たとえは「質問とセット」で使う!
今回は、少し前の記事、
……に引き続き、たとえについて考えてみたいと思います。
今回はたとえの名手であるイエス・キリストがたとえを使ってどのように教えていたのかを分析しながら、たとえを使った効果的なレッスンの方法について学んでいきたいと思います。
良きサマリア人のたとえに見るイエス・キリストのたとえを使ったレッスン
イエス・キリストはたとえをどのように使って、どのようなレッスンで人を教えたのでしょうか。
聖書にはそのモデルケースとも言うべきエピソードが書かれています。それは有名なルカによる福音書10章の「良きサマリア人のたとえ」として知られている部分です。
では、ここを、そのレッスンの始まりから見ていきましょう。
主イエスを目の敵にしていた律法学者が、イエスを試み、何とか陥れようという意図を持ってイエスに近づいてきたところから、このレッスンは始まります。
律法学者は「何をしたら永遠の命を受けられるか」と導入の質問を投げかけます。イエスは深遠な質問をもって答えます。「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」
この律法学者は結構、福音について学んでいたのでしょうか、非常に的確な答えを言います。「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛する」ことと、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛する」ことを行うべきだと答えます。イエスはこの答えを是認され「それを行えば永遠の命が得られる」と言われます。
それをやっていなかったのか、口だけだったのか、今の自分を弁護してこの律法学者はイエスに質問しました。
「では、わたしの隣り人とはだれのことですか。」
これ、悪い意図を持つ律法学者が発した質問ですが、個人的にはすごくいい質問だと思っています。100点の霊感を招く質問です。こういう質問ができたら素晴らしいです。
この質問を受けて、イエスはたとえ話で質問に答えます。
つまり、たとえを使ったレッスンの始まりは質問であり、その質問の答えとしてたとえを紹介すると効果的であることが読み取れます。
続きの聖句を見てみましょう。
この話に出てくる「サマリア人」とは、イスラエルの宗教に背を向けていたためユダヤ人が憎しみを募らせていた民族でした。一言で言えば「敵」でした。そんなユダヤ人の敵であるサマリア人だけが、傷ついたユダヤ人を助けました。
「隣人とはどんな人?」という問いに、たとえ話に登場するこのサマリア人のような行いをする人が「隣り人」なのだと答えられたのです。
そしてその後で、イエスは次のように質問をされました。
たとえ話の後にイエスは「誰が隣人になったか」という霊感を招く質問をして、学習を定着化、意識化されました。この質問も深いです。「誰が隣り人なのか」ではなく「誰が隣人に“なった”のか」と問うたところが秀逸です。
この質問によって敵のサマリア人でも、どんな人でも困っている助けの必要な人の「隣り人」になることができるのだと教えておられます。
律法学者が「隣人になったのは慈悲深い行いをした人が隣り人だ」と答えると、イエスは「あなたも同じようにしなさい」と諭されました。これは全人類に向けられた言葉でもあります。強盗に襲われた人の「隣り人」は良きサマリア人であり、良きサマリア人の「隣り人」は強盗に襲われた人でした。2人は互いに愛を示し合い、良き隣人になったのだと思います。
レッスンにおけるたとえ話の効果的な使い方
さて、イエスのレッスンをまとめると、このようなプロセスでたとえを使って教えておられることが分かります。
このプロセスを見ると、イエスはたとえと質問をセットで使われていることが分かります。
たとえは質問とセットで用いることで何倍も効果的になります。
皆さんもレッスンでたとえ、たとえ話のエピソードを使う場合は、その前と後にぜひ関連した質問、霊感を招く質問を投げかけてみてください。