足が遅いからプーマのスニーカが履けなかった
プーマのマークってシュッとしてますよね。
何を言ってるかわからない人にはわからないだろうし、わかる人には完全に理解してもらえると思うのだが、子供時代足が遅かった私は、自分は運動音痴であるからこのシュッとしたスポーティなマークがついたアイテムを私は身につけてはいけない、と思っていた。
ちなみにナイキもシュッとしているからちょっと身につけにくかった。ニューバランスのマークは特段シュッとしていないからいい。
運動音痴な自分が運動が得意そうな人が身につけそうなものを見つけるというのとに、不協和を感じていたのだと思う。「自分らしくない」ってやつだ。
当たり前なのだが別に運動音痴でもプーマやナイキのジャージを着てもいいし、スニーカーを履いてもいい。
この話を大人になってから友達にすると、私と同じく運動音痴だった友達は、「私は瞬足のスニーカーを絶対に履きたくなかった。だって絶対瞬足履いても走ったら鈍足だもんね。耐えられない。瞬足にも悪い」と言っていた。そのとき口にしなかったというだけで、我々は数十年後に振り返ると意味わからん自意識に振り回されながら生きてきたようだ。そして今もそうなんだろう。
中学のとき、メイベリンのリップクリームが流行っていた。
ややアメリカンな楽しげなフレーバーが面白くて私も一本持っていたのだが、どうしても学校に持っていくことができなかった。いや、ひょっとしたら持ってはいっていたのかもしれないが、どんなに仲のいい友達の前でもこれを唇に塗ることはなかった。
なぜかって、これはギャルのリップだったからである。そして私はギャルではなく品行方正な優等生だったからだ。
品行方正な優等生には、こんなポップな色合いの楽しげなリップよりも、慈愛に満ちた眼差しを向けるあのリトルナースが描かれたメンソレータムの緑色のあれが相応しいに決まっている。
これもプーマ同様今考えるとかなり馬鹿馬鹿しいのだが、当時の私は本当にそう思っていた。
そんなわけないんだけどね。どんなスニーカーを履いても、どんなリップを塗ってもいいに決まってるんだけど。
ただ、今の私、というか今の私と同じ歳になった同世代たち(アラサー)はそんなことは気にしないが、中学生の頃の我々はそうとは限らない。私が自分にはメイベリンのリップは相応しくないと思っていたように、私のクラスメイトとギャルたちも「あいつメイベリンのリップとか使ってイキってね?」となっていた可能性はある。
みんなで同じ制服を着て、同じ時間割をこなす学生時代を抜けたその先の生活では、人々の生活はあまりにも多彩であって、結婚する人しない人、子供を産む人産まない人、働く人働かない人、こんなものではとても収まらない実に多様な生き方、自分としての生活の在り方があることを知る。その広さを知った上でやれプーマだのメイベリンだの言われてもハァ?誰もそんなの気にしないって!という感じだが、この広さを知らなかった学生時代であればまた話は別であろうと思う。