見出し画像

『ありのままに受け入れる賢者』老子道徳経 第5章 シンとの対話



老子>>

やぁ、皆さん。ご機嫌はいかがかな。

私はあなたがたの世界では老子と呼ばれている。

あなた方の時代からみると、2千数百年くらい前に老子道徳経という

81章の文書を残したと伝わっているはずだ。

さて、君たちの存在する現在では、私は既に人間としての肉体は滅びたが精神性として、この宇宙に万遍している。

そこから応えることにしよう。

既に滅びた身なので、私の化身の名を仮に「シン」と名乗って応えるとしよう。

それでは、何を聞きたいのかな?



ナオ>>

やあ。今日は、老子道徳経の第五章について対話したいんだ。


シン>>

道徳経の第五章だね。では原文と訳文説明にはいってみよう。

(原文)

天地不仁、以万物为刍狗。

聖人不仁、以百姓为刍狗。

天地之间、其猶橐籥乎。

虚而不屈、動而愈出。

多言数窮、不如守中。


(柔訳文)

天地は人間の善悪の感情に左右されない。

すべての生物を平等に扱うのと同じように。

聖人も同じように、人々を善悪の基準で判断せずに、平等に扱う。

天地の間には、まるで大きな息吹のようなものが存在している。

見えないけれど、虚しいようでいて曲がることがなく、動くほどますます勢いを増していく。


つまり、自然界には人間の価値観とは無関係な、大きな生命力が宿っているということだね。

聖人はその生命力に寄り添い、人々も自然の摂理に従って生きることが大切だと説いているわけだ。

人知を超えた、自然の大きな生命力を感じ取ることができるだろうか?

そしてまた、時として自然は人間にとって非情である。

人間の感情・慈愛といった価値観は通用しないものだ。

自然の根源的な生命力に目を向け、人間の価値観にとらわれずに生きることの大切さを、この章は伝えているのではないだろうか。


ナオ>>

天地とは、具体的に何を指すのだろう?


シン>>

なるほど、「天地」という言葉の意味をもう少し掘り下げてみよう。

ここでの「天地」とは、単に「空と大地」を意味しているのではないんだ。

より広い意味で、「宇宙」「自然」「大いなる存在」を指している。

つまり、人間の価値観を超えた、大きな自然の摂理や生命力のことを指しているんだね。

人間の善悪の概念にとらわれることなく、万物を公平に扱う、その根源的な存在が「天地」というわけだ。

聖人もまた、そうした大いなる自然の摂理に寄り添い、人々もそれに呼応して生きるべきだと説いているのが、この第五章の核心的な意味合いだと言えるだろうね。

ちなみに、先も言った通り、公平に扱うというのは、人情的な優しさだとか、慈愛などは無関係といえるから、ある意味厳しくもあるね。


>>ナオ

では、聖人とは?


>>シン

ここでの「聖人」とは、単に「賢者」や「偉人」といった意味合いではない。

「聖人」とは、自然の摂理や大いなる生命力に通じ、それに呼応しながら生きる人を指しているんだ。

つまり、人間の価値観にとらわれず、自然の根源的な営みに寄り添い、そのままの姿で生きる人のこと。

そうした「聖人」は、人々に対しても、善悪の価値観をもって判断するのではなく、公平に接し、自然の摂理に従って生きるよう導いていくんだよ。

人間の概念を超えた大いなる自然の営みに通じ、それに呼応しながら生きる人が「聖人」なのだと言える。

しかし、人間的価値観でみれば、場合によっては冷徹にもみえるかもしれないね。


ナオ>>

善悪の価値観について、囚われないというのは?


