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完璧(じゃ)な(い)あたしたち

 最近、日本の文壇で未だ根強い純文学とエンタメ文学の区分についてだんだん嫌気が差してきた。もちろん、そうした区分を作り出した伝統と、この区分をまだ必要としている読者や編集者、出版社に対して敬意を払うつもりでいるが、書き手としてどちらかを志向するあまり、作品が小ぢんまりしたり、表現が保守的になったりするのは好ましくない。純文学とエンタメ文学は対極にある存在ではなく、それぞれ非常に幅が広いグラデーションを成していて、その大半が重なり合っているのだ。なんてのは小説を書く人なら誰でも考えているはずのことで、新人作家の私が改めて指摘するほどのことでもない。

 王谷晶『完璧じゃない、あたしたち』はまさに分類に困るような幅の広い作品だ。女と女が主人公の23の短編を収めたこの作品集には、女主人の夫を殺した下女の独白「ばばあ日傘」のようなハラハラドキドキミステリーもあれば、スナックでアルバイトをしている惨めな女の子の話「ときめきと私の肺を」のような物静かなヒューマンドラマもある。狩人が宇宙に出向いて隠者を狩る短編SF(「姉妹たちの庭」)や、震災と津波を遠景とした女二人の逃避譚(「陸のない海」)、更には小説の形を取らない滑稽な落語(「腹の町」)や戯曲(「グロい十人の女」)といった作品もある。真正面からとあるレズビアンカップルの不器用なセックスと、やがて訪れる必然的な別れを描く「Same Sex, Different Day.」がいとも哀切で愛おしい。

 王谷晶という作家はTwitterで知った。いかにもレズビアンっぽい表紙と、プロフィールに同性愛者とフェミニストとが書いてあって、気になってはいたけれど、最初に読んだのは本書ではなく、文芸誌『文學界』2018年7月号掲載の「女が好き」というエッセーだった(翌8月号に私のエッセー「ある夢」が同じコラムで掲載されていたのでその縁で)。短いけどリズミカルで痛快な文章が印象に残った。そのあと『完璧じゃない、あたしたち』を入手したが、なにぶん積読が山ほどあるのですぐには手をつけられず、最近エジプト旅行のお供として持っていったらやっと読み終えることができた。「ばばあ日傘」は深夜三時のほとんど誰もいないルクソール空港で読んだので、この文章を書いている今でもあの狭くて寂れた空港の情景がありありと浮かび上がる。余談だが、エジプト旅行のお供として持っていったもう一冊の本はバカ売れしているらしい『コーヒーが冷めないうちに』だったが、こちらはあまり面白くなくて半分読んで諦めた。

 本書で一番好きなのは「東京の二十三時にアンナは」という短編である。夫の赴任とともに東京に引っ越してきた黒人女性の写真家アンナは、乗りたい電車が止まっているため駅で立ち往生する。人身事故で止まっているのだが、日本語が読めないアンナにはそれが分かる術もない。友人も知り合いも誰一人いない全くアウェーな東京という巨大都市で、言葉も通じず、行く当てもなく、困り果てたアンナはある女の子に出会う。女の子は綺麗だけどとても不機嫌で、口調が悪く、よく悪態を吐く。ご飯に誘われ恐る恐るついていったアンナは、女の子はイ・サニョンと言って、ソウル出身の韓国人だと知る。ソウルはいい街? とアンナはサニョンに訊く。旅行好きのサニョンは答える。「いい街なんてこの世のどこにもない。どんなキレイな場所でもクソな奴に怒鳴られたら最悪の街。何にもない場所でも、誰かが優しくしてくれたらいいところ」。

