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【マルス信州蒸溜所】ゆったり楽しめ!日本で最高所の高原蒸溜所

(※ 2020年9月19更新。現在蒸溜所では一般見学の受付を再開していますが、感染症対策のため注意や制約がある場合があります。詳細は公式HPまたは現地にてご確認ください。)

戦後から80年代にかけて、大企業から中小の会社・造り酒屋まで、多くのメーカーがウイスキー事業に参加した時代があった。それらは80年代半ばに「地ウイスキー」というムーブメントを起こすに至ったが、急転直下、その後のウイスキー不況の中に多くのメーカーが休止・撤退を余儀なくされた。

日本のウイスキー不況の中で残念ながら閉鎖・取り壊しに至ってしまった蒸溜所が幾つもある。例えば軽井沢や羽生が有名だろう。しかし一方、生産休止状態にありながらも暗黒の時代をなんとか乗り切り、ウイスキーブームの再燃を機に再開・復活を果たした蒸溜所もある。

マルス信州蒸溜所は、そんな苦難の歴史を乗り越えることに成功した蒸溜所の一つだ。

長きにわたる休止と奇跡的な復活

マルス信州蒸溜所は本坊酒造株式会社が運営する蒸溜所の一つで、一般的に「マルスウイスキー」と呼ばれる一連のウイスキーブランドの一翼を担っている。

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マルス信州蒸溜所が開設されたのは1985年のこと。もともと山梨県石和のワイン工場と併設で置かれていたウイスキー製造設備を、新築移設する形での創業だった。操業当初から暫くは継続的にウイスキー製造が行われていたようだが、それから5年と経たないうちに国内のウイスキー人気は大きく低迷、所謂ウイスキー不況の時代に入ってしまう。その煽りを受けた結果、本坊酒造のウイスキー出荷量は減少。ボトリングできない樽が熟成庫に溢れる事態となってしまう。熟成庫が一杯になれば新たにウイスキーを蒸溜して寝かせることができない。結果、開設から僅か7年後の1992年、マルス信州蒸溜所(当時は「信州工場」)は生産の休止を余儀なくされるのだった。

さて日本のウイスキー不況は延々と右肩下がりが続き、90年代を越えて00年代の終盤まで続くこととなる。この間、蒸溜所では一滴のウイスキーも作られず、ボトルのリリースのみが細々と続けられていた。

状況が一変したのは00年代も終盤に差し掛かった頃だろうか。日本のウイスキーが海外のコンペにて次々受賞するようになり、クラフト蒸溜所の先駆けである秩父蒸溜所が創業して以降、徐々に国内のウイスキーブームが再燃しはじめた。飲食店に当たり前の如くハイボールが置かれるようになり、一般消費者とウイスキーの距離がグッと縮まった時期でもある。以降日本国内のウイスキー市場は右肩上がりが続き、今に至る。

そんなウイスキー市場のV字回復を背景に、信州工場(この頃は「信州ファクトリー」とも表記されていた)再開の機運が高まり、2011年に遂に復活を果たした(名称を「信州マルス蒸溜所」に改称。2016年には現在の「マルス信州蒸溜所」に再改称)。結果として休止期間は延べ19年にも及んだ。

これほど長い休止期間を経た後、無事にウイスキー製造を再開できた蒸溜所は国内に他に例がない。極めて稀な事例と言えるだろう。

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復活後は古くなった設備の改修、増設等が数年おきに行われていたが、いよいよ今年(2020年)、製造エリア全てを敷地内に新築移設する大規模なリニューアル工事が実施された。また、それに伴って古くなった器材(マッシュタンやウォッシュバック)や配管設備も交換。今後は新しい設備にて生産量をキャパ上限いっぱいまで上げ、さらなる増産が行われる予定となっている。

また、姉妹蒸溜所であるマルス津貫蒸溜所も2016年に創業。加えて屋久島にウイスキー専用の熟成庫を備えたことで、現在、より多彩かつ特徴的な原酒の製造が目指されている。

山林に囲まれた高原の蒸溜所

マルス信州蒸溜所は、鹿児島県に本拠地を置く「本坊酒造株式会社」が運営する、ウイスキー蒸溜所である。

立地するのは長野県の南部、上伊那郡宮田村。南北に高山が連なる中央アルプス山脈が一峰、木曽駒ヶ岳(現地民は単に「駒ヶ岳」と呼ぶ)の麓に広がる高原に中に佇んでいる。

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ここの標高はなんと798メートル。国内のウイスキー蒸溜所としては最も高所にある。以前紹介した山崎や長濱がどちらも標高100メートル未満に位置していることを考えると、如何に高い場所に位置しているかわかるだろう(尚、次点は山梨県の白州蒸溜所。標高は710メートルで、マルス信州蒸溜所はさらにその100メートル近く高い…)。

高所の高原に位置し、更に背後には3000メートル級の山がそびえ立つ立地ゆえ、周囲の自然環境の整い具合は国内蒸溜所の中でも群を抜く。特に空気と水に関しては非常にわかりやすい。空はどこまでも抜けて青いし、水は湧き水・水道水限らずクリアーで美味い。夜になれば街の明かりが少ない環境と相まって満天の星空が楽しめる。

