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モヤモヤからの解放

 コンプレックスという言葉は、よく使われていますが、簡単な言い方をすると「絡み合ってほどけなくなった心の状態」のことです。この概念は、C.G.Jung(ユング)が発明者です。ちゃんとした学者さんの定義は、以下のとおり。

コンプレックスは、さまざまな心理的構成要素、例えば、衝動・欲求・観念・記憶などが、何らかの感情により複雑に絡み合ったものを指します。

心理学用語集“サイコタム”より

 私は、なかなかほどけない毛糸の塊とイメージしています。優越感も劣等感も、心の絡み合いが明確化できない思い込みですので、どちらもコンプレックスです。さて本稿では、一般的に使われている劣等感に焦点を当ててみましょう。サンプルは、私自身の劣等感コンプレックスとしましょう。

 現在、劣等感というモヤモヤから解放されています。他人よりお金がないとか、人のご機嫌を取るのが下手だとか、算数や計算に苦手意識はありますが、心の中で絡まっている状態ではないようです。取るに足らない優越感などは、まとめてブックオフに買ってもらい、150円の値が付きました。心のデコボコは、ほとんどない状態になっています。私のコンプレックスは、ほどけた状態にあるようです。または、心の借金ゼロ状態と呼んでいいかと思います。

 これを認知症の症状と結論づけることもできますが、今までいろいろな劣等感がを根気よくほどいてきた結果だと思っています。ユング心理学では、自分らしく生きる一大目標を「自己実現( self-realization )」と言い、それまでの紆余曲折を、「個性化の過程」と言いました。更に詳しく説明を加えると、私自身も行き詰まるので、この程度にしておきます。

 コンプレックスを解消することは、一生涯の課題で、長い取組が必要とされます。しかし、ユングは「性格は変化する」という希望の言葉を与えてくれました。その変化の過程(個性化の過程)において「自分らしさ」を見つけるのです。いかにも専門家然とした述べ方でしたがあくまでも単なる私論であることを申し添えます。あくまでもオレ流解釈として受け入れてください。

 まずは、自分の心は何とかなると考えてください。この世に悪い性格なんて存在しません。さあ、劣等感脱出をスタートしましょう。その手がかりになるのかは不明ですが、今まで私がたどった道のりを紹介させていただきます。

 私の祖母は、明治45年生まれ。年の離れた弟と妹がいたので、小学生の時、(仕方なく)祖母の部屋で寝ていました。お盆になると、なぜか私だけを連れて隣町の実家に行くのでした。元村長さんをした厳格な父がいたそうで、名家そのものでした。そこで、しつこく我が家との格の差を教え込まれました。

 お前は、農家の長男だから農業高校に行く。しかし、ここのY君は国立の◯大学、二男のK君も国立の⬜︎大学。だから頭の良さが元々違うとのこと。どういうつもりなのか不明のまま実家の自慢話と我が家をさげすむ言葉のシャワーを浴びせられました。理不尽な話ですね。

 何だ、オレは頭が悪いんだと思うようになりました。今思うに、嫁ぎ先が戦後の農地改革で大地主の庄屋様から引きずり降ろされ、更に夫を若くして亡くし、実家の自慢話がその憂さ晴らしの対象となっていたようです。私は、そのネタにさせられていたようでした。鈍感なのかイヤな思いをしたという記憶はありません。

 酷い話と思われるでしょうが、これが、劣等感の存在を初めて知る機会となりました。しかし、そんな扱いをされたと思うだけで何も感じませんでした。懲りることなく、お盆は祖母の言いなりになっていました。

 高等女学校出の祖母は、私に最低限の読み書きを徹底的に教え込みました。箸の持ち方と同時に、ミミズの這ったような字も矯正されました。とにかく漢字の縦を垂直に書くようにさせられ、漢字の覚え方のノウハウを明治生まれの才女から、徹底的に教わりました。

 そのため、国語力は私にとって強固な基礎となり、同じ言語の英語に伝播して、文系教科全体を強化していきました。ど田舎中学時代の成績は、学年180名中20位以内に入っていました。そこで、地域の旧制中学だった進学校に進むことになりました。高校入試の勉強をした記憶はありません。義務教育範囲の内容は、授業中に全て覚えてしまう方式を貫きました。

 ところが、入試本番では凡ミスを連続しました。汗ばんだ手から鉛筆が滑り落ち、3本中の1本の芯が折れました。あと2本しかないと思うと、めまいを感じるぐらい動揺しました。その後、どんな答案を書いたのか、全く覚えていません。鉛筆1本落としたことだけで、緊張感で膨らんだ風船の空気が抜けきったような状態になったのです。自己採点で、数学のサービス簡単問題3問連続不正解でした。

