むしろボランティア「だから」やり切れた。Learning for All 独立前夜の熱狂
「子どもの貧困に、 本質的解決を。」というミッションを掲げる認定NPO法人「Learning for All 」は設立10周年を迎えました。それを記念し、歩みを知る人々を招いて、年度ごとに語り合う連載コンテンツをスタートします。
第1回はLearning for All が独立する直前、2012〜2014年頃の学生ボランティアのメンバーだった寺澤陸潮(リクオ)、家坂光弥(ミヤ)と、代表理事の李炯植が約10年ぶりに集合。当時を象徴するキーワードと共に振り返ります。
学生ボランティアが子どもの先生を務め、彼らを李が統括して、当時は学習指導にあたっていました。フィードバックを重ね、より良いチームを作り上げたその時間は、後のLearning for All 独立にもつながっているといいます。現在、リクオはコンサルタント、ミヤはマーケターとして活躍中ですが、この頃の経験は仕事をする上でも大きな糧となっているそう。
集合場所は、指導の準備などでよく集まっていた、東京・葛飾区にある「PRONTO京成金町駅店」です。
優秀な仲間集めが、成果を出すための肝だったから
李:ここのPRONTO、週3回くらい来ていたよね。朝は子どもの指導の準備や打ち合わせ、先生と指導のロールプレイをしたりしてから、駅前でメンバーと集合して、指導会場へ移動。指導や昼食が済んだら、またPRONTOで振り返り会をして、それから駅前の「かなまち酒場 玄」で飲み会をする。
寺澤:やってましたね。僕らの拠点は指導が土曜日だったから、金曜の夜も終電くらいまで準備して、土曜日は指導と振り返りも兼ねた飲み会で、それも終電まで。日曜日の朝も他の拠点のメンバーも交えてミーティングして、夕方また飲み会したり。
家坂:そうでしたね。私は日曜日の飲み会はお休みしてましたけど(笑)。
李:3人で集まるのは10年ぶりくらいか。ふたりとも全然変わってないな(笑)。
李:僕らが出会ったのは2012年の秋冬頃だった。2011年の冬に僕が「Teach for Japan」(※Learning for All が独立する以前の母体となる教育系NPO)に加わって、2012年の春にボランティアからサブPMになり、その夏にメインPM(※)になって。その時の拠点に先生として来てもらった。リクオは別の拠点で先生を務めていて、会うチャンスを伺っていたんだよ。
(※当時のTeach for Japanでは、メインPM、サブPM、ボランティア、など学習支援拠点に存在する役割を定めていました。「PM」とはプロジェクトマネージャーの略称で、LFA内では学習支援拠点を統括し、先生となる学生ボランティアの採用や指導などを担当する役割を指します)
寺澤:そうなんですか?
李:僕は僕で、この葛飾で「子どものためにあらゆる仕組みを変えてやる」と本気で臨んでいたけれど、仲間は学生ボランティアが中心で入れ替わりが前提。だから、なるべく継続してくれる優秀な仲間集めが活動を良くする肝だった。だから、リクオがいた拠点の飲み会にも顔を出したんだよね。
寺澤:覚えてますよ。先生役を務めることに少し疑いの眼差しを持ち始めていた頃に、その飲み会で李さんが「(一緒に活動しても)俺は後悔させない」って言ったんです。僕は東日本大震災後の“NPOブーム”で興味を持った若者の一人でしかなく、目の前に解決すべき課題があると理解しても、どこかで「本当にその課題解決を実現できるのか」と様子見していたんです。
李:その拠点は当時、あまり成果が出ていないけど、飲み会は盛り上がってて。でも、その会場で一人だけ、さめざめと泣いてるリクオがいた。トイレの柱の前で、すごく覚えてるよ。
指導のクオリティをリードできる拠点にしよう
