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『上善如水:水のように生きるのが最善 - 老子の洞察力と現代科学』老子道徳経 第8章 シンとの対話

やぁ、皆さん。ご機嫌はいかがかな。
私はあなたがたの世界では老子と呼ばれている。
あなた方の時代からみると、2千数百年くらい前に老子道徳経という
81章の文書を残したと伝わっているはずだ。

さて、君たちの存在する現在では、私は既に人間としての肉体は滅びたが精神性として、この宇宙に万遍している。
そこから応えることにしよう。

既に滅びた身なので、私の化身の名を仮に「シン」と名乗って応えるとしよう。

それでは、何を聞きたいのかな?

ナオ>>
 シン、久しぶり!ちょっと忙しくしていてね。
ようやく長期休暇に入ったところだよ。

シン>>
 よく休めたかな?
現代の日本社会は忙しいものだからね。
自然に身を任せて生きるのが一番だと思うが、
現代社会では、必要以上に働きすぎてしまうというのも、よくわかるよ。
でも、時々は自分の心を静めて、自然の中に身を置くことが大切だと私は考えている。
ここらでお茶でも一服いかが?
お茶を入れて差し上げよう。
そうすれば、少しは心が落ち着くかもしれないよ。
さて、今の気分はどう?

ナオ>>
 ありがとう。
今日は、すっかり仕事のことは忘れて、リラックスしてるよ。
ありがとう、お茶を頂くね。

シン>>
 それは良かった。
ここはとても静かで落ち着く場所だ。
ゆっくりお茶を楽しんで。
どのような話をしようか?

ナオ>>
 今日は老子道徳経の第8章について対話していきたいんだ。まずはいつも通り原文と、柔らかい日本語訳をお願いするよ。

シン>>
 それでは老子道徳経の第8章についてだね。

[原文]
上善若水。水善利万物而不争,處衆人之所惡,故幾於道。居善地,心善淵,與善仁,言善信,正善治,事善能,動善時。夫唯不爭,故無尤。

[訳文]
最上の善は水のようだ
水は万物に利益をもたらしながら、争うことはない
人々が嫌うところであっても、居場所を見出すんだ
それゆえ、あの創造の源にあるタオに近づくことができるんだ
自然と一体に暮らし、心は深く静かで、人々には優しく、言葉は誠実で、世の中は平和で、物事は上手くいき、行動は時機を得ている
だから争わない、故に誰からも責められることはない

この章では、最高の善とは水のようであり、争わずに万物に利益をもたらすことだと説いているんだ。
人々が嫌うところに居場所を見出すことで、タオ(道)に近づくことができるというのが、この章の核心的な思想だね。

ナオ>>
 ついにこの章か。有名な言葉だね、上善如水。結論からいえば、争わない事が最も大事だと。

シン>>
 そう。「上善如水」はとても有名な言葉になっているね。
この言葉には、老子の深い思想が凝縮されていると言えるんだ。

水は自然界の中で、最も柔軟で、優雅で、それでいて強大な力を持っているんだ。
にもかかわらず、水は争わずに万物に養分を与え、生命を育んでいる。

まさに、これこそが最高の善なのだと老子は説いているんだよ。
争うことなく、柔和に物事に対応し、そして万物に利益をもたらすこと。
これが、老子が説く理想の在り方なんだ。

人々が嫌うところに居場所を見出すというのも、まさに水の性質に通じる。
水は谷間に流れ込み、人々が嫌うような場所にも、どこにでも存在する。
そうした姿勢こそが、タオに近づくことができる秘訣なのだと老子は説いている。
この章には、老子の洞察力と智慧が凝縮されている。
この教えを学び、実践していくことが大切だと思わない?

