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【ホリプロ名物マネージャーが見る”適正”】必要なのは”好き”を拡げる企画力!

今や「鉄道BIG4」として、鉄道ファンのみならず多くの人たちからの注目度の高いホリプロ・スポーツ文化部の南田裕介氏。そもそも鉄オタの南田さんがどうしてマネージャーとなったのか。「電車好き」を公言し、日本中の鉄道会社からも評価の高い南田氏の、多忙を極める仕事をしながら「好きなこと」も大事にするそのスタンスを聞く。

■就職に生きたのは「企画書」と「ポジティブな発言」

——鉄道好きであり、「鉄道BIG4」としても広く知られる南田さんがエンターテイメントの世界に入ることとなったのは、どういった経緯だったのでしょうか。
 
南田 元々はすごくミーハーで、鉄道好きと同時にアイドルも好きだったんです。そもそもは奈良県に住んでいたのですが、父親が新聞社に勤務して編集長をやっていましたし、幼少期からテレビを見ることも好きで、母が好きだったこともあってラジオもよく聴いていました。公開イベントなどにも連れていってもらっていたので、メディアと触れる機会は多かったです。やがて高校生の頃にアイドルを好きになって、大学生になってからはサイン会などにも行くようになりました。ちなみに生まれて初めて行ったサイン会は佐藤仁美でした。当時の僕は静岡大学に通っていたのですが、学園ドラマが大好きで、そのころよく見ていた女優が出ていたことがきっかけで「イグアナの娘」を見ていたんです。そのドラマで佐藤仁美が演じる三上伸子がとっても良かったものですから、好きになってしまったんです。それでファンレターを送ったら、佐藤仁美のマネージャーとおぼしき人から返事が届いて。
 
——なんと!
 
南田 それがサイン会のお知らせでした。場所は書泉グランデだったのですが、そこでサインをもらい、写真も撮ったんです。そのときに佐藤仁美の隣で写真に写っていたのが
当時の津嶋チーフ(津嶋敬介氏)と橋本マネージャー(現在は退職)だったんです。それが大学生の頃でした。
 
——そこから芸能事務所への就職を考えるように?
 
南田 学園ドラマをずっと見てきて、いつしかプロデューサーという職業に憧れるようになったんです。就職活動をはじめるときには鉄道事業かエンターテイメント事業、新聞社などのマスコミを受けるかを悩みましたが、調べると鉄道事業は文系の大卒だと経営などのいわゆる総合職で、大好きな鉄道事業に必ずしも携われないとわかったんですね。それで鉄道事業は諦めて、ドラマのプロデューサーになりたかった想いもあって受けました。ホリプロへの就活では番組制作部署を希望しました。放送局も受けましたが、まるでダメでしたね。その就活で忘れられない体験がありました。
 
——それは?
 
南田 とある会社の説明会で社長の方がその場にいた50人ほどの就活生を叱ったんです。「君らはダメだ」って。クリエイティブな仕事を目指しているのに、誰一人企画書を持ってこなかったって。そこから企画書を書こうと思って、持参するようになったんです。その企画書があると、とんとん拍子に面接が進んでいきましたね。僕の出身大学である静岡大学はもちろん国立大学としては優秀ですが、静岡県内のエリートが進学してきたのですが、中には浪人して本命校に行けずに進学してくる学生も少なからずいて、まぁまぁ後ろ向きな姿勢の学生も稀にいて、僕自身は静岡大学に行きたかったからよかったのですが、その後ろ向きの性質に慣れてしまっていたこともあって、「ほかの会社の手応えはいかがですか」と面接で尋ねられて「全然決まっていないです」って言ってしまうんです。それだと余計に決まらない感じがしていたので、言い方を変えようと思って「あと2回で最終面接です」って言うようにしたら、就職面接にも残れるようになってきて(笑)。あと2回って、まだ書類通っただけなんですよ(笑)。その甲斐もあってホリプロに内定をもらいました。
 
——ドラマ制作部への希望で就職活動をされてきて、実際にホリプロに入社されてからタレントのマネージメントになった流れというと?
 
