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「暗記」と「記憶」の違い 神の言葉を心の中に蓄える

末日聖徒イエス・キリスト教会の宗教教育プログラムのセミナリーでは、その学習目的の1つとして「神の言葉」を心の中に蓄えることが推奨されています。

ただ、そのことは、セミナリーに関する文書の日本語翻訳では「暗記」と訳されており、本来の趣旨と大きくかけ離れ、現場に混乱を与えていると、筆者は感じています。

そこで、今回はこの「神の言葉を心の中に蓄える」ことについて、考えてみたいと思います。


日本語では「暗記」と「記憶」は大きく違う!

前述の通り、セミナリーでは聖句を「暗記」するよう学習のプログラムが組まれています。

ただ、この「暗記」とは、日本語では次のような意味合いがある言葉です。

・暗記とは「一時的に、短期間」覚えることである。
・暗記は試験のためにやるものであり、試験さえパスできればその後は忘れてしまっても問題ない。

暗記は単に一時的に、短期的に覚えることで、永続した記憶として心に刻み込むのとは大きく違います。

過去のセミナリーではこの「暗記」という言葉が独り歩きをし、学習の現場でも聖句を覚えられるか、覚えたかのチェックをパスできるか、といった間違った学習方法が取られていました。

おそらく、そこで学んだ聖句を今も覚えている兄弟姉妹は非情に少ないと思われます。なぜなら、それが暗記だったからです。その時だけ、一時的に覚えていられればいいという目的のために学んでいたため、人生の大事な局面で思い出すための覚え方、学び方とは違っていたのです。

聖句を「宝物として」心に中で大事にする!

聖典には、聖句を覚えることが次のような言葉で表現されています。

……それゆえ,これらの言葉をあなたの心の中に大切に蓄えておきなさい。

教義と聖約6章20節

英語の原文では“treasure up these words in thy heart”と記されており、「treasure」は宝物、財宝、秘宝、秘蔵物、貴重品、重要品という意味の言葉で、「treasure up」では宝物にする、宝物として大事に秘蔵するという意味になるそうです。

まさに、聖句を「心の中に宝物として、大切に蓄える」ように言われていて、どこにも暗記しろとは書かれていません。

「暗記」は、宝物とは程遠く、その辺の箱に無造作に突っ込んでおいて、1回使ったらもう2度と使わず押し入れの奥の方で眠っているイメージです。

宝物であれば、大切に保管したり、目立つところにディスプレイしたり、何度も眺めたり愛でたりすると思います。それが「treasure up」ということなのだと思います。

暗記がゴールなのではない! 日常生活で使ってナンボである!

他の記事でも書いたかと思いますが、以前のセミナリーでは実質的に「聖句を暗記する、覚える」ことが目指すべきゴールとして設定されていました。セミナリーでの学習はそこを目指して行われ、それをチェックするテストがあり、覚えた聖句を日常にどう活かし、使っていくかを学ぶことはほとんどありませんでした。

しかし、現在のセミナリーでは「応用する」ことに重きが置かれており、そのための学習がプログラムとして用意されています。

聖句は単なる暗記で覚えるものではなく、何度も聖典を開いて読み、その意味を深く考え、それをどう自分や自分の生活に活かせるか、その応用方法を学ぶ時に心に刻み込まれていくものだと思います。

そして日常生活で使っていくことで、その聖句は心の中で輝きを放ち、宝物になっていくのだと思いおます。

セミナリーでマスター教義、マスター教義聖句を学ぶ際は、単に覚えることだけに重きを置かず、レッスン内での「考える活動」を通じて、その聖句、教義を日常生活にどう活かすか、それを深く考えられるような「霊感を招く質問」を設定するのがポイントになると感じています。

そして、チェックをするならその聖句、教義を「覚えたかどうか」ではなく、「どう活かせたか、使ったか、役立ったか」をチェックできると、学習の深さや質が変わってくるのではないかと思います。

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