私がデザイナーになったわけ、を書いたわけ
私がデザイナーになったわけを子どもの視点から書いたので、今度は大人になった私がどうしてこれを書いたのかを補足しようと思う。
本当は少しずつ、順を追って何回かに分けて書こうと思っていたけれど、今回のnoteの応募要項にあわせて1万字、一つにまとめて書いてしまった。
やたらと長いし、しかもどんどん望みが消えていく話だし、途中でうんざりした人もいると思う。申し訳ない。このうんざりは本人にとっては何年も続いたのだから、それに免じてご容赦願いたい。
小学生のうちからいじめられたり、当時の女子の就職事情に失望したりして、見つけたのがデザイナーという職業。いろんなことがあったけど、私はこうしてデザイナーになった。
つらいことも多かったし、そのひとつひとつを克明に覚えているけれど、もう何十年も前のことだ。
学歴や性別でチャンスを逃すこともあっても、大人になってからのほうがずっと楽だった。一度「普通」という道を外れてしまうと、歩きづらいがたくさんの道がそこにはあったし、道がないところでも歩いて行けた。
デザイナーとして一人前になり、アートディレクターとして働き、独立もした。
デザイナーになった経緯を親しくなった人に話すことはあったけれど、いい歳をして今さら小中学校の成績の話だなんて、あまりかっこいい話でもないからあくまで内輪の話だ。
それでもここ数年、この話はどこかに書いておいたほうがいいんじゃないかと考えるようになった。
10年後
まだ20代だったと思う。あの18の秋からおそらく10年くらい過ぎただろうか。アートディレクターの端くれを名乗っていた私は、仕事の打ち合わせである企業を訪れた。
デザイナーというのは面白い職業で、若い女性でも大企業の偉い人と話をしたり、打ち合わせをしたりすることが当時でも普通にあった。まだまだ女性の職種が限定的な企業でも、外部の専門職として、別な扱いだったと思う。
その時は企業を紹介する内容だったので、部長自ら社内を案内してくれた。
いろいろな部署の説明を聞きながら歩いていると、ワゴンを押す女性社員とすれ違った。
「ちょうど3時のお茶の時間ですね。彼女たちの最初の仕事は全員のカップと飲み物を覚えることなんですよ」
ワゴンの上にはひとつひとつ違うカップが20以上もあっただろうか。それを全部覚えるなんて。
「すごいですね!」思わず声に出た。
その途端、ワゴンを押していた彼女がこちらを見て、ものすごい形相で私を睨んだ。一瞬のことで、部長はもちろん、他の誰も気づかなかった。その視線は私だけに向けられていた。
私はたじろぎ、打ち合わせが終わって会社に戻っても、気になって仕方がなかった。
そんなに覚えるなんてすごい、と半ば賞賛の気持ちで出た言葉だったけれど、なんであんなに怒っていたのか。怒りに満ちた目が忘れられない。
どういうことか思いつくのには少し時間がかかった。
その頃にはすっかり頭から抜けていたけれど、彼女たちのしていた仕事、あれは私がずっと恐れて、なんとか回避しようともがいていた「お茶汲み」というやつだった。
子どもの頃、違和感や拒否感を口にしても賛同を得ることは一切なかったから、他の女の子にとってはそんなに嫌なことじゃないんだろうと思っていた。
アルバイトと学校と課題で立ったまま寝てしまうような時も、駆け出しで、朝早くから終電ギリギリまで、なりふり構わず働いている間も、同世代の女性は私と違って9時5時の生活を楽しんでいるように見えた。
だから私みたいなのはやっぱり変わり者なんだ、とずっと思っていた。
でも、それは思い違いなのかもしれない。きっとあの彼女はお茶汲みが嫌いなのだ。それでも毎日毎日、女子社員だけが着る青い制服で、3時にはお茶を配って歩かなくてはいけない。それが彼女の仕事だからだ。
そんな時、カジュアルな服装で部長と話しながら歩いている、外から来た年齢も大して変わらない女性に「すごい!」と言われるなんて。悪意さえ感じたんじゃないだろうか。私がどれだけの思いを経てそこにいるかなんて知る由もないから、特権階級みたいに見えたかもしれない。
希望していた学校に行けないと告げられた時、もしかしたら私は彼女と同じ目をしていたのかもしれないと思った。私もまた無自覚に、彼女を傷つけてしまった。
私の場合、姉の存在や情報をもとに、小学生の頃から将来について考えられたし、入学が危ぶまれた専門学校へも行くことができた。でもそれがなかったら、彼女は私だったかもしれない。
そしてきっと彼女だけではなく、お茶汲みなんてしたくない女性社員は他にもたくさんいるに違いない。
私はひとりじゃなかった。そう思った。
変わってない
その日のことは強烈な記憶として残ったけれど、日々に追われて次第に思い出すことはなくなった。専門卒と言ってもほぼ高卒の女性デザイナーに余裕なんてない。常に目の前のことと戦っていなければならなかった。
独立した後は、女性デザイナーが珍しいということもあり(今はちょっと違うと思うが)、女性向けのデザインを依頼されることが前にも増して多くなった。自然と、クライアントも関わる人も女性が多くなった。
年月も経ち、世の中はだいぶ、女性にとって働きやすい、生きやすい方へ変わってきているんだと思っていた。女子でも普通に大学進学しているみたいで喜ばしい。
見ていると子どもはだいたい2人くらいまでみたいだから、例えてみれば3番目の私が生まれてこない世界線。私が生まれてこないような世界でも、女子でも望んだ教育を受けられるならそれはそれでいいんだろう。もう昔とは違うのだ。
だからこのニュースは衝撃だった。調べてみると2018年。
東京医科大で女子の点数を恣意的に操作して減点していたという話。
まだこんなことをしているのか、と思った。
女医の就労状況など、現実的な事情はあるようだけれど、問題を放っておいてこれを容認してしてしまうのは違うだろうと思う。いったいいつまで、こんなことは続くのだろう。
こういうのを見ていると、中学で女子だけ家庭科の筆記試験があって1科目多かったのは、意図的に男子の点をよくするための操作だったのかなと思えてくる。被害妄想かもしれないけど、そうじゃなかったなんて誰が言える?
60代の貧困
それから2022年のこの記事。ノンフィクションライターの飯島裕子氏のレポート、『子がいない「中高年女性」の知られざる貧困』
65歳以上といえば、男女雇用機会均等法が施行される前に社会人になった層だ。この記事に書かれていることは、子どもの私が恐れていた未来そのものだった。
求人票で見かけた40歳定年という文字に怯え、抜け道を探して運良くここまで来たけれど、恐れていた未来から逃れられるかと問われると、残念ながらまだわからない。
定年の恐怖からは解放されても、個人事業主なんてなんの保証もないし、どんどん上がる経費やインボイスの負担で、安泰とは程遠い。
独立前に勤めていたのは、正社員でも深夜まで働いても残業代がない会社も多く、各種手当や厚生年金も期待できず、この記事で非正規とされている条件とさして変わらなかった。厚生年金に加入しているような会社も少なかったから、将来の年金だって高が知れている。
もちろん自分で対策はしているけど、今でも綱渡りの心境だ。彼女たちは少し上の世代だし、置かれている状況も違うけれど、それでも他人事とは思えない。
記事中に“貧困にあえぐ中高年単身女性は存在しないかのごとく扱われていると感じる”とある。
そもそも貧困にあえいでいなくても65歳以上はデジタル世代ではない。発信をしている人は少ないだろうし、貧困であれば尚更だろう。今の時代、ネット上にないものはないかのように扱われがちだ。デザインや広告の仕事をしているからよくわかる。そういう理由もあるんじゃないだろうか。
SNSなどを見ていると、中高年以上は(今の若い世代と違って)恵まれているとされることが多いけど(実際そういう部分も多いだろう)、そこから外れた人たちの存在はあまり見えてこない。たとえ経済的には恵まれているとしても、それが女性なら、何かを諦めた結果かもしれない。どうにか折り合いをつけていれば、今の自分を否定することになりかねないし、蒸し返すこともないだろう。
私のことはほんの1事例ではあるけれど、書いてネット上の片隅に置いておくことはなにかの意味があるかもしれない。
親ガチャ的な観点
誤解されるといけないので、家族のことを書いておく。
7人家族の大所帯だったので、教育費は集中投下だったわけだけど、家族には恵まれたと思っている。
「デザイナーになったわけ」で父が家具職人でなかったら、と書いたけれど、家具職人だった父を本当は私は誇りに思っている。母も洋裁を職業にしていたくらいだから、私の手先の器用さは、このふたりからの贈り物だ。
暴力もなかったし、モラハラのようなこともなかった。お