家坂:実は同じ日に、私も指導が終わったあと、指導会場になったコミュニティセンターのトイレの前で泣いていたんです。そこを李さんに慰められて……。
李:そうそう、またトイレの前で。ダブルヘッダーだった(笑)。
家坂:私は塾講師をしていた頃に発達障害(グレーゾーン)の子どもを担当して、指導の仕方がわからなくなり、Teach for Japanで教わろうと参加したんですね。でも、最初の研修で考えたのが「担当する子どもが5年後、10年後にどんな姿でいてほしいか」という問いでした。
Teach for Japanの学習支援は、単にテストの点数を上げるためにある活動ではない。子どもが自分で立てた目標を達成したり、少しずつ勉強ができたりしていく成功体験を通して、「人生を自ら切り拓いていく自信」を得ること。それこそが目的であり社会的な意義である、と学びました。
参加した5日間のサマープログラムだけでは、この問いを考えるあまりに自分自身は何もできなくて、プログラムが終わった瞬間に、トイレで号泣してしまいました……。
李:きっと、ミヤは5日間で何かを学んで帰るつもりだったろうけど、僕は優秀だと感じていたから、「そうはいかない」とばかりに声をかけた。
ミヤが「結果が出せなくて悔しい」と言うから、「それなら俺と一緒にやろう」って。当時の僕は拠点の垣根を超えて、手練れのボランティアを自分の拠点に集めた「最強集団」で臨みたかった。指導を仕組み化し、受験対策にも乗り出して、若手リーダーも育成しようと。リクオやミヤも集まって実際に成果が生まれ、僕らの拠点が指導のクオリティをリードして、ロールモデルになれた。そこには後に独立する時の中核メンバーもいたし、思い返しても当時の熱狂ぶりはスタートアップさながらだったね。
全員が奇跡を起こさなければいけなかった
寺澤:当時は何をすればいいかわからないし、何もなかったですよね。指導準備の場所としてPRONTOを使わせてもらっていて、教材も準備があるわけではないし、常勤スタッフもいなくて。
家坂:教材は、塾講師をしていた時のものをたくさん参考にしていました。
李:そうだね。みんなに大手の学習塾でアルバイトをしてもらって「教材を学ぶ」みたいな時期もあった。当時はそれが最も効率の良い打ち手だと考えたし、子どものためだから背に腹は代えられない。
寺澤:教師向け書店の「第一教科書」で買い込んで、指導内容や試験問題の傾向を研究したり。でも、当時は世の中で「教育格差」が語られ始めたくらいで、この課題に初めて光を当てた団体だと僕には見えていたから、何もないことは当たり前。むしろ、世の中にないからこそ、自分たちがやらなければいけないという使命感がありましたね。
李:みんなボランティアだったけれど、プロフェッショナルな動きをしていたと思うよ。子ども個人、拠点全体、ボランティアと、すべてのコミットメントが高かった。
寺澤:当時は「全員が奇跡を起こさなければいけなかった状況」だったと思うんです。子どもが奇跡を起こすためにも、先生が奇跡を起こさなければいけない。そのためには組織で動かなければならない。今でも驚きますけど、12週間から18週間の指導期間で「奇跡的な組織」が出来上がっていくために、どのタイミングで波乱を起こすか、そこからこぼれ落ちそうな先生を拾い上げるかなどを未来予測して動き、しかもその精度が非常に優れていた。
家坂:「指導会場へ歩いて行く25分間、誰がどこに立って、どういうふうなフォーメーションで歩いていくか」まで考えていたよね。先生へのフィードバック頻度や受け止め方も考えて、今は話し相手を変えたほうがいい、とか。
寺澤:周囲から見れば「奇跡的な組織」でも、実は全てがデザインして作られていた。PRONTOも、その仕込みのための場でしたよね。
「Path Change」へ込めた想いと覚悟
家坂:「全ての行動に意図を持て」って、よくおっしゃっていましたよね?