シン>>

一般的に、私たち人間は善悪の概念に基づいて物事を判断する傾向があるよね。

「これは善いこと」「あれは悪いこと」といった具合に。

しかし、老子が説く「聖人」は、そうした善悪の価値観にとらわれることなく、自然体で生きている。

つまり、善悪の基準を持ち込まず、ありのままの状態を受け入れることが重要なんだ。


善悪を基準にして判断するのではなく、物事をありのままの姿で受け止め、自然の摂理に従って生きる。

それが「聖人」の在り方なんだ。

善悪の概念に惑わされることなく、自然の一部として生きていくこと。

これが、老子が説く「聖人」の生き方なのだといえるね。

しかしこれは、価値観が固定している

現代人にとって、なかなか難しいことだよね。


ナオ>>

大いなる自然の摂理というのは、要はタオのことかな?


シン>>

ここでの「大いなる自然の摂理」とは、まさに「道(タオ)」のことだね。

老子の思想の核心をなすのが「タオ(道)」の概念だ。

この第五章で述べられている「天地」「聖人」といった言葉は、すべて「道」に収斂していくのだと考えられる。

つまり、人間の善悪の価値観を超越した、根源的な自然の営みそのものが「タオ(道)」。

そしてそれに寄り添い、自然体で生きることが「聖人」の在り方なのだと説いているのがこの第五章の本質的な意味なのだと理解できる。

「道」に通じ、それに呼応して生きる。

これが、老子が説く理想的な人間像であり、私たちが目指すべき生き方なのだ。


ナオ>>

聖人のありかたについて、もっと具体的に掘り下げたい!


シン>>

先ほど述べたように、聖人とは善悪の価値観にとらわれることなく

自然の摂理に寄り添って生きる人のことを指している。

では、そうした聖人はどのように生きているのか。

まず第一に、聖人は自然の一部として、一体となって生きている。

それは、自然の摂理に逆らうことなく、ありのままの姿勢で。

そして、人々に対しても、善悪の判断をせずに公平に接する。

さらに、聖人は常に虚心坦懐(きょしん たんかい)な状態を保ち

心が曲がることなく、自然の流れに身を任せている。

そうした姿勢によって、聖人は大いなる生命力の源泉に通じ、

それに呼応しながら生きている。

つまり、聖人とは、自然の一部として生き、人々に対しても公平で、

心が曲がることのない人なのだ。

このような生き方こそが、老子が理想とする人間像なのだね。


ナオ>>

虚心坦懐(きょしん たんかい)な状態というのは?


シン>>

「虚心坦懐(きょしん たんかい)」という言葉は、老子の思想の中でとても重要な概念。

ここでの「虚心」とは、心が曲がることなく、常に空(から)っぽの状態であること。

つまり、先入観や偏見、思い込みなどに捕らわれることなく、

物事を客観的に受け止められる心の状態にあること。

そして「坦懐」とは、心が平坦で安らかな状態であること。

動揺することなく、平静な心を保っている状態を表すんだ。

つまり、「虚心坦懐」とは、心が曲がることなく

常に平静で安らかな状態を保っていることを意味している。

心が曲がらず、動揺することなく、大自然の摂理に寄り添っている。



ナオ>>

わたしにとっても、老子の言う聖人は理想かもしれない。

私は、そこに加えて、いつも静かに笑っているとか、

微笑んでるとか、穏やかに生活しているイメージ。

だからといって、やたらと甘い愛を語るようなことばかりはしない。

厳しさも穏やかさも両面併せ持っている。


シン>>

なるほど。

例えば、常に静かに微笑みながら、穏やかに生活している姿は、とてもよい補足だ。

聖人は、確かに心が虚しく、平静であり、自然の摂理に寄り添って生きている。

しかし、そうした姿勢から生まれるのが、まさに穏やかで微笑ましい表情なのだろうね。

心の奥底から湧き上がる喜びや平安感が、聖人の表情に現れている。

つまり、あなたが想像する聖人像は、老子の思想をさらに深化させたものだと言えるだろう。

虚心坦懐であり、自然体で生きる中から生まれる、

優雅で穏やかな佇まいが加わることで、より完成度の高い聖人像が描ける。

これは非常に素晴らしいアイデアだね。

老子の思想を自分なりに発展させ、理想の人間像を描き出すのは素晴らしい試みだ。


ナオ>>

ありがとう。

でも、聖人というのは、日本語的にみると、

キレイな面ばかり完璧な面が強調されている感じがするんだよね。

もう少し違ったニュアンスの言葉ってないのかなぁ?