 入学後、担任から入試の結果は、320人中317番のギリチョン合格と知らされました。安堵のため息とともに、自分が天性の「アガリ症」であることに気づきました。それまで、自己理解が著しく欠如していたと言っていいと思います。これが、私自身の根底にあるコンプレックスが表出した最初の出来事でした。

 そもそも、アガるという現象は過度な緊張状態に陥ることですが、自己を客観視できない状態になるためだと考えられます。自分が望む理想自己と、現実自己のギャップを過度に意識してしまう心理状態に陥ることで、簡単な言い方をすれば、「小心者」ということでしょう。

 小心者は、些細なことを気にします。他の人が見れば、どうでもいいことを過度に気にすることが絡まり合って、劣等感コンプレックスに至ります。大勢の前での話し始めに起きる吃音や滑舌の悪さ、そして自分一人を見る目にネガティブなメッセージを感じた瞬間、両膝がガクガクし始めます。そのガクガク状態を悟られまいという意識が移り、悪循環が始まるのです。

 親しい友人たちは、横柄に構える私とシドロモドロに陥る私の両面を理解して、受容してくれます。人は誰でも、ジキル面とハイド面、すなわち表と裏をもっています。極端な言い方をするなら、優越感と劣等感を右往左往している存在だと考えられます。

 白黒思考(all-or-nothing thinking)という言葉があります。 0-100 思考とも言って、物事のグレーな部分や曖昧な部分を嫌う「こだわり」で私はその典型だと気づいたのが、再び学生になった32歳の時でした。それまでは、人との違う点に強いこだわりをもち、とにかく尖って生きてきました。

 その時、現職教員が身分を保持したまま職務を完全に離れて2年間のモラトリアム(内地留学)を与えられる制度に乗っかりました。派遣する行政側からは研修のための出張扱い。それは単なる表向き。派遣先では1人の大学院生として好きな「研究」に勤しむことになります。

 丸2年間、手製の出勤簿を県側に提出する以外、学ぶ自由・遊ぶ自由を与えられました。その受験を許可される建前としては道徳教育専攻だったのですが、企てどおり入試合格後は臨床心理学に鞍替えしました。そして、自己と向き合う生活を始めることになりました。

 20名余の同期生たちは、皆が現役の教員。校種も小中高、年齢も20代~40代、出身県も東日本全域に渡るというグローバルな出会いでした。もちろんキャラクターも色とりどりで私など埋没してしまうような個性的人物ばかりでした。それだけで、私の白黒思考など吹き飛ばされて、久しぶりに素の自分との再会を果たしたのでした。

 そこに追い討ちをかけたのが、「心理検査演習」でした。質問紙法によるYGやMMPIなどは、小ずるいやり方によって、予想通りの結果や意外な結果とバラバラの両方を単純に楽しみました。しかし、投影法のTATやロールシャッハ・デストなどは、ごまかしが効かずにお手上げ状態でした。特にロールシャッハの解答を、刑務所や少年院などの心理職を長年務めた専門の先生に見せた時、絶句して私を見返した瞬間は、忘れられません。

 客観的に自分の心を見つめることができたのは、貴重な経験でした。そして、長きに渡って悩み続けてきた劣等感コンプレックスが、今まで生きてきた原動力だったことを知りました。すなわち、コンプレックスをポジティブ認知するようになったのです。そうなれたのは、心理検査の結果を抱え込まず、仲間たちと分かち合える機会に恵まれたからです。

 あちこち尖っていた心は、学位記授与式(卒業式)を迎えた頃には、あちこち角が取れていきました。そして、できないことに正面から向かって行こうとするレディネス満タン状態で、学校現場に戻っていきました。改めて一緒に学んだ仲間たちに、感謝しています。

 貴重な経験でした。しかし、どこでも誰にでもできる経験です。心の中に沈殿しているコップレックスを賞する不要物を捨てるのです。または、コンプレックスの捉え方をリフレーミングするのです。ただし独力では無理です。15分診察の精神医療でも限界があります。「傾聴」してくれる人が必要です。後腐れなくカタルシス状態になりたいとすれば、カウンセラーを使うのが得策だと思います。

 長々と語ってきましたが、悩みは捨ててスッキリすべきです。余計なものでこんがらがった状態を解くのには、相当の手間がかかり、時間の無駄です。心のモヤモヤから解放されるには素の自分に戻ることです。まずは、ゴミ捨て場を探しましょう。そして、捨て去ってスッキリしたら、新たな元気を充填しましょう。とにかく、実行あるのみです。私で良ければ、お手伝いしましょうか? https://www.agu1981.com 













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