

 裏道の通学路ということもあり、そこには何度か出入りしました。しかし、ある時から行かなくなりました。2年生の後半だったと思います。彼らがなぜ教育学科なのかを知ったからでした。それは、田舎者にとっては、衝撃の事実だったからです。彼らは、誰もが教員志望ではなかったのです。国立の駅弁大学よりも優れた教職課程など、どうでもよかったのです。

 表向きは、「教育」という誰が見ても字面がいい名称でありながら、本当の中身は広告代理店やマスコミ関係と強固なつながりがあり、◯森ゼミだとフジテレビというふうに、コネを頼って入って来た者ばかりでした。私の同期で、ウソかホントか知りませんが、公立の小中学校の教員になったのは、225人中の数人だけ、しかも地方出身者だったそうです。

 しかし、3年生から始まるゼミは、取得単位数と評価で決定されました。一般教養を4年生まで引きずり、代返の連続でC評価ばかりだった私を入れてくれるゼミなど、コネなしの若い助教授先生の研究室しかありませんでした。

 それを知っていたとすれば、私はどうしたでしょうか?◯森ゼミは、確か教育行政学だったと思います。就職のコネはあっても、シビアな壁をクリアする厳しいゼミだったそうです。フジテレビといえばバイト先であり、ADさんの苦労も見ています。その他、ブラックなところも知っていました。ですから、嫌な勉強に耐えてまで就職したいとは思えませんでした。

 4年生になり、人並みに就活を始めました。昨年度まで、先輩たちは、〜生命、〜銀行、〜電力に〜ガスという、未知の世界に旅立って行きました。私は、どこを目指すか見当もつかず下手な鉄砲方式で、マスコミ各社を巡回してみましたが、当然の如く、コネなし学生は、どこも門前払い。逆に不思議がられる始末でした。

 卒業後の就職を前提として入学してきた、経済学部の知り合いたちは、手堅く内定をいくつかゲットしていました。行きもしなかった学生課で相談したら、「文学部ねえ....」と言いつつ埼玉のベアリング製造の会社の求人票をもらいました。ベアリングが何であるかもわからないので、早々に退散しました。

 当時は濃紺が主流だったリクルート・スーツを、なぜか新宿駅に隣接していた小田急デパートで買いました。後にウルトラ一張羅となります。肩までどころかヒッピー並みに伸びた髪を切って、形だけの就活準備はできました。

 当時の解禁日は、10月1日でした。それは厚手の秋冬仕様だったので、夏場の就活でちゃんと着た記憶はありません。卒業式も、そのスーツで出席しました。それしか持っていなかったのでこれは確かです。内定は、一応2つもらいました。しかし、マグレで受かった教員を選びました。せめてもの親孝行のつもりでした。

 例のエスカレーター集団と出くわし、就職先を尋ねられ、中学校の教員だと知ると、複数の冷笑が浴びせられました。彼ら全てが、企業人に決まっていました。女の子が1人寄って来て「向いていると思うよ」と言ってくれました。

 社会人1年目は、波乱のスタートでした。その象徴的なエピソードを書き、アクセス数が極端に少なかった記事を紹介します。

 この時期にタイムスリップしたくはありません。この時、ユニークな大学生活とは完全に訣別しました。新卒の5月の話です。もし、私を傍観してきた存在がいたとしたらば「世渡り下手の天国と地獄」なんてタイトルを付けることでしょうね。

 辛くなかったというのは、ウソになります。しかし、それからの人生の方が遥かに長く、波瀾万丈を楽しみました。ただし、小手先の世渡り上手では、どうにもなりませんでした。

 今これから、実現したいことは、たくさんあり過ぎます。過去を修正しようなどという姑息な企みなど、当然何のメリットもありません。カウンセリングで学んだ「今、この時」を大切にしようと、新たな決意に至りました。

 5000文字を経過。長々と失礼しました。ここに、過去の自分に憑依して変える目的のみに使用できるタイムマシンがあります。進呈しますので、使ってみませんか?あまりお勧めしませんけれど。

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