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水はウイスキーにとって欠かすことのできない材料の一つであるし、熟成期間中には樽の内外で空気が絶えず行き来している。そう考えると、水も空気もウイスキー造りにとって非常に重要な要素であり、双方とも良質であるということは、ウイスキーそのものにも良い影響を与えると考えて差し支えないだろう。尚、仕込み水に使用している水は、背後にそびえる木曽駒ヶ岳の雪解け水を源流として、花崗岩の地層で磨かれた硬度30 ppm以下の軟水となっている。

他方、気温・湿度に関しては若干ピーキーな環境をもつ。年平均では比較的冷涼ではあるが、夏場は最高35℃前後まで上がるし、真冬は氷点下10℃に近づくこともある。年間で温度変化が非常に大きいのだ。また、1日単位でも温度の変化は大きい。強い内陸性気候(フェーン現象や放射冷却)に加え、東西を標高の高い山脈に挟まれた立地から日照時間が短いことが影響していると考えられる。

この寒暖差の大きい環境は、ウイスキーの熟成に様々な影響を与えると考えられる。通常、ウイスキーの熟成は温度が高い方が進みやすいと言われる。アルコールの蒸散、樽材成分の溶出、種々の化学変化などなど、高温の方が進行しやすいからだ。寒暖の差があることでこれらの変化の進行するタイミングと停滞するタイミングが大きく分かれる。これによって熟成のスピードはある程度制限されると思われる。また、空気が乾燥していることからウイスキー内の水分がアルコールに比べて蒸発しやすく、アルコール度数の低下が抑えられる。

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これらのことから、信州蒸溜所のウイスキーは熟成に時間が掛かる「大器晩成型」であり、実際、それを目指したウイスキー造りがなされている。

制約の無い自由見学でゆっくり楽しめる

国内の多くの蒸溜所(特に大規模なところ)では、時間や順路のきっちり決まった枠で見学ツアーが行われている。さらに言えば、事前に予約の申し込みが必要なケースが多い。

マルス信州蒸溜所は、非常に珍しいことに制約が一切無い自由見学の形態を取っている。なんと時間も順路も自由、なんなら2週目3週目と複数回まわっても、逆走しても良い(一応、順路の番号は振られている)。そしてなにより予約が不要なのである。

蒸溜所の見学ツアーに参加する際、最もネックとなりやすいのが時間だ。早く行き過ぎれば暇を潰さねばならないし、ギリギリを狙うと遅刻の危険性が高まる。とかく遠方の蒸溜所や公共交通機関での移動が必要な場合は気を遣う。時間に遅れてしまった場合、予定していた予約枠で参加できないし、土日祝日や人気の蒸溜所のツアーともなれば当日別枠への振り替えが効かないことも少なくない。

その点、マルス信州蒸溜所は大変気軽に足を運べる。予約が不要なのだ。だから早すぎることも遅れることもない。行ったそのタイミングから見学に臨めるのだから。

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一方で不便な部分もある。自由見学ではガイドが付かないことだ。既にウイスキーに対して知識・造詣が深く、蒸溜所に通いなれたツワモノならばいざ知らず、基礎知識を持っていなかったりウイスキー初心者だったりする場合にはガイドが付く方が優しいだろう。それにその場その場で質問したいことがあっても、後で蒸溜所スタッフを捕まえる頃には忘れてしまうことも多い。人によっては物足りなく感じてしまう可能性もある。自由に動けるメリットの反面、これはちょっとしたデメリットだ。

だがスタッフの方々が何も考えていないわけではない。今後、ガイドが同伴するツアーも計画中なのだそうだ。ガイドツアーは勿論予約が必要。一方で自由見学も残される。訪問者は必要やタイミングに応じて見学の形態を選択できる。非常にフレキシブルな観光が可能となるわけだ。

さて今後の展望はさておき、この自由見学の体制は、ウイスキー好きにとって大変ありがたい一面を持っている。それは製造工程の移り変わりを連続的に楽しめるという点だ。

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ウイスキー製造は経時的に作業の内容・様子が変化する。一日の最初に作業が始まるのは概ね蒸溜の工程だろう。初留釜へモロミ、再留釜へローワインが投入され加熱が始まる。それと前後して細かく粉砕された麦芽とお湯がマッシュタンに投入され糖化が開始される。糖化の作業で得られた麦汁が配管を伝ってウォッシュバックへ送られる頃には、初溜・再留各ポットスチルから蒸溜された溜液が流れ始める頃だ。そして昼を挟んで午後、夕方までには蒸溜が終わり、清掃が始まる…。といった具合だ。

時間枠が限られ、順路に沿ってしか見れない見学では、これらウイスキー製造工程の「変化」や「経過」を楽しむことは、まずできない。順路が(案内はあるものの)決められてはおらず、時間の制限のないマルス信州蒸溜所では好きなタイミングを見計らって、または(マニアック過ぎるが…)朝から夕方まで居座って見学することが可能なのである。

