浄土寺通信03-放擲論的廃墟的
放擲という概念について考えている。あと沈越についても考えてるんだけどそれはまた後日書く。
ことの起こりは先月の半ば頃だっただろうか、サイコーださん(前回参照)に誘われて参加している環境哲学の授業の面々(含教授)+αで、toggleさんを招いての勉強会に参加させて頂いた。toggleさんは界隈(といっても僕を含めて数人)の間で伝説とされている論文※1を書いた伝説的な人だ。というか僕のここ数ヶ月の思考はサイコーださんを起点に論文を経由してtoggleさん、授業を受けているSin教授の3人に支配されているような気がしなくもない。何かに影響を受けるとき、その対象にメロメロに夢中になるというよりはムスッとして距離をとっていたはずなのにいつの間にか絡め取られていたというときのほうが多い。その勉強会、ひいてはそこに集う面々の関心は放擲についてなのだが、まず放擲というのはうーんなんだろう。擲ち放たれた。英語で言うとAbondant。つまり、棄てられたとか使われなくなったということなんだけど、toggleさんは、人間の意図をもってなにかが棄てられることを放棄、人間の生活空間からなにかが阻害解放される現象を放擲、と解説していたように思う。人の世界から外れてしまったと言うかアンコントロールな非人間の世界に行ってしまったというかオブジェと化しているというか委ねられているというか…そういう非人間、非意図、操縦不可能、理解不可能なものとして人を取り巻く環境を捉えるのがモートン率いる環境哲学の世界観だと思っているんですが、そうでしょうか。モートンの自然なきエコロジーは基本机の上に鎮座しており、たまにカバンの中に移動したりカフェに連れて行かれたりして僕とともに楽しく暮らしている。ごく稀に開かれてちょっと読まれておもしれー!っつってまた愉快なおもりに戻る。モートンのヒューマンカインドも移動の頻度は低いが似たような感じである。モートンの裏にはハーマンと言う人がいて、ハーマンはハンマーを破壊したりしているのだが、彼のOOO(Object Oriented Onthorization)と言う伏字みたいな理論の本は頭に入らなすぎて3回生の頃から本棚常駐となり、モートンの本よりはかなり退屈な日々を送っているに違いない。あの頃真面目に読み切っていれば今頃ひと角の人物になっていたに違いない。ただまあ積まれているうちにその本を真面目に読んだ人から内容について教えてもらえることが多く、ハーマンもさることながらモートンもそんな感じになってきた。しかし他人の話はえてしてメタい(内容というよりはその構造と文脈への言及にとどまることが多い。これは口頭でのやり取りというものには夜通し語り合うとか付き合ってるとかでもない限り情報量に限界があるため、またネタバレを回避する粋な計らい)ので、自分で読んでサマリーを書いたり他人にネタバレしまくったりするほうが理解ができてよい。読め。読む。
ここを書いているときにRadioheadのEverything in Its Right Place が流れてきたのだが、マジでいい曲だよな。ここでいういい曲というのは元気づけられるとか勇気づけられるとか歌詞に共感したとか明日も頑張れるとかじゃない。絶望的な気分でみぞおちのあたりをヒリつかせながらゾンビみたいに夜道を放浪していたら、寂れた街路の片隅に全てを台無しにするような街灯の光に照らされて淡く輝くガラス瓶の破片があまりにも綺麗で、綺麗で、もしかしたらそのガラス瓶は誰かの渡せなかった恋文を詰めて海を揺蕩うこともできたはずなのに、ここでこうしてうち棄てられて、砕け散って、誰にも気づかれずに、それでもその輝きは宝石のように山頂から見る星空のように綺麗で、その輝きに瞬きもせず吸い寄せられているときに腹の底から湧き上がってくる奔流のようなものが頭頂部から突き抜けていった瞬間の虚脱みたいな、そういう趣がこの曲にはある。
さて、放擲についてなのだが、僕はもともと廃墟に興味があったのでその延長線上で放擲にも興味がある。廃墟というのも''放擲された空間''の一例だとは思うのだが、西洋美術史における廃墟(建築の文脈ではこいつがデカい存在感がある)を調べていたところうーんどうなんだろうなという感情になってきた。まずあいつらのいう廃墟って古代ローマの廃墟だし。その廃墟を見たときに、かつての古代ローマの偉容を想起するとか、それすら脆く崩れ去る時間の威力エモいとか、メメントモリとか、ガッツリ人間に引き寄せて考えてて放擲という感じではないよな…放擲っていうのはもっとこう、自分の心臓って自分の意思で動かしてるわけじゃなくて勝手に動いてるのに、その勝手に動いてる心臓に生かされてて止まったら死ぬ、意味わからん、明日止まらん保証ってなくね?ヤバ、みたいな感じだと思う。この勝手に動いてるの部分がハーマンで明日止まらん保証ってなくねがメイヤスーで勝手に動いてる心臓に生かされててがモートンだと思っている。メイヤスーというのも曲者でカンタン・メイヤスーという名前なのだがムズカシ・メイヤスーに改名すべきだと思っている。
そういうわけで放擲という観点から廃墟について考えるならもう少しアノニマスな廃墟について考えるべきだし、しかしそれってサイコーださんがやってることのような気がしなくもないという気がしてきて、国際建築批評学講座という謎の研究室にいることもあり一旦Ji Qi Xin について考えることにした。Ji Qi Xin というのは別名磯崎新というのだけれど、偉大にして世界に名だたる建築家で、ポストモダンの牽引者、理論と実作の双方において膨大な量の仕事を手掛け、戦後日本の建築界を世界最強レベルにまで引き上げた立役者の一人、その大量の著作の中であらゆる分野、状況、歴史に言及しまくり批評しまくり関連させまくったことであらゆる分野の人に一目置かれる謎の人物であるが、彼は自身の原体験に廃墟(正確には空襲後の焼け跡なのだが、彼はそれを廃墟と結びつけて憚らない。あと二次対戦の米軍のナパーム攻撃だけ空爆じゃなくて空襲ってよんであたかも天災みたいに扱ってアメリカの加害性というか’’敵’’性を透明化してるのキモいよな)を置き、建築の手法論の端々にも廃墟的なものへの興味が隠しきれておらず、死ぬまで廃墟とか瓦礫とか言ってた廃墟趣味者の側面もあるので、彼が丁度二年前に亡くなったこともあるし一旦磯崎の言説における廃墟的なるものと彼の手法論、および実作における関係みたいな感じで修論をやっていこうかなと思っている。廃墟を通して磯崎を見るというか、磯崎を通して廃墟を見るというか。磯崎は彼の師匠である丹下との比較で語られたりポストモダンの文脈で語られたりする(らしい)のだけれど彼の原体験と性癖にある廃墟という軸で切断してみることも有効かと思う。実際そういう批評文はなくはないが、今のところ一コラム程度のものでそんなにデカいものはない(気がする)。また廃墟が先にあり磯崎が後にある僕みたいな人間がそういう論文を書くのもなんかいいことがあるんじゃないかなと思う。というわけで18世紀から現代に至る廃墟の性質を論じた文章とその性質を蒐集した廃墟論マップみたいなものを今作っており(だいたいできた)それを踏まえて磯崎を読解、分析していくことで作者さんそんなことまで考えてないよみたいなことを明かにしていけたらなと思う。
※1 冨樫, 後藤, 森田, 山崎, 『人新世の鉱山跡地における放擲された空間の存在意義 』https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/88/806/88_1259/_article/-char/ja/