850大好き!
上の写真は、神奈川県相模原市のボルボ専門店 Doctor V 様の広告から引用させていただいたことを、あらかじめ申し述べます。このお店から、昔乗った愛車をもう一度ということで電話したのが、10年ぐらい前です。お世辞ではなく、信用できるボルボ屋さんです。特にクラシック・ボルボについては、メンテナンス面において、日本一頼りになる専門店として、個人的に保証いたします。
HP:https://doctorv.jp/
※YouTubeもありますよ。
当時、この850Rと言えば、「ステーション・ワゴンの王様」と言われ、憧れの的としてもてはやされていました。とにかく目立ちました。ボディ・カラーは、限りなくフェラーリに近い赤で、エンジンは、ポルシェ製の直列5気筒ドッカンターボ。当時、田舎では3ナンバーは珍しく、かなりの車間距離を開ける後続車がいたりして、怖がられたものです。
新車の車両本体価格は、600万。薄給取りの教員が、なぜこんな暴挙に至ったのでしょうか。いろんな噂が飛び交いました。結論としては、結婚を諦めたということになったようですが、「欲しかったから」と言うだけでした。変人扱いした噂など、無頓着な35歳でした。
一応、デモシカ教師も12年続き、自分へのご褒美と思って買っただけです。学級担任も外され、生徒指導主事となり、後々へずっと温めてきた思いを校長に否定されたという、悔しい思いをしたからでもあります。
教職大学院が、学校教育研究科生徒指導コースという名称であり、道徳教育、心理教育が主たる内容でした。しかし、田舎の荒れた学校としては、先になってワル君・オネエちゃんたちとバトルする適役と判断されたのです。そして当時、不登校生徒数は、1学級分以上の40名を超えていました。
校長のアイディアで「不登校生徒親の会」をやってみようと言われ、愚痴の会はやらないと言い放ちました。夜6:30スタートでしたが心ある仲間たちが参加してくれて、教員とのつながりを確かなものにしていく会にしました。文句を言う相手は、私と3人。他の同僚たちには、とにかく保護者と仲良しになることを主たる目標にしました。参加人数は増えに増え、借りた公民館全室に、100名超の参加を得ました。ここで、私の「本分」を確信しました。
私の個人的な目標は「臨床心理士と国語教師の二刀流教員」でした。「二刀流」という名称は、私が先ですが、異動希望が叶わなかったので、名乗ることもできませんでした。結局は、学校心理士で、ステップ・アップは停止しました。「二刀流」は、改めて彼に献上します。
さて、ボルボは、気前のいいメーカーとして世に知られていました。現在の3点式シートベルトやサイド・エアバッグなど、安全に関する装備の特許を無償にしてきた歴史があります。人間中心をモットーとしている、度量の広い心による、輝かしい歴史があるブランドです。
私の850にも後席中央に折りたたみ式のジュニア・シートがありました。後に、ボルボ社は経営危機に陥り、他社の傘下になるのですがこの姿勢は揺るがなかったのは、賞賛に値します。潔く、カッコいいメーカーなのです。
当時珍しがられた装備に、乗車エリアと荷物エリアを仕切る、太い網状のセーフティ・ネットがあります。いつしか、一部生徒には「護送車」と呼ばれるようになりました。後席に2人ほど乗せて、チャイルド・ロック。おずおずと「このネットは、脱走防止のため?」と聞いてきて大笑い。「ドアを開けるとすぐに逃げられるよ」と返すも、レバーだけスカスカ動いて開きません。ただし、アルカンターラと本革を組み合わせた、乗り心地抜群の護送車でした。
当時、警察署の少年係長さん、県の福祉担当者、そして児童相談所や児童自立支援施設とのつながりを無理矢理密にして、目に余る暴力行為などは、毎回少年係長さんより灸を据えていただく約束になっていました。ここまでできたのは、積極的な飲みニケーションの繰り返し。つまり、仲良しになったということです。フランクな彼は、警視正にまで上り詰めました。
もう時効ですので、850Rによるイタズラ話をおひとつ。後席に乗ったのは、男子生徒1人。やらかしたことが大きいので、児相一次保護かなと思う反面、態度は最悪でした。そこで直線300mほどの道に行き、「これターボというんだけれど、スピード出していい?」と問うと「どうせ大したことねえ。どーぞ」と答えたので、仰せの通り、アクセル床までほみこみました。ドッカン・ターボ始動!
経験したことのない加速力に、彼はビビリまくり「やめてくれ!」と叫ぶも「正しい言い方は?」と答え、「やめてください!」と言った後、スピードは緩みました。100km/h そこそこで、怖いのはドッカンターボの効果なのです。ただし、今なら即懲戒免職でしょう。彼は素直に警部補さんから灸を据えられました。これは、恐怖体験の悪用(体罰)でしょうか?
今になって、こんなド派手な車を、凄まじい額のローンを組んでかってしまったのか、少し明らかになりました。教員という仕事に、飽きてきていたからです。「先生と言われるほどの~じゃなし」という意味で、嫌気がさしてきていたのです。幼稚な動機として冷笑されるでしょうが、処分対象にならないバカを一発やってやろうと思いついたのでした。
しかし、しでかしたバカは、上記の如きヤサグレ教員のようなことばかりでした。そして、850を買った翌年、なぜか結婚。そして翌々年には、長男誕生。助手席のサイド・エアバッグは、スイッチ・OFF。前方が頭部のボルボ純正ベビー・シート(誕生祝いに父に要求:7万円)を据え付け、これには3人の赤ん坊が乗ることになります。前席なので、目隠し禁止なので世間に丸見え状態になりました。
そして、広い荷室に加えて後席を倒して、大量のパイプ椅子を運搬する運搬車としても使われました。天井まで積み上げて走り出すと、後輪付近から異音がしました。どうやら、サスが悲鳴を上げたようでした。
結局は、13年乗りました。買ってすぐに稀少車として、プレミア価格で売って欲しいという話もありましたが、お断りしました。その後サンルーフからの雨漏りやら、塩害による塗装面の劣化、子どもたちの仕業による本革シート汚れやヘタリ、頻繁になったモデルチェンジにより、どんどん老いを早めていきました。
最期の瞬間は、勤務先の急坂を下っている最中、突然前方のボンネットが開いて、水色の液体がドバッとフロントガラスに放出された時です。土曜日の部活終了時でした。何とかボンネットを閉めて、行きつけの工場に持ち込んだら「発電機が壊れたままで、ここまでよく保ちましたね。ご臨終です」と言われ、代車を貸してもらい帰宅しました。
その後、何かの会議があった時、駐車場で私のと同じ真っ赤な850Rを発見!あら懐かしやと、会議の終了後、持ち主が現れるのを待っていました。そして、出会った瞬間、その人は私のフルネームを言いました。「憧れていました」と言われ、照れ隠しに「消防車と言われていました」と言い、2人で爆笑しました。
そろそろ部品も体に入りづらくなっているという話も聞きました。もうクラシック・カーの領域のようでした。Doctor V 社の存在を知ったのはその後のことでした。
スウェーデン車は、素敵です。今でも好きですが、四角ばった形が一番好きです。候補は、940、960、そして850大好き!数えきれないほどの楽しい思い出を、ありがとう。また、保証による故障ばかりで、いろいろニューモデルの代車にも乗せてくれて、ありがとう。
最後の最後に、世界一の安全をありがとうと声を大にして言いたいと思います。
No VOLVO,No Life.
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?