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ウィズコロナ/地域共生社会に必要なのは「ありがとう」

「コロナで仕事が増えてイライラしていた」

虐待の理由をそう話す人がいます。
それが虐待してもいい理由にならないことは明らか。
「イライラしたら殴っていい」はずがないのです。

「お腹が減ったから盗んでいい」はずがないのと同じ。
「できの悪い部下だから怒鳴っていい」はずがないのと同じ。
「嫌いだから殺していい」はずがないのと同じ。

「弱い人に強く出ちゃってもいい」とか、
「ウクライナならすぐに降伏するだろう」とか、
「子どもだから多少強く出ても私の方が強い」という、
弱いモノいじめに近い認識が、
それを理由にさせているんだと思います。
本当は強いモノが弱いモノを守ること、
これが正義であり、理性だったり知性だったり、
大人、公共であったり、と思うのです。

ただ、
「コロナで仕事が増えてイライラしていた」
ことは事実でしょうね・・・


コロナのいい影響は、「関係の棚卸し」

コロナでよかったことは、
人とのつながり、出会い、お付き合いの棚卸しができたこと。
ちょっといやだな~と
思っていたことに、断る理由ができたこと。
不要不急、感染症対策、密回避をめざし、
「コロナだからね~」を合い言葉に。

「半導体不足」「部品不足」「物価高騰」も
使いがちな合い言葉ですが、
それはそれでいいじゃないですか。


コロナの悪影響は、「仕事の偏り」

コロナでつまづいたことは、
ただでさえ、仕事の質も量も、
失われた数十年という長引く不景気のなか、
人の限界まで、
効率化という名の下で右肩上がりに増えていたところに、
決定的な構造改革があったこと。

さらに増えた仕事と、
もしくは、
ほとんどなくなった、減った仕事があります。

減った仕事について、経済原理から考えても、
失業、廃業するのが自然。新陳代謝。
失業までのソフトランディングまでは、
いろんな給付金でしのげたのではないかと思います。
これは個人的な感覚ですが、
「コロナのせい」といって失業、廃業した仕事は、
そもそも、コロナがあってもなくても、
いつか失業、廃業した仕事だった可能性が大きいと思います。

増えた仕事は、デジタルで助けて

「さらに増えた仕事」について。
そこは、何かのカタチでケアしなければならないと思います。
これまでもずっと、個人の力で耐えて耐えて耐えて、
限界まで来ていることは、
市役所で勤める私達も自覚しているところです。
そこにコロナで、さらにさらにさらに・・・
(マイナンバーカード含む。)

いつか、ミスするのではないか、
正直な私、そんな自覚があります。

それをデジタルで支えようというのが「DX」。
増えた仕事については、
デジタル変革することを許して欲しいのです。

廃業した、失業した人を雇うということもあっていいですが、
基本的に、生産年齢人口の減少は明らかなのですから。


「地域共生社会をめざす」とは

現在、全国の地方自治体では、
12月の定例会議の開催中かと思います。
例に漏れず、私の勤務する市役所でも真っ只中です。

え?
そんななか、noteしてても大丈夫かと?
ええ、息子がコロナ感染で、
濃厚接触者となった私は、出勤できず、
休暇をいただき外出自粛中です。
議会はネット中継で見ていて、
一般質問の答弁原稿の進み具合はリモートPCで見ている、
という状況です・・・
ま、私がいなくても大丈夫です。
きっと、部下は成長していることでしょう。

「地域共生社会」が言われ始めた経緯(私の解釈)

今回の一般質問で多かったのは、
不登校児童生徒の支援、地域の担い手不足対策、という、
コロナと少子高齢化の影響と思われる項目です。

「地域共生社会」が厚生労働省で提唱されてもう数年。
コロナの前からです。

戦後、個人の「自由」と「選択」が進むのと同時並行で、
少子高齢化と、若者の都会への集中が進み、
「伝統」「しがらみ」「役割」「地縁」「血縁」に支えられた、
地方の家族を基本とした共生社会がなくなり、
誰もケアしない人が出てきて、
国や自治体でケアしなければならなくなり、
介護保険制度をつくってしのいできたけど、
やっぱり限界があって、
それをなんとかしなければと、
今の感覚を活かした、
「地域共生社会」という構造の必要性が示された、
という解釈でいます。

ちなみに。
私は、
個人の自由や選択を進めることには大賛成です。
そういう意味では自民党ではありません。笑

人は生きている限り幸せになりたいと思うものです。
そして人の幸せとは、自由のもとで選択する
ということだと思うのです。
(お?そこだけ見ると「自由民主党」やね。笑)


地域共生社会をつくらなあかん!とは言わないで

少子高齢化と生産年齢人口の減少に直面する地方は、
地域共生社会だったらいいな、
という発想になるわけです。
そこで止めて欲しいと願うのは、
「市役所が地域共生社会をつくらなあかん!」と、
市役所に強制して欲しくないのです。
市役所もその一部かもしれませんが、全部ではありません。

行政がしなければならない!となると、
それは「地域共生社会」ではなく、従来どおりです。
なにも変わりません。現状の延長です。

自治会、PTA、介護保険制度をつくったのと同じ発想です。
結局、市役所任せになってしまうのです。


どうすればいいのか。
「ありがとう」と「楽しい」があり、
すべてを受け入れる多様性、
初めての人を受け入れる受容性、
そんなコミュニティがあることが大切だと思いです。

できることから、
やってみたいことから楽しくやれる社会。


好きでやってる公園お掃除

私は公園の掃除をボランティアでやっています。
やらされているのではなく、
好きで、楽しいからやっています。

もしその対価を現金として少しでも受け取ると、
仕事になってしまいます。
そして、ああしてほしい、こうしてほしいという、
「指示」「命令」「義務」みたいなものが入ってくる。

そうじゃなく、
好きで、楽しくやってくれる人がいて、
「ありがとう」を原動力に、ただやってる。

そこには「奉仕」しているという感覚もなく、
ただ、楽しいからやっている。
誰かを支えている満足感。
自分が役立っている満足感。
それが地域共生社会づくりの原動力になるべきだと思うのです。
(甘いかな。笑)


チャレンジできる社会。
「ありがとう」がある社会。
それが地域共生社会じゃないかと思ったりするわけです。


そんな答弁になっていたらいいのにな。

どんな答弁になっているか楽しみですが、
たぶん
質問者の意図を解しない答弁になってると思います。

相変わらず、肩肘張って、
地域共生社会づくりを目指し、
市役所が頑張って取り組んで参ります!
みたいな
答弁になっているんだろうなと思います。


そっと「楽しい」を始められる仕組みについて、
どんなものがあれば、
どんなことがあればいいのか、
ずっと考えています。

皆さん、
あんまり市役所に求めすぎないでね。
市役所職員だって人口減少ですから。

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