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【前編】『我、邪で邪を制す』を知っていこう

台湾映画『我、邪で邪を制す』

一見、ロバート秋山の「雰囲気ことわざ」を想起させる題名。蠱毒の壺を覗いているような悪人たちの頂上決戦が見れるバイオレンスアクション作品である。
原題、英題が示す意味についてはすでに多くの方が言及しているので割愛し、三つの記事に分けてモデルとなった凶悪犯たちを紹介する。

三害のモデルたち

蛇と豚と鳩

映画に登場する指名手配犯三人には、それぞれモデルが存在する。
前編では主役陳桂林のモデルについて知っていこう。

陳桂林 のモデル:劉煥榮

銃を構え微笑む豚ちゃん

劉煥榮(リュウ・カンエイ):通称【神經劉(イカれ劉)、冷面殺手(冷淡な殺し屋)】
台湾政府が公開した名簿「十大銃撃要犯」のうちの一人。
名簿には凶悪な銃撃犯たちが名を連ね、そのほとんどが“幇”と呼ばれる台湾暴力団に属す荒くれ者だ。劉も例に漏れず“竹聯幇”に属し、組長殺しを専門とするヒットマンとして有名であった。
映画冒頭でも触れられた、告別式での暗殺劇は実際に劉が行った事件に基づいている。

生い立ち

1959年、劉は兼村で生まれた。
兼村は49年以降国民党派の人々が大陸から移り住んだ、いわゆる「外省人」の多い地域。
国民党中佐だった劉の父親もその一人だった。裕福だったが、人為削減による父親の退役が決まると生活は一変。家計は火の車となり、外では外省人を疎む本省人に虐げられる日々を送る。
やがて劉は自らを守るため、中学を卒業すると“小梅林幇”の仲間入りを果たした。

ある日、劉は不良仲間との喧嘩で駆けつけた警察に重傷を負わせてしまう。一時は逃亡するも貯金が底をつき、一か月で家へ帰った。謝る息子を父親は暖かく迎え入れたが、劉の就寝中に警察へ通報。彼にとって1度目の逮捕となった。

未成年で初犯だった劉には鑑別所6カ月の処分が降った。
鑑別所で父親との面会を拒み続けていた劉はある日、窓辺から父親を見かける。
いつの間にか白髪混じりで老け込んだ後ろ姿に、
それから劉は人が変わったように真面目さを取り戻す。
一念発起して高校へ入り直し、卒業後は大学受験に挑んだ。
しかし世間は劉に甘くはなかった。
大学受験の結果は不合格。公務員試験も受験したが、前科によって合格できず。
苦渋の策として軍へ志願するも、同じく前科が影響し招集されることはなかった。
劉は生前書いた日記に、こんな一文を残している。

一個有前科的人,已不被社會所諒解,白布沾上黑點,一輩子洗不清,再也洗不白了。

意訳「前科者は、もう社会から理解を得られない。白い布に黒い点がついてしまえば、一生洗い流せない。二度と白には戻せないのだ。」

刘焕荣日记

再び悪の道へ

八方塞がりとなった劉は、旧友の伝手で再び暴力団へ加入した。
ほどなくして、劉は他組との領地争いの末に相手組長を殺してしまう。
裏社会での殺人沙汰は通報の恐れもなく、逮捕されることはなかっった。
それどころか、劉の噂は瞬く間に界隈で広がり、恐れられる存在となった。

幸か不幸か
この殺人をきっかけに、劉は裏社会での活路を見出す。

噂を聞きつけた“竹聯幇”幹部は、劉の元へ舎弟のスカウトに訪れる。
主勢力の一つである組に入れば先行きは明るい。
劉が快諾すると、さっそく対抗勢力“大湖幇”組長の暗殺を頼まれた。
数ヶ月で依頼を完遂した劉は、その後も次々と対抗勢力組長を仕留めて行く。
八人ものライバルの首をとった竹聯幇は、瞬く間に台湾一の勢力へ上り詰めた。
一方、敵を作りすぎた劉は警察や対抗勢力の残党に四六時中追われる身となる。
警察は指名手配を開始したが、一向に逮捕の兆しは見えなかった。

転機が訪れたのは1984年。
在米台湾人の作家が江南で暗殺される、通称「江南殺人事件」が起こった。
竹聯幇組長:陳啓礼 が事件の捜査線に上がり、警察が暴力団全体の一斉摘発を図った。
当然組みの専属ヒットマンだった劉は国内潜伏を諦め、フィリピンへの逃亡を計画する。
密航船を待つあいだ、台湾では史上最悪とも言える鉱山事故が発生した。
現場の惨状をニュースで目の当たりにした劉は、逃亡資金全額を復興支援に送金。その後も潜伏先の荒廃した孤児院には、賭博で稼いだ金を修繕費用にと渡してからフィリピンへと渡った。

フィリピンでの逃亡生活は長くは続かなかった。
当時慣れない土地で金が必要だった劉は、端兄弟率いる幇へ入り高報酬で借金の取立てを任された。そして、返済を拒んだ相手と口論になり何度目かの殺人を犯す。
フィリピンの警察にまで追われる身となった劉は日本へ逃げるが、二年後の1986年に薬物売買の罪で逮捕された。

逮捕後

台湾へ送還されたのち、1991年に行われた初公判で劉には即時執行の死刑を求刑される。
劉はこれを不服とし、「私が殺したのは全て悪人で、人々から悪を除外するためだった」と減刑を要求。勾留期間中には災害が起きれば友人に寄付を頼んだり、自作の絵をオークションにかけて得た全額を慈善団体に寄付したり数々の慈善事業を行った。
彼の行動に胸を打たれた人々は減刑を求める手紙を裁判所へ送ったが、判決が覆ることはなかった。

1993年の死刑執行日、劉は警官一人一人と握手をしながら刑場へ向かった。
当時のニュース映像には、劉が入り口前で記者や群衆へ拳を高く突き上げ「我對不起國家!謝謝各位!中華民國萬歲!(国に申し訳ない!皆さんありがとう!中華民国万歳!)」と叫ぶ彼の最後の姿が残されている。
生前劉はドナー提供に同意していたため、死刑執行後に彼の臓器は移植を待つ人々へ送られた。

善行の数々は彼の良心か、はたまた死刑を免れるための悪あがきだったのだろうか。
30年経った現在、彼の人生は映画を通して再度脚光を浴びている。

おわりに

映画『我、邪で邪を制す』は人々に善悪の判断を問うテーマの「善悪三部作」第二作目。
まるで映画のモデルになるべくしてなったかの様な人生を送った劉煥榮。
想像以上に濃い人生で、長くなってしまいました。
劉の死刑執行を担当した執行人の一人が、「数多の悪人が最期は恐怖で腰を抜かし抱えられていく中で、彼は唯一自分の足で邢台へ向かった死刑囚だ。」と記者への質問に答えているんですよね。
肝の座り切った人物だったことが伺えます。
彼本人が日記に書いていたように、社会が一度でも更生の余地を与えれば彼の人生は変わっていたのか、どうなのか。
彼に関する追記があれば随時更新していきます。

次回は「香港仔」のモデルを解説予定。

カミソリを咥える蛇ちゃん

それでは皆さま、次回もエンドロール後お会いしましょう。

参考記事

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