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信仰を持って「行動」する!

「信仰」という言葉はクリスチャンの代名詞とも言えるぐらいキリスト教徒にとっては身近なものになっています。
キリストを信じる者は救いを得ることができる、だからこそキリストを信じる信仰が大事だと、多くのクリスチャンの方々は信じています。

さて、この信仰ですが、聖書には「ただ信じているだけでは足りない」と書かれています。
なぜ、何が、足りないのでしょうか。
本当の「信じる」とはどういうことなのでしょうか。

ということで、今回はこの「信仰」について、考えてみたいと思います。


ある晩の筆者が祈りで受けた導き

ある日の夜、筆者は寝る前に布団の上でいつものように神に祈っていました。

筆者はこう祈りました。
「愛する妻の心に平安がもたらされますように、幸せを感じられますように妻を祝福してください……」

すると、心の中に次のような1つの問いが、浮かび上がってきました。

「あなたは、自分の妻が幸せになれるように、何か具体的な『行動』をしているか……?」

私はその瞬間、ハッとしました。
自分は毎日妻の幸せのために祈っているが、そのために具体的な行動をしていただろうか。神様に妻の幸せを祈り求めているだけで、そのために信仰を持って具体的に行動していなかったのではないか、行動が足りなかったのではないか、そんな思いが頭をよぎりました。

筆者はその夜以来、家族の幸せについて神様に祈ったら、そのために自分に何ができるかを深く考え、心に浮かんできたことを行動に移すようにしています。

信仰を持って行動する

私たちの祈り、信仰は、「信仰を持って行動すること」と密接に関わっています。新約聖書の中には、信仰についてこのように書かれています。

わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、
あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。
信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。

ヤコブの手紙2章14-17節

信仰とは、行いがなければ死んだものになってしまう、本当の信仰は「行いを伴う」と書かれています。信仰を持って行動する、神様に祈ったら、そのことについて信仰を持って行動する時に、私たちの信仰は、生きたものになるのだと思います。

ゴドイ長老の経験

末日聖徒イエス・キリスト教会の総大会で、次のような経験が話されました。少し長いですが、引用したいと思います。

「30年前,妻とわたしが民事結婚と神殿結婚の準備をしていたとき,ストライキのために民事結婚が行えないという電話がありました。
この電話を受けたのは,儀式を予定していた日の3日前です。わたしたちは,幾つかほかの役所も試しましたが予約が取れなかったため,ほんとうに計画通りに結婚できるのかどうか疑わしくなってきて,悩み始めました。
婚約者とわたしは心を注ぎ出して神を「呼び求め」,祈りました。そしてついに,ある人が,市の外れにある小さな町の役場について教えてくれたのです。その人はそこの町長とは知り合いだと言います。わたしたちはためらうことなくその町長に会いに行き,結婚の手続きが可能か尋ねました。うれしいことに,できると言われました。町長の秘書が強調したのは,その市で証明書を取得して翌日正午までにすべての書類を届けなければならないということでした。
翌日,わたしたちはその小さな町に住民票を移し,警察署に赴き,必要な書類を申請しました。ところが驚いたことに,書類は出せないと警官が言うのです。駆け落ちしてこの町で密かに結婚しようとする若いカップルがたくさんいたからだそうです。もちろん,わたしたちは駆け落ちではありません。恐怖と悲しみに,再び襲われました。
うまくいくように,心の中で天の御父を呼び求めたことを覚えています。わたしは心の中ではっきりと「神殿推薦状,神殿推薦状」という声を繰り返し聞きました。そして直ちに神殿推薦状を取り出すと,戸惑う婚約者を横目に警官に渡しました。
次の彼の言葉に,わたしたちは驚きました。「なぜ末日聖徒イエス・キリスト教会の会員だと言わなかったのですか。わたしはあなたの教会をよく知っています。」そしてすぐに書類の準備に取り掛かってくれました。しかしその警官が何も言わずに署から出て行ってしまったので,わたしたちはさらに驚きました。
50分たっても戻って来ません。すでに午前11時55分になっていました。書類の提出期限は正午です。すると突然警官が,可愛い子犬を持って現れ,結婚の贈り物だと言って,書類と一緒に渡してくれました。
わたしたちは,書類ともらったばかりの犬を抱いて町長室に向かって走りだしました。
そのとき,公用車が近づいて来たので,わたしたちは車の前で立ち止まりました。停車した車の中には,あの秘書がいました。わたしたちを見て,彼女は言いました。
「ごめんなさい。正午までとお伝えしましたよね。別の用事で出かけなければいけなくて。」
わたしはへりくだり,心の中で天の御父を心から呼び求め,うまくいくようにもう一度助けを求めました。すると突然,奇跡が起きました。秘書からこう言われたのです。「何てかわいい犬なのかしら。息子のためにこんな犬が欲しいの。どこで見つけられるかしら。」
「差し上げようと思いまして」と,わたしたちは即答しました。
秘書は驚いてわたしたちを見ると,「分かりました。事務所に行って手続きをしましょう」と言いました。
2日後,妻のキャロルとわたしは予定通り民事結婚をし,そして,ペルー・リマ神殿で結び固められたのです。」

『呼び求めてください、落ちる前に。』テーラー・G・ゴドイ長老

この経験を通して、ゴドイ長老はこう述べています。

「……呼び求めるのは信仰と行動の問題です。つまり,無限の知恵で祈りにこたえてくださる天の御父がおられることを認める信仰を持ち,求めたことを実現させるために行動することなのです。祈ること,つまり呼び求めることは,わたしたちの希望のしるしとなります。しかし,祈った後に行動することは,自分の信仰が本物であること,つまり痛みや恐れ,失望を経て試された信仰であることを示すしるしです

信仰を持って努力し、行動する時に神はその努力と行動を祝福してくださる

信じるということは、信じて行うこととイコールです。信仰とは“信行”と言い換えてもいいくらい、行動することが大切なのです。
神様は私たちが信仰を働かせて自分の力で努力し、実際に行動する時に、その努力と行動に対して導きと助けを与え、祝福をくださることによって祈りに答えてくださいます。

現代の預言者はこう述べています。

「わたしが聖文を研究して分かったことは,神の子供たち に与えられた啓示のほとんどは彼らが行動しているときに与えられる,ということでした。家の中でじっと座って,まず何をしたらよいか主から告げられるのを待っているときに与えられたのではありませんでした。……ですから,自分にできるすべてを行うのです。」

ダリン・H・オークス長老

祈ったら祈りっぱなしで、祈ったことに対して自分から何もしなければ、それは信仰のある祈りとは言えないと思います。
私たちの祈りに「努力、行動」が加わる時、その信仰と祈りは力強い、生きたものになるのです。そのことを証します。

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