「知識」と「知恵」の違いとは?
皆さんは「知識」と「知恵」の違いはなんですか? と問われたらなんと答えるでしょうか。
「いや、知識も知恵も同じでしょ」と答える方もいれば「両者は似ていても違います。その違いは……」と別のものだと言う人もいると思います。
筆者は、この両者は似ていてもまったく別のものであると考えています。
日本語としての言葉の意味から言っても、この2つには明確な違いがあります。
そして、聖典の中でも知識と書かれているところと知恵と書かれているところがあるように、使い分けられています。
レッスンを準備し、教える教師としては、じつはこの2つの違いは非常に大きな意味を持ってきます。
ということで、今回はこの「知識」と「知恵」の違いとレッスンにおける両者について考えてみたいと思います。
「知識」とは何か?
知識とは、有り体に言えば知っていること、情報のことです。辞書によると「知識」とは……
というように定義されています。
教会のレッスンでいえば、聖典のどこに、どんなことが書かれているか、その聖句や聖文の意味は何か、背景は? ……といったような情報をまとめて、体系化したもの、これが知識です。
「知恵」とは何か?
では、知識に対して「知恵」とは何でしょうか。
知恵とは、一言で言えば「応用力、応用の方法」のことです(あ、二言になっちゃった……)。これも辞書によると、知恵とは……
と定義されています。
そして、教会のレッスンでは、まさにイエス・キリストの福音を自分の日常生活、学校、職場、人間関係、夫婦、家族関係の中でどのように活かせるか、活用、実践できるかを学ぶことになります。
今のレッスンは「知恵」を学ぶレッスンになっている!
知識と知恵の違い、それは知識は知っていること、知恵は知っていることを別のことに活かすことであることが分かりました。
翻って教会のレッスンを知識と知恵という観点で思い返してみると、昔のレッスンは知識を問うものがほとんどだったという印象があります。
レッスンのテキストも、そのように作られていました。あらかじめ最初から最後までレッスンの進行が書かれてあり、どこでどんな質問をするのかも一つひとつ細かにテキストに書かれていました。そして、質問の大半は「知識を問う質問」でした。
「なぜ」とか「どのように」などの言葉がついた質問もあるにはあったのですが、それらはほとんどが答えのリストがあるタイプの質問で、回答者は何も考えずに知識で答えが出せるものだったのです。
そして、これの何が問題なのかというと、教師が聖霊によってレッスンの準備と実際のレッスンをすることが難しくなってしまうことです。
つまり、自分の頭で考えなくても、書いてあるとおりにレッスンすればいいからです。
教義と聖約の9章に書かれている通り、聖霊を受けるには深く考えることが不可欠です。自分の頭で考えることをしなければ聖霊を受けられません。
聖霊の導きは、ネルソン大管長(2025年1月現在)の心臓外科手術の経験が物語るように自分で考え、行動している内容に対して受けるからです。
教義と聖約42章14節に書かれているように、
……のです。
教師のレッスンに聖霊の御霊がなければ、生徒もまた聖霊によって学ぶことが難しくなるでしょう。
考えなくても聖典に正解の解答が書かれている「知識を問う質問」(穴埋め問題などがその最たる例です)、答える方も個人の啓示ではなく「知識だけで答えられる」、そんなレッスンが多く行われていたように思います(もちろん全部のレッスンがそうだったわけではないデス)。
しかし、今は違います。
今は知識も学びますが、それよりも福音を自分の生活、人生に応用することを学ぶレッスンになっています。
聖書やモルモン書には、こう書かれています。
聖書、聖典は「知恵」を与えてくれる書物、若いうちに「知識を得なさい」ではなく「知恵を得なさい」と書かれています。
聖文は私たちの生活、人生のためにあるものです。救いに至るための「知識」だけでなく、それを生活や人生に役立て、応用する力を与えてくれるものなのです。
知識を学ぶのは、筆者は学校の勉強とあまり変わらないと思います。
日本の学校教育は受験のためのもので、知識は学んでもそれを何かに活かす知恵を教えることはほとんどありません。それではせっかくの知識が無駄になってしまうと思います(だから就職の際に大学の授業で学んだことを重視されないのかも……)。
聖文の知識を学ぶのは、それを私たちの生活や人生に応用、活用するためです。そして、教会のレッスンは、その応用する方法である「知恵」を学ぶためのものなのです。