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CDショップからYouTubeへ刻まない何か

学生の頃は、お金がないから五感を研ぎ澄まして音楽を聴いた。
CDショップで試聴して、悩みながら勇気を持ってCDを買っていた。
音楽雑誌を立ち読みしながら、聞いてもない音楽を想像して頭の中で再生した。
CDレンタルしてテープにダビングしていた。ダビングテープだって貴重なモノ、残す曲と削る曲を慎重に厳選した。
わずかなお金の中で手に入れた音楽は、文字通りテープが擦り切れるほど聞いて、自分の魂となっていった。

今やYouTubeで聞きたい放題で、考えられない羨ましい時代になった。
無限の選択肢があって、気になる事は簡単に調べられ、すぐに検索してその曲にたどり着ける。
若い頃にこの環境にあったら、没頭して聞きすぎて廃人になっていただろう。

しかし、逆にその自由さと無限の選択肢が、自分の中の音楽の価値を下げていたかもしれない。
興味のある曲をすぐに聞ける反面、深く追求することや、背景を考え、特定の曲に感情移入することが少なかったかもしれない。
ただの、感情を瞬間的に盛り上げる道具に成り下がり、魂を作り上げる音楽などない、いやそもそも何度も聞くのはただの行為で、そこに至る全体を通して魂が作り上がっていったのかもしれない。


制限があるというのは、深い意味があるようだ。
自分の人生が、無限の選択肢があり自由に何でも手に入れられたら、自分自身の魂に何も刻まなかったかもしれない。
思ったことが何でも目の前にあれば、何も関心がないのと同じことになるだろう。

悲しみがあるから喜びがある、そんな相対性のある世の中で、絶対的な喜びを得る事は次元の変化の真理である反面、魂の実感には寂しい環境であるともいえるだろう。
宇宙の何たるかを知らないからこそ、頭の中で宇宙を想像し、自分の中の真理を心で再生してみる事こそ、魂に刻まれる自分だけしか作れない何かを創造することかもしれない。

すべて不自由である思い込みの世界から、想念と現実が自由の世界へと向かう、このように考えている人も多いかもしれない。
しかし、それもまた二元の世界であろう
かねてから、思いと現実が繋がる世界であり、より実感する世界を自分で開く、そんなグラデーションの狭間にいる。
かつての聞いてない音楽を頭で再生するように、思考の不自由さと自由さを心の中で体験している時間を過ごしている、そんな気もする。


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