李:言ってた。今からすれば躊躇するくらいに、強く伝えていたな。
寺澤:あの熱狂的な動き方は、ボランティアの大学生時代だからできたのかも。お金をもらっていたら、きっと頭で時給換算しちゃったと思うんですよ。
家坂:確かに……。
李:より純粋な想いだけだったね。
寺澤:「笑顔と結果」も言っていましたよね。どちらかではなく、両輪なんだって。
李:教育学の世界では、子どもに必要なのは「居場所なのか、学習なのか」みたいな論争って、今でもよくある。ただ、僕個人はこの対立はナンセンスだと思っていて、どちらも大事じゃないかと。だから「笑顔と結果」だよね、と伝えていた。
家坂:あとは何より、キーワードといえば拠点目標の「Path Change」です。
李:子どもたちが安心安全で、笑顔のある空間にしつつも、絶対に「今の結果」と「未来の結果」を届ける。それが結局は子どもの「未来の笑顔」につながり、人生を変える。これこそが僕たちのやるべきことである。そういうビジョンを「Path Change」に集約したんだ。
寺澤:熱狂の原動力はそれですよね。他者の人生へ介入し、文字通りにチェンジを起こす。それには大きく重たい責任が伴うからこそ、絶対に幸せにしなければいけない。僕たちと出会ってなかった世界よりも、出会った後の世界が、少しでも変わっていくように自分の中で「確かにチェンジをした」と納得できるまで見届けたい、見届けないといけないと思って関わっていましたね。今でも私もミヤも真っ先に思い浮かぶくらい、大事な言葉でした。
李:「掲げた目標が共有のビジョンになる」という状況をちゃんと理解できた気がしたな。それだけ芯を食う言葉だったのだろうし、子どもに関わってくれた先生たちと一緒に、中身のあるものにしていった感じがする。
家坂:それは「楽しかった!」って感情ではないよね? 私は、しんどかった。でも、しんどさの上に立つ、掛け替えのない時間でもあった。子どもに「私はあなたを信じている」と伝えるけれど、受験の結果にも責任を負えない。大学生なんて自分のことさえ信じられない。それでも子どもに「あなたを信じている」と言える大人が自分しかいなければ、言い続けると決める。毎週、言う度に不安になったとしても、それを超えるように「自分はプロとして、できることは全部やり切るんだ」と思い直す。私にとってはそういう時間でした。
李:本当の意味で、自分の口から出る言葉に「結果責任」と「行動責任」の両方を伴わせなければならなかったんだね。ビジネスの世界でいえば、ポジションが高まらない限りは味わえない責任感でもあるよね。ミヤやリクオは、それがもともと出来る人だった。それくらい一人ひとりがプロフェッショナルであることを求めてもいたし、他人の人生に介入する怖さや責任があるからこそ考え抜こうとした。それが僕には心地良かったし、そこで見られた世界もあったと思う。
寺澤:きっとアドレナリンが出続けてしまうから、終わった後にみんなで「玄」の飲み会で発散しないといけなかったのかも(笑)。
家坂:そうそう。自分の中で消化できないというか。
寺澤:だから「あの頃の指導とは何だったのか」を考えた時に「勉強を教える」では片付かないものだな、と思うんです。丹精込めて指導した時にも至らなかったと感じれば、自分に対して思うことも生まれる。子どもの話を聞いて社会への憤りを覚えもする。指導が終わると、そのまま帰宅できないくらいに、内心いろいろと思うことも多かったんですよね。だから、飲み会で吐き出していたんだと思います(笑)。
李:うんうん。ふたりと組んだのは1年弱くらいだったけれど、あのチームでやれたことは、僕が経営をする上でも大事なラインになっていて。「熱量が高いチームのあり方」「ビジョンの浸透とは何か」「影響力のあるリーダーとは」といった基準を若いうちに体感できたのは大きな財産。やり抜けたのはふたりがいてくれたからだし、特別な時間であり、仲間です。ここで成果が出ていなかったら、僕は後に代表を務めないだろうし、Learning for All の独立も無かったはず。今日はありがとう。
寺澤:よし!じゃあ、続きは「玄」でいいですよね?
(構成・文・写真:長谷川賢人)