 そして、こう続けた。

好きな俳優がいたの。有名な人。ハリウッドで活躍してるハンサムな人。その彼が、なんかのインタビューで言ってた。「旅は素晴らしい。生まれ故郷を離れて世界を巡ると、人種や宗教や肌の色の違いなんて人間にとってすごくちっぽけなものだと感じる。どんな人でも、みんなただの人間なんだってシンプルな事実に気付いたよ」。子供のときそれを聞いて凄く感動したの。だから私も故郷を離れた。でもね、いろんな土地を巡って気付いたよ。人種や宗教や肌の色の違いがちっぽけだって思えんのは、彼がお金持ちで白人で大人の男だから。人種も宗教も肌の色の違いも、私にとってはぜんぜんちっぽけじゃない。全部生死に関わるんだよ。

 これを読んで、ああ、なるほど、そうだ、と思った。人種や宗教や肌の色、言語や性別、その一本一本の境界線が私達を縛り付け、痛めつけ、雁字搦めにする釣り糸だ。みんな違ってみんないいとか、越境とか、ボーダーレスとか、そうした聞こえの良い言葉が世の中を充満していても、私達は決定され、不利益を強いられ、場合によっては命を脅かされる。差別は存在しない、違いは些細なものだ、なんて軽々しく言えるのは、その人は多数派で、社会的強者で、既得権益者だからなのだ。日本で暮らす韓国人であるサニョンがどんな怖い思いをしたのか、何故こんなことを言うのかは、小説の中では説明されていないが、説明がなければ分からないほど、この本を手に取る読者の想像力は貧弱ではあるまい。

 本書の作者、王谷晶を貴重な作家とする所以がここにある。女性、外国人、セクシュアル・マイノリティ、セックスワーカー、身体障碍者、言葉が不自由な人など、本書には様々な少数者や弱者に対する目配りが窺える。作品の中で登場するこれらの弱者は必ずしもみんないい結末を迎えるわけではないし、弱者同士が傷を舐め合うだけではなく時には傷つけ合うシーンもあるけれど、どの作品でも弱者を慈しむ作者の暖かな眼差しが感じられる。それは中途半端にポリティカル・コレクトネスを目指すような人が作り出せるものではなく、普段から差別や平等、人権について考えている人でなければ書けないものだろう。残念ながら私が敬愛する何人かのレズビアン作家を含め、このような多様な弱者の視点を念頭に置く人は日本文学の作家にはまだまだ少ないように思われる。

 作者は「女が好き」のようなエッセーを書くほどの人だけれど、本書は別に女性礼賛の本ではない。女というものは不器用で、ダサくて、嫉妬深くて、滑稽で、貧しくて、怠惰で、惨めで、愚かで、時には打ちのめされて、傷つけて、傷ついて。この小説集に出てくるのはそんな女達ばかりで、男の幻想を満たすような完璧な女は一人も出てこない。でもそんな女達でも、そんな女達だからこそ生き生きとしていて、実際に生きている感じがして、とてもとても愛おしい。それはオフィスの中であなたや私の隣の席に座っていたり、満員電車の中で肩が触れ合ったり、駅前でティッシュを配ったり、ゲロにまみれて深夜の街に倒れていたりするような、実際に生きている女達だ。やはりこの本は、女性礼賛の本かもしれない。ここに生きている女達に対しての、だ。こんなちっとも完璧じゃない私達でも、いや、私達だからこそ、完璧なのだ。

 電車が動き出し、アンナとサニュンは別れを告げる。「今日の東京はいい街?」とアンナが訊くと、サニョンは笑った。「うん、けっこういいかな。今夜の東京は、いい街だよ」あなたがいてくれたから、今夜の東京はいい街だ。サニョンにとっても、アンナにとってもそうだった。そしてアンナにとって、それはネオン煌めく東京という名の巨大都市が、一人で立ち尽くすしかない見知らぬ街から、誰かと出会った街になった瞬間でもある。同じ瞬間を私も何度も経験した。その瞬間を繰り返すことで、人と都市が馴染み合い、世界が広がっていく。そんな素敵で決定的な瞬間を三十枚足らずの短い小説で切り取れる作者は、実に素晴らしい才能の持ち主だと思う。

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