宗教を化学反応させる
私は宗教に関心があります。
古今東西、ありとあらゆる宗教を自分なりに調べて、教義を掘り下げていった時期がありました。
しかし、宗教組織に属したことは1度もなく、調べるほどに組織に入る意味のなさを感じるようになりました。
教義は今の時代はかなりオープンになってます。密教の理趣経まで読めます。最も澄んでいる最澄に、ズルいと濁った気持ちにさせるくらいです。
組織を批判しているのではありません。
しかし、組織に入ると、他の考え方を排除することになります。
理解とは、知識と知識の化学反応だと思っています。
あっちの考えとこっちの考えを調べていくうちに、ある瞬間に閃きが来ます。
健全なところで言えば、量子力学を読みながら、般若心経を読むと、空の理解が突然やってきます。
くだらない社会現象の中で、ばかばかしい解説論評から、宗教教義の難解な部分がひもとかれたりします。
違う分野を掘り下げることで、何かが見えたりするから、閉鎖的な組織は弊害があると感じます。狭い教義を掘り下げても理解は深まりません。
(※個人的な感想です)
ここで、教義から考える私が感じる、インチキ宗教かどうかを見抜く基準をお伝えします。
通常、自分が悩んだり苦しんでいるので宗教に近寄っていくと思います。
その時に「あなたに解決出来ない事を助ける」という方向性を出す宗教組織はインチキだと思います。
「あなたには出来ない。だからここに頼り依存しなさい」
の意味を、オブラートに包みこう言います。
「今までよく頑張りましたね。もう大丈夫だから安心して信頼しましょうね」
危険なので離れたほうがいいと思います。
イエスもブッダも宇宙の仕組みを説き、あなたにも出来ると教えます。
ペテロに、お前にはできない、私だからできると言う、そんなのは偽のイエスです。
観音菩薩は名前読んだら助けますよと言うのは、私に依存しなさいと言う意味ではなく、助かりたいという意識になれば助かります、そういう意味だと思います。
宗教教義を文字通り読んでしまうと誤解してしまいます。
教祖や神霊が教えてくれたことを、教義に編成したのは人間です。
都合の良くしてしまう私たちと同じ未熟な人間です。
だからいろいろな考えを取り入れ、自分なりの化学反応をすることが、宗教活動に1番近いと思います。
そんな活動は1番遠い宗教活動と評する組織は、1番遠い存在にするのが1番安全なような気がします。
工事現場の安全第一とは、同じ意味です。
いや違います。
でもね、知っているんです、私の論理は違うのです。
宗教組織に入る人は、実は教義はどーでもいいのです。
自分の悩み苦しんでいることを、受け入れてくれる所にいたい人が入るんです。
そういう人にはとっては組織はいい所なのでしょう。
だから入信する人を批判しないし、教義を考える自分とは全く違う方向性だと思います。
そして今は、アシュタールさんの話で超化学反応して、私にとっての宗教教義は離散しちゃってる感じです。
というよりも、密教や唯識論やイエスの真意など、宇宙の法則を語っていると感じますし、それこそ多面的に理解します。
さやかさん、2周年おめでとうございます。