バーカウンターで多彩な試飲を楽しむ

他の多くの蒸溜所がそうであるように、マルス信州蒸溜所にも製品を試飲できるバーカウンターが設けられている。このバーカウンターは、お土産ショップを含むビジターセンターの一部として今年(2020年)の7月に新設されたばかり。シックな木製のカウンターは非常に長大で、バックバーには試飲可能な製品の他、過去に発売された伝説的なボトルの数々がオブジェとして並ぶ。座席はカウンター数席の他に立ち飲み用の小テーブルと椅子の用意された座席テーブル、窓際にはテラス席も設けられている。だが一番の白眉は暖炉(!)を囲むように設置されたローテーブルとロッキングチェアだろう。他の蒸溜所ではまず見られない設備だ。また出窓の外にはウッドデッキも作られ、こちらにも座席が設けられている。

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まさに「ゆっくり楽しむ」ことを大前提に置いたような試飲スペース。ここでは(当たり前だが)マルス信州蒸溜所で製造しているウイスキーが新旧多数試飲可能だ。メニューは基本的に現行品か比較的直近で販売されていた製品だが、一部、既に販売終了となったレアな製品も含まれる。勿論、ショップ限定販売のウイスキーもここで試飲でき、じっくり試飲してから購入を検討することも可能だ。

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しかしこの試飲カウンターの魅力はそれだけに留まらない。なんと、ワインや梅酒、さらには生ビールも飲むことができるのである。実はマルス信州蒸溜所ではワインの生産も行われている。地元宮田村産のブドウを使用した赤ワイン「紫輝」がそれだ。また、近隣地域で収穫される竜峡小梅を使用した梅酒も同様、自家製だ。そしてビールは、同敷地内にて96年より稼働しているクラフトブリュワリー「南信州ビール」のものが楽しめる。

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このように試飲できるメニューは非常に多種多様。未成年者や運転者など飲酒ができない人には先述の自家ワイン、紫輝に使用されるブドウを絞ったジュースも供される。尚、今後はコーヒーの提供も検討しているとのことで、あらゆるニーズをカバーできるように工夫が凝らされている。

また、製造設備の見学と組み合わせて、見学か試飲、また見学と、間に試飲を挟みながら時間を掛けてゆっくりと蒸溜所を堪能することも可能で、そういう意味では呑兵衛の天国でもある(ただし、来た時よりも財布はかなり軽くなるだろう…)。

シングルモルト「駒ヶ岳」

マルス信州蒸溜所のフラグシップにあたる製品がシングルモルトウイスキー「駒ヶ岳」である。

他の多くの蒸溜所が、蒸溜所名そのものをネーミングに用いるのに対し、マルス信州蒸溜所のメインブランドは背後に聳え立つ名峰「木曽駒ヶ岳」を由来としている。

また、大手のシングルモルトウイスキーが市販定番品として通年流通しているのに対し、現在(ほぼ通年ぐらい手に入るものの)駒ヶ岳は限定品扱いとなっている。本数も希少なシングルカスク品はさておき、複数樽をバッティングしたものに関しても年替わりの「Limited Edition」としてリリースされており、年ごとに内容が変わる。

これは2011年の蒸溜所復活からまだ時間が経っておらず、定番商品に使用できる原酒に限りがあることが原因として大きい。また、設備の入れ替えやリニューアルの前後では原酒の品質が多少なりとも変わる可能性があるため、設備が新しくなった後の原酒がある程度揃うまでは、定番品のリリースが難しい(味がロットごとに変わってしまう可能性が大きい)という理由もある。

シングルモルトの定番品が登場するのはまだまだ先のことになりそうだが、しかし、現在一般にリリースされている商品でも「駒ヶ岳」の良さを知るには充分に足りるだろう。先述の「Limited Edition」は毎年ある程度の本数がリリースされており、ネットでは勿論、一般の小売店でも比較的容易に手に入れることができる。一応限定品という位置づけ故、若干値段は張るものの、総じて飲みやすく評判も上々だ。機会があれば一度試してみて欲しい。

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尚、同「駒ヶ岳」の限定品としてシングルカスクのもの(「シングルカスク駒ヶ岳」または「ル・パピヨン」名義)や、信州の原酒をマルス津貫蒸溜所で熟成した「駒ヶ岳 津貫エイジング」、同様に屋久島エージングセラーで熟成した「駒ヶ岳 屋久島エイジング」もリリースされている。これらはリリース本数がより限られるので、手に入らない際は是非近くのバーで楽しんでいただきたいと思う。どの駒ヶ岳も個性的で美味しく、非常に楽しめる味わいだ。

さいごに

マルス信州蒸溜所は都市部から隔絶された大自然の中にある。故に交通アクセスは少々難ありだ。しかし、だからこそ思い切って遠出のつもりで車を走らせ、または電車やバスを乗り継いで行ってほしい。そして制約の無い自由な見学と多彩な試飲を飽きるまで楽しんでほしい。ここには他では決して味わえない大自然の中ならではの心地よさと、自由気ままにウイスキーの世界を楽しめる懐の深さがある。行って決して損はしないだろう。


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