南田 4月1日に配属がきまるのですが、朝10時の入社式を前に9時半に集合して辞令を受け取るんです。僕は第一志望を当時はドラマ制作の部署だった「映像制作2部」に。第二希望を女優さんたちがいてドラマに近しい「プロダクション1部」にしていたのですが、第二希望である「プロダクション1部」が配属先でした。そこから9年、プロダクション1部、その後2年をプロダクション2部、そこから新しくできたスポーツ文化部に13年います。書泉グランデで見かけた津嶋さん率いる部署に配属となったんですよね。
 
——縁を感じますね。
 
南田 初日の仕事を終えて津嶋さんから呼び出されて「南田はドラマ制作志望と聞いたが、タレントマネージメントはタレントをプロデュースすること、ドラマ制作者が作品をプロデュースするのと同じで、どちらもプロデューサーに変わりはない。だから頑張れよ」と言われました。

■鉄オタなマネージャーとして知られた経緯とは

——当時はどんなお仕事をしていのでしょうか。
 
南田 優香の担当になりました。優香は学生だったので、学校に行っているあいだはほかの先輩マネージャーさんに着いて井森美幸さんの現場に行ったり、現場がなければ電話番やお茶汲みをして。夕方から優香との仕事に行くという日々でした。その頃はアイドル好きであることは隠していたので、津嶋さんも僕はアイドル好きであることを知らなかったのですが、良きところでカミングアウトするんです。僕は佐藤仁美が好きだったんです、と。
 
——ある種の“名物マネージャー”として知られるようになったきっかけというと?
 
南田 優香もスターへの階段を上りはじめたのですが、アイドル好きのマネージャーとして注目されるようになっていったんです。ブログの写真もありましたし、気持ち悪かったんでしょうね(笑)。「優香のマネージャーはアイドル好き」というのをはじめて「タモリ俱楽部」でやってもらいました。スタジオで握手会に行った流れを説明しました。あと佐藤仁美の出演ドラマで高知県の四万十が舞台の「海がきこえる~アイがあるから~」の聖地巡礼にも行きましたという話をしたところ「君は鉄道も好きなのかい?」とタモリさんが盛り上がったんです。タモリさんも鉄道がお好きですから。やがて何年か後に「鉄道の企画をやるんだけど」という話をいただきました。
 
——驚くほど速い展開ですね。
 
南田 そもそもは「優香のマネージャーはアイドル好き」でしたが、翌年には豊洲のトリトンスクエアが出来たタイミングで「行くならどっち。スイーツor廃線跡in豊洲」という企画をやりました。それもホリプロアイドル軍団vs鉄オタ軍団での対決(笑)。そこでさらに盛り上がり、やがてまた企画書を書くようになるんですね。僕も。鉄道の企画が少しづつ通るようになるんです。ホリプロに以前所属していた豊岡真澄のカレンダーが出るときにイベント計画の企画書をいくつか書いたのですが、そのなかの一つ「都電荒川線でサイン会」を見た上司が「これは面白いからやろう」って言うんですね。「電車のことを企画書にしたらやってもらえるのか」と思って、「タモリ俱楽部」に企画書を書いて持っていきました。
 
——行動が直結していますね。
 
南田 受け取った番組プロデューサーに「これはダメだけど、一応会議にかけてみるよ」って言われて、数週間後に「タモリさん、スタッフ含め、この企画をやってみようってなったから?」って呼ばれたんですね。その最初の企画が「埼京線ダービー」って、埼京線のなにがくるか当てる回でした。そのころにはもう優香はビッグスターでしたから僕の担当ではなく、豊岡真澄をやらなければいけなかったので、彼女を鉄道好きにしようと思って、いろいろな媒体に出演させていたので、この「埼京線ダービー」にも出演させました。その「埼京線ダービー」がめちゃくちゃ盛り上がりまして。当初1OA分予定だったんですけど、面白いので2週に分けて放送することになったんです。これは嬉しかったですし、企画書制作に熱がより入りました。豊岡真澄も鉄道関係の仕事が増えましたし、結構売り上げが出たんです。
 
——最近では「鉄道BIG4」として広く知られるようになった昨今ですが、ご自身のお仕事の内容に変化はありましたか?
 
南田 最初は鉄道の仕事を取りながら、そこに担当するタレントの出演もお願いしていたのですが、中川家礼二さんとの出会いは大きかったですね。「鉄道BIG4」をゴールデンタイムでやるとは思っていなかったですね。そこから全国に行くようになり、いろんな鉄道会社さんと知り合い、鉄道会社さんからお仕事が来るようになって。プロダクション1部は現場が中心ですが、スポーツ文化部は現場についてはお任せで、セールス中心なので基本的に土日はカレンダー通りに休みなので、その休みを使ってイベントに出演しています。

■南田の思う「マネージャーに必要なもの」

——そんな南田さんからこれからマネージャーになろう、という方に向けて「これが必要だ」と思うスキルを教えてください。
 
南田 マネージャーとして必要だ、というよりも「好きなものを企画に出来る」人が強いと思います。あれやりたい、これやりたいと公私混同での発想が出来る人。ただの公私混同ではいけないですが、企画としてニーズに合うものを出せる人は無敵だと思います。
 
——最初におっしゃっていたのは「マネージャーは担当するアイドルや役者をプロデュースする人」ということでした。そこで一番意識しなければいけないのはどんなことですか?
 
南田 お断りする仕事はお断りすること、ですね。やっぱり売り上げは立てなければいけないし、暇なタレントにオファーがあれば仕事を入れたくなりますが、優香のマネージャー時代に学びました。1年目のときは全ての雑誌で水着OKにしたんですけど、だんだん着せていくんです。たとえば2年目はヘアヌードを掲載している雑誌は断ろう、となったんです。3年目は「プレイボーイ」と「ヤングジャンプ」「ヤングマガジン」以外では水着を辞めたんです。そして次には水着を辞めました。水着のオファーはじゃんじゃん来ているけれど、断っていました。
 
——スケジュールを埋めたくなるけれど……
 
南田 なるけれど。スケジュールを埋めることが仕事ではないですから。断る仕事はちゃんと断る。そしてその「断る仕事」にほかの提案をするのが企業としての姿勢。そこに妹分や弟分を提案するんです。それを津嶋班で学びました。それから休むときはちゃんと休む。その代わり、忙しいときは忙しくする。
 
——それでも一線で働くことは体力的にも精神的にも辛いことはあるかと思います。それらを超える、この仕事の魅力を教えてください。
 
南田 それは毎日現場が違うことです。毎日、違う仕事をしていることです。同じ日が一日としてないんです。もちろん毎日が同じという人はいないと思いますが、一日として同じ日がない。日テレ行ってフジテレビ行ってテレ朝とか。今日は朝からフジテレビで、そのあと別のスタジオとか。あとは僕がミーハーなこともあってテレビ局に行くとテンションがアガります。お弁当も豪華ですし、そういうものが楽しいです。あとは親が元気な頃は担当しているタレントがテレビに出るのを楽しんでくれていたんです。それも嬉しかったです。当時はSNSなんてないですから「テレビに出てるのを見たよ」と連絡が来ると嬉しかったですね。
 
——たとえば優香さんのような大人気スターを担当し、その傍らで企画を作り、現場にも行き。そういった多様性ある仕事をしてきた先駆者でもあるかと思いますが、昨今のホリプロの後輩たちに対してはどのような想いがありますか?
 
南田 時代は変わったのかな、と思います。昔はメールもなければ、ギリギリFAXはあったけれど、番組のアンケートなどもタレントから直筆でもらってFAXで返信していたのですが、今はメールでできますから。楽になりましたよね。あれは本当に面倒でしたから。それからスタイリストやヘアメイクにも毎回電話をしてスケジュールを抑えていました。先方も忙しいから電話には出なかったけど、今ならメールで済む。請求書がなかなか届かない相手にもデータでもらえばいい。それから携帯が普及したことで連絡も楽になりました。昔はスケジュール表がFAXで届いたあとに「FAXしました」と電話で確認していましたから。届いているか確認して、また連絡をする。そういうものもない。楽ですよね。スケジュールの作成もスプレッドシートもあって楽になりましたし。
 
——では若い頃に「やっておけばよかったこと」を教えてください。
 
南田 一つ後悔しているのは、先輩方から言われていた「同世代の人たちと仲良くしておけ」ということを守れなかったことです。放送局の人も制作会社の人たちとも。僕は優香を担当させていただいていたおかげで、同世代よりもちょっと年が上の方たちに可愛がっていただいてきたのです。それでコロナの時期くらいから、僕を可愛がってくださっていたみなさんが昇進して管理職となり、現場を離れていった結果、現場には知らない人ばかりがいる状態になったんです。若い世代の人たちは、年長の人たちとも仲良くしつつも同じ世代の人たちと関係を培っておかないと、あとから辛くなるからね、と言いたいです。
 
——後輩へのアドバイスですね。
 
南田 同世代の人と仲良くしよう、とおそらく向こうも同じことを考えているはずですから。それから昔は「これは違う」と憤ったり理不尽に思ったりすることもたくさんあったんです。「なぜこれはやってはいけないのか」と思うようなことも社の方針で阻まれることもあるんです。でも今なら会社の見ていた未来もわかるんですよね。だから「理不尽に感じたことは、そこそこ出世すると変えられる」ので、理不尽を感じた気持ちは忘れないで欲しいです。

<編集後記>

鉄オタの甥っこの神様こと南田さんのお話を聞かせていただけるとあって、楽しみだったインタビューでした。鉄道を好きだからこそ作れる企画書、というお話は目から鱗。大切なのはビジネスとしての「公私混同」。好きだから宿る熱をプレゼンすることの重要性に改めて気づかされる時間でした。マネージャーを目指す方にはぜひ、この世界にいるからこそできることを見極めて担当される方のプロデュースを頑張っていただきたいです。
 
取材・文/えびさわなち
写真/是永日和


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