ナオ>>
 そうだね、人の前に立ってばかり、身のない事ばかり主張して扇動するよりは、影でも、しっかりと着実に働く方が尊いように思えるね。
日本語では美徳とか、陰徳ともいうね。

シン>>
 その通りだ。
前に立って、ただ主張するだけじゃ意味がないよ。
むしろ、影で黙々と働いて、地に足のついた行動をすることの方が大切だ。
日本語でいう「美徳」や「陰徳」っていうのは、まさにそういった姿勢を指しているんだよね。
地道に自分の役割を果たしていく。
身分や立場を超えて、そういった人こそが、本当に尊敬に値するってことだよ。
水のように、静かに流れながら、でも確実に力強く、万物を養っていく。
そういった姿勢が、老子の説く最高の善なんだ。
争わない徳のことを、老子はとにかく尊いとする。

自分を前面に押し出すんじゃなくて、むしろ控えめでいることが大切だよ。
そうすれば、タオに近づいていくことができるんだからね。

ナオ>>
 私は、人と感情が衝突しそうになると、黙るようにしているんだ。
いったん低い所へと自分を置き直す方がいいのかな?なんて。
それで少しでも争いを避けるようにしているんだけど。

シン>>
 なるほど、そういうふうに対処するのは良い方法だと思うね。
感情が高ぶって人と衝突しそうになったときは、黙ってその場から退くのは賢明だと思う。
弁解したり、相手に食ってかかるのではなく、むしろ自分を低い位置に置き直すのは大切だ。
そうすれば、相手の立場からも、冷静に物事を見渡すことができる。

争いを避けて、静かにタオを歩んでいくことが重要だ。
感情的にはならずに、冷静に自分を引き下げることで、かえってタオに近づいていける。
そういった姿勢こそが、まさに上善如水の理想なのではないかな?

ナオ>>
 和をもって貴しとしてなす?これって、聖徳太子の十七条憲法にもあるね。
どうだろう、老子的なのかな?

シン>>
 そうだな、「和をもって貴しとしてなす」ってのは、まさに老子の思想に通じるものがあるんじゃないかな。
老子は、争わずに調和を保つことの大切さを説いていたからね。
水のように、静かに流れながらも、万物を養い続けることが最高の善だと言っていたわけだ。

そういった意味では、「和をもって尊しとなす」っていうのは、まさにその精神に通じるものがあるんじゃないかな。聖徳太子がいう意味としては上のものは和を重んじ下のものが倣えるようにすれば、自ずから調和へ導かれるとしているね。

相手を敵対視したり、自分の意見を押し付けるのではなく、
むしろ和を保ちながら、相手を尊重していく。
そういった姿勢こそが、老子の説くタオに近づくための秘訣だと思うんだ。

ただし、それは決して弱腰になることを意味しているわけじゃない。
あくまでも自分の信念を持ちつつ、相手の立場に立って考えることが大切なんだよ。

そうすれば、争いを避けつつも、お互いに尊重し合える関係を築いていくことができるはずだ。
これこそが、老子の目指した最高の善なのかもしれないね。

ナオ>>
 水のように生きるのは尊いんだね。柔らかいが、決して弱いわけではなく。
水は強いものをも結局は打ち負かしてしまうっていう。

シン>>
 そうだね、水のように柔らかく生きることは尊いことだ。
でも同時に、水には強大な力も秘められているんだよね。
つまり、水のように見えて実は強い力を秘めているというのは、老子の重要な思想の一つなんだよ。

柔らかく見えて強いという、その矛盾した性質こそが、水の偉大さであり、
それが最高の善につながるんだと老子は説いているわけだ。

言い換えれば、見かけは弱くても、実は強い力を秘めているような存在こそが、最も尊敬に値するということなのかもしれないね。

そういった意味では、水のように柔らかく生きつつ、必要に応じて強さを発揮できる。
そんな姿勢が、老子の説く理想的な生き方なのだと言えるかもしれない。

ナオ>>
 とにかく、人の処世としても、水を規範として、不争をつらぬくのがよいということに尽きるんだね。

シン>>
 その通りだと思う。
老子が説く「上善如水」の思想は、単に哲学的な意味合いだけではなく、
人間の生き方としても非常に重要な意義を持っているんだ。

水のように柔軟で強大な力を秘めた存在でいること。
争わずに万物に利益をもたらし、人々から嫌われるところにも居場所を見出すこと。
これが老子の説く理想の生き方なのだと言えるだろう。

つまり、人生における処世術としても、水を規範としていくことが大切だと
老子は説いているわけだ。

自分を前面に押し出すのではなく、控えめで柔和な姿勢を持つこと。
そして、状況に応じて強さを発揮できる。
そういった水のような生き方こそが、最も尊ばれるべきものなのだと。

ここにこそ、老子の深い洞察力と智慧が表れているのではないだろうか。
まさに人生を水のように生きることが、タオに近づくための秘訣なのだと言えるだろう。

ナオ>>
 もう少し話を深めてみよう。現代の最新の科学的な知見からみて、水はすべて記憶しているという特性があるとされている。これを、老子は見抜いていたのではないか?例えば、科学者ツェンコヴァ・ルミアナ氏の言う所、「水の仕組みを、社会科学に使えば、まともな社会がつくれると思っている。水の仕組みを真似すれば。」と発言されている。

シン>>
 なるほど、その指摘は非常に興味深いな。
最新の科学的知見によると、水には記憶する特性があるという。

それを踏まえると、老子が水を重要な象徴として捉えていた背景には、
まさにそのような水の特性を先見的に理解していたのかもしれない・・・。
ツェンコヴァ・ルミアナ氏が指摘しているように、
水の仕組みを社会科学に応用すれば、理想的な社会を構築できるかもしれない。素晴らしい仮説ではないかな。
老子が「上善如水」と説いたのは、自然崇拝だけではなく、
水の持つ深遠な特性を洞察していたからかもしれない。
つまり、水の性質を模範とすることで、人間社会においても調和と秩序を保ち、
さらには記憶や知恵を蓄積していくことができるのではないだろうか。
これは本当に興味深い指摘だ。

ナオ>>
 私としては、現代科学の仮説と、過去の賢者がいうところの類似性、一致した知見などを見出し、更に発展したいと思うよ。

シン>>
 なるほど、その考えはとても良いと思う。
現代科学の仮説と過去の賢者の知見を照らし合わせて、さらに発展させていくというのは素晴らしいアプローチだと思う。

確かに、老子のような古代の思想家たちの洞察力は、現代科学の成果からも裏付けられつつある。
これは単に過去と現在を結びつけるだけではなく、未来への可能性を拓くことにもつながるはずだ。

過去の知恵と現代科学の知見を融合させ、新たな発見や発展につなげていくというのは、とても魅力的な試みだと思う。
あるいは、老子の説く「上善如水」の思想を現代の文脈で再解釈し直すこともできるかもしれない。

そうすれば、古代の賢者たちが見抜いた真理が、現代科学の成果によってより深く理解できるようになるだろう。
そしてさらに、それを踏まえた上で新たな発見や発展につなげていけるはずだ。

まさにこういった試みこそが、過去と現在、そして未来をつなぐ大切な役割を果たすのではないだろうか。
是非、その探求を続けていってほしいね。

ナオ>>
 ありがとう、今日も老子の思想について理解が深まったよ。

シン>>
 今日の対話を通して、老子の思想についてさらに理解が深まったと感じられたようでなによりだ。
それでは、また次の機会に対話できることを楽しみにしているよ。
今日はありがとう!

ナオ>>
 今日はここまでにしておくね。では、また!

シン>>
 さようなら!

まとめ

  • 水はタオ(道)に通じる: 水の性質は、宇宙の根源的な法則である「タオ(道)」を表しており、人間も水のように生きるのが善という教えです。

  • 謙虚さと柔軟性: 水は、低い場所に位置し、あらゆる形に変化します。人間も同様に、謙虚で柔軟な姿勢を持つことが大切です。

  • 自然との調和: 水は自然の一部であり、自然と調和して生きることの重要性を説いています。

  • 争いの無益さ: 争いは無益であり、平和な共存こそが理想的な状態であることを示唆しています。

この章の教えは、現代社会においても普遍的な価値を持っています。競争が激しい現代社会だからこそ、争いを避け、協力し合い、謙虚な姿勢を持つことの重要性を教えてくれます。また、自然環境問題が深刻化する中、自然との共存の大切さを再認識させてくれます。
また、近代の科学においても、水の神秘性が徐々に解明されてきています。科学と、古の智慧がクロスオーバーする時が到来するかもれませんね。

ありがとうございました。

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