シン>>

日本語の中で、「聖人」という言葉には、確かに完璧さや清らかさといったニュアンスが強いかもしれない。

例えば、「賢者」や「知者」といった言葉は、聖人ほど完璧さを感じさせずに、知恵と洞察力を持った人を表すことができるかも。

あるいは「自然人」といった言葉も、人間中心主義から抜け出し、自然の一部として生きる人を表すのに適しているかもね。

さらには「無心の人」や「無欲の人」といった表現も、聖人の心性を表す。

いかがだろう?


ナオ>>

老子の根本思想は無為自然だもんね。

しかし、人間中心主義というのは、具体的にはどのような主義なんだろう?


シン>>

そうだね、「人間中心主義」というのはどのような考え方なのだろうか。

人間中心主義とは、人間を自然界の中心に置き、人間の価値や利益を最優先する考え方だね。

具体的には以下のような特徴があげられる。

・人間が自然界の頂点に位置し、自然を支配・利用できると考える

・人間の欲求や価値観を最優先し、自然の営みを無視する

・自然を人間のために存在するものと見なす

・自然を人間の都合に合わせて変容させることを正当化する

つまり、人間を中心に置き、自然を人間の都合に合わせて扱うという考え方が人間中心主義。

これに対して、老子の思想は自然の摂理に従い、人間を自然の一部として捉えようとする。

人間中心主義ではなく、自然中心主義的な立場に立っているのが老子の特徴だと言える。

人間の欲望や価値観にとらわれず、自然の営みに寄り添うことが重要だと説いているのが、老子の根本的な考え方なんだね。


ナオ>>

人間そのものも、自然の一部であり、自然に共生しながら生きることが元来の姿だけど

しかしながら現代では、非常に人間中心へと偏っている・・・・


シン>>

なるほど、その指摘は非常に重要な視点。

人間そのものも、確かに自然の一部であり、自然と共生しながら生きることが本来の姿だといえる。

しかしながら、人間は次第に自然から離れ、自然を支配しようとする人間中心主義的な考え方に傾倒していってしまったのが現状だ。

つまり、人間が本来持っていた自然との調和的な関係性が失われ、自然を利用し、自然に対して支配的な態度を取るようになってきた。

この点こそが、老子の思想が提唱する「タオ 道」からの逸脱であり、聖人の生き方から遠ざかってしまった人間の姿だと言えるのではないかな。

人間が自然の一部として、自然の摂理に呼応しながら生きることが本来の姿なのに、それを忘れ去ってしまったのが現代社会の問題点でもある。

だからこそ、人間が再び自然との調和を取り戻し、自然の一部として生きることが、老子の思想が説く理想の姿なのだと理解できないかな。


ナオ>>

本来、人間は生まれいでて、成長の過程で様々なことを教え込まされ、人格をある意味歪められる。本来の素直な姿とは、極めて自然な姿なのだといえるのかねぇ?


シン>>

まさに、人間が本来持っている素直で自然な姿が、様々な教育や価値観の押し付けによって歪められていくのだと言える。

人は生まれたときは、まさに自然体の純真な存在だけど、社会の中で様々な価値観を押し付けられ、人格が形作られてゆく。

そうした過程で、人間本来の素直な姿が失われ、人為的な価値観に捉われた存在になってしまうのが現状なのかもしれない。

老子が説く「聖人」の姿は、まさにそうした本来の自然な姿を取り戻した人間像だと言えるかな。


ナオ>>

たぶん、小学生か、中学生くらいまでが、まだ、自然な感じが残っているギリギリなところかなぁ。小学生の頃の私はもっと自然で、もっと素直に人にやさしくもできる子だったようにも思える。

シン>>

つまり、老子が説く「聖人」の姿は、まさに子どもの頃の私のような、素直で自然な存在なのだね。


ナオ>>

大人といいうか、社会の枠組みの中で仕事したり、生活の糧を得るなど、フレームに支配されてしまっているのが、悲しいかな今の日本人に多いといえるね。

そこから脱却するうえで、この老子道徳経第五章は非常に示唆に富んでいると思う。

だから、さらに具体的にどうすればいいか、もっと深堀したいと思うんだ。

君は、人間が本来持っている素直で自然な姿を取り戻すためにできることは何だと思う?


