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「才能」とは何か


あなたは、自分の「才能」というものを意識したことはありますか。


筆者は、自分にない才能を持っている人を、すごく尊敬しています。

運動神経のかけらもない筆者にとって、スポーツの分野で才能を開花させている人は、憧れの的です。

また筆者は絵を描くことと文章を作ることが趣味なので(一応デザイン系の高校を出た)、やはりその分野で凄まじいものを作り出している人を見ると、大きな刺激を受けます。

この「才能」、じつはイエス・キリストの福音、神様の教えと、とても大きな関係があります。
筆者は、才能は神様が人間に授けてくれたプレゼントだと信じています。
そして、イエス・キリストは私たち一人ひとりに、この地球上での生活において与えられた才能を高め、磨き、伸ばし、よいことのために使うように望んでおられることも信じています。

才能について書かれた聖句

じつは聖書には「才能」について書かれた文章が存在します。
それは「マタイによる福音書25章14-30節」で、「タラントのたとえ話」として有名な部分です。
ちょっと長いのですが、ご紹介したいと思います。

また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。

五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。

二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。

しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。

だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。

すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。

二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。

一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。
すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。

さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。

この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。

マタイによる福音書25章14-30節

この聖文で出てくる「タラント」という言葉はユダヤ人の貨幣単位で、1タラントは今の貨幣価値でおよそ6,000万円くらいだそうです。
この「タラント」は、じつは日本語で芸能人などを意味する「タレント」の語源になった言葉で、その英語の「タレント」には“才能“という意味があります。つまり、主人が3人の召使いに渡した財産は、神様が人間に授けたタレント、つまり才能を意味しているのです。

この物語で筆者が興味深いと思うのは、3人の召使いに与えた財産には差があったことです。
一人には5タラント(約3億円)、一人には2タラント(約1億2,000万円)、最後の一人には(6,000万円)と、多少があります。

これを才能という観点から見ると、人によって与えられた才能の種類や大きさには差があることが分かります。

そしてもう一点興味深いのは、5タラント預けられてもう5タラント儲けて合計10タラントにした者も、2タラント預けられてもう2タラント儲けて合計4タラントにした者も、儲けの多少にかかわらず同じように褒められたことです。
それを鑑みると、いくら儲けるかは重要ではなく、自分に与えられた分をできる範囲で、どのように活用して儲けるかが重要なのだと分かります。

一方、1タラント預けられた者はそれを元手に商売を始めたり、農業や畜産業で主人の財産を増やすこともせずに、それを大事に地面に埋めていました。もちろん商売をすれば、儲けが出ずに主人の財産を減らしてしまうリスクがあります。だから、この召使いはそれを恐れて財産が増えもしないが減りもしない方法を選んだのです。
しかし、主人はそのことを怒り、この召使いが持っている1タラントの財産の管理権を取り上げ、なんと財産を合計10タラントにした召使いに与えたのです。

これらの才能を象徴する物語から分かることをまとめると、次のようになります。

・人間一人ひとり与えられている才能の種類もその大きさも違う。
・才能の大小にかかわらず、自分に与えられた才能を何に使って、どのように自分の人生や人のために役立てるかが重要。
・才能は磨き、高め、伸ばすことが大切。自分の才能を磨く努力もせず、自分や人のために使うこともしなければ、その才能は神様に取り上げられ、失ってしまう。
・逆に、才能を高め、伸ばす努力をし、リスクを負ってでも自分や人のために使うならば、さらに才能が高められ、与えられる。

筆者の教会の預言者によると、私たちは死後、主イエスと個人面接を行うことになるそうです。
その際に、イエスからいくつかのことを尋ねられます。

まず最初は夫婦の関係はどうだったか、伴侶を愛したか、伴侶の幸せのために努力したかを尋ねられるそうです。
次に自分の子供(たち)との関係、子供(たち)を愛したか、子供たちとどういう関係を築いたかを尋ねてこられるそうです。

そして、その後で、自分に与えられた才能をどのように使い、伸ばし高めたか、それを人のためにどう役立てたかをお聞きになるそうです。

逆に、教会でどんな大きな責任を果たしたかや、この世でどれだけお金や財産を築いたかなどは、ほとんど聞かれないそうです。

大事なのは、自分に与えられた才能をどう使い、伸ばしたかだけです。

これが、イエス・キリストが私たちに期待しておられることなのです。

神様からのプレゼント「才能」の正体とは

筆者の通う末日聖徒イエス・キリスト教会では、人間に与えられた才能を「賜物(たまもの)」とよく呼んでいます。この言葉の意味は「いただいた物、プレゼント」で、文字通り才能は神様からのプレゼントというわけです。

才能の話をするとよく「私は特別な才能なんて持ってないよ」という人が多くいます。しかし、聖典には次のように書かれています。

「すべての人があらゆる賜物を与えられるわけではない。賜物は多くあり,各人に神の御霊によって一つの賜物が与えられるのである。」

教義と聖約46章11節

賜物、すなわち才能は少なくとも一つは全員に与えられていると書かれています。これが本当なら、私たちは全員が何らかの才能を神様から授かっていることになります。

この神様からのプレゼントである「賜物」には、じつは才能の他に大きく計3つの次のような種類があります。

①才能
②霊的なことを行う力、能力
③人の優れた特質、長所、個性

①はこれまで述べてきた通り、いわゆる才能です。スポーツや芸術、人に教える才能やコミュニケーションの才能など、様々な種類の才能があります。

②の霊的なことを行う力、能力とは、神様の務めを果たす際や人のために奉仕をする際に神様から与えられる神聖な力、能力のことです。これについては、聖書の中で次のように説明されています。

「兄弟たちよ。霊の賜物については、次のことを知らずにいてもらいたくない。
……霊の賜物は種々あるが、……各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。
すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている」

コリント人への第一の手紙12章1-10(抜粋)

そして、今回どうしても書いておきたかったのが、この③人の優れた特質、長所、個性です。
才能というと何か特別なものや著しく高度なものや珍しいものをイメージすることが多いですが、じつは人間の長所や個性、良いところなども立派な才能(賜物)なのです。
これについて、筆者の教会の預言者はこんなふうに解説しています。

「必ずしも目立つものではありませんが,非常に大切な賜物をいくつか取り上げてお話ししてみたいと思います。
 ……人に質問をする,人の話によく耳を傾ける,静かな細い声に聞き従う,人のために嘆き悲しむ,争いを避ける,……義を追い求める,批判をしない,神に導きを求める,……人々に関心を向ける,物事を深く考える,祈りをする,力強い証を述べる。」

マービン・J・アシュトン長老の言葉

一緒にいると元気が出る、人の良いところをたくさん見つけられる、がまん強い、人が気づかないことをよく気づく、立ち直りが早い、笑顔が素敵、いつも前向き……といった人の素晴らしい特質は、じつは才能なのです。

だから、才能を持っていない人など一人もいないのです。
あなたは素敵な才能を持っているのです。ぜひその才能を磨き、高め、伸ばしていきましょう!!

自分の才能の見つけ方

才能を磨くためには、まず自分がどんな才能を持っているかを知らなければなりません。

孫子の兵法には、

「敵を知り己を知れば百戦危うからず」

孫子の兵法

と書かれています。敵を知るだけでは戦に勝てない、自分(自軍)のこともよく把握しておくことが戦に勝つ秘訣だと孫氏は述べています。

同様に、聖典にもこんな言葉が載っています。

「教会員に与えられているそれらの賜物が何であるか,常に覚えておき,また常に心に留めておくようにと,わたしは望んでいる。
 ……また,与えられる祝福が何であろうと,あなたがたは御霊によって神に感謝をしなければならない」

教義と聖約46章10節,32節

ではどうすれば自分の才能に気づくことができるのでしょうか。
そのためには、自分自身の以下のことを考えてみてください。

・自分が得意なこと
・好きなこと、やりたいこと
・やっていて楽しいこと
・いつまでもやっていられること
・他の人から褒められたこと
・いろいろなことをやってみる
・祝福師の祝福(教会員に与えられる個人の祝福であり、人生の指針になる言葉)
・神様に祈り、たずねる

また、才能は持っているだけではなだめで、何に役立てるかを常に模索する必要があります。

まとめると、才能を知り、磨き、役立てるには、

①自分にどんな賜物(才能)が与えられているのかを知る。
②自分の賜物(才能)を、誰のために、どのように使うかを考え、そのために使う。
③自分の賜物(才能)を伸ばし、高め、またその賜物、才能を神様に感謝する。

聖典には「何でもできるようにならなければならない」とは書かれていません。得意なこと、才能を磨き、自分や他人のために役立てなさいと書かれています。

好きこそものの上手なれ、自分の強みで勝負する、これが才能を磨くいちばんの近道なのではないかと思います。

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