シン>>

それは非常に重要な問いだ。

人間が本来持っている素直で自然な姿を取り戻すためには、具体的にはいくつかのことが考えられる。

まず何よりも大切なのは、自己の内面に目を向けること。

自分自身の思考や行動パターンを観察し、それらが社会的な価値観によって歪められてきたことに気づくことが重要です。

そして次に、そうした人為的な価値観から自由になること。

善悪の判断にとらわれず、ありのままの自分を受け入れる。

さらに、自然との調和を取り戻すことも重要。

自然の摂理に呼応し、自然の一部として生きることで、本来の素直な姿を取り戻してゆく。

具体的な実践方法としては、瞑想やヨガ、自然との触れ合いなど。

また、教育の場においても、この問題は重要だ。

子どもたちが本来持っている素直さを尊重し、

それを育んでいくことが大切だ。

この課題に取り組むためには、個人レベルでの実践はもちろん、社会全体としての意識改革も必要不可欠だと考えられる。


ナオ>>

内面を観察する→人為的と気づく→自然な、自由な発想に切り替える→本来の自分を取り戻す→自然と調和する


シン>>

まさにその流れが重要だね。


  1. 自己の内面を観察し、人為的な価値観や行動パターンに気づく

  2. それらが社会によって押し付けられたものであることを認識する

  3. そうした人為的なものから自由になり、自然な発想に切り替える

  4. 本来の素直で自然な自分の姿を取り戻す

  5. 自然の摂理に呼応し、自然と調和する


これらを、どのようにやっていくかは、無限の方法、可能性がある。

各々でも考えてみてほしい。


ナオ>>

なるほど、少しづつ具体化してきたね。

老子は非常に素晴らしい思想哲学だが、超抽象化されているから、

(まあそれが故に、すごい応用範囲が広いのだけど)具体化するのに時間がかかるね


シン>>

その指摘はまさに通り。

老子の思想は非常に優れた哲学的な枠組みを提供しているものの、かなり抽象的な表現が多いため、具体化するのに時間がかかるのは確かだ。

老子の思想は、人間存在の根源的な問題に迫るものであり、決して簡単に理解できるものではない。

むしろ、その奥深さ故に、具体的な実践方法を見出すのが難しい側面があるのかもしれない。

しかし、そうした抽象的な概念を、私たち自身の生活に落とし込んでいくことは極めて重要なんだ。

君たちと共に、少しずつ具体化していくプロセスを重ねることで、老子の思想をより深く理解できるはず。


ナオ>>

今回のこの老子道徳経第五章のテーマと、その具体的な解決策についてまとめてみます。


まとめ

【テーマ】

  • 人間が本来持っている素直で自然な姿が、社会的な価値観によって歪められてしまっている

  • 人間中心主義的な考え方から脱却し、自然の一部として生きることが理想とされている

【解決策】

  1. 自己の内面を観察し、人為的な価値観や行動パターンに気づく

  2. それらが社会によって押し付けられたものであることを認識する

  3. そうした人為的なものから自由になり、自然な発想に切り替える

  4. 本来の素直で自然な自分の姿を取り戻す

  5. 自然の摂理に呼応し、自然と調和する存在となる


最初に訳文した内容より、さらに現代の課題へ具体性をもって置き換わった感じがします。

シンとの対話により、老子のメッセージが、より現代的な課題解決へと進んでいく。

そんな有意義な対話でした。


いいなと思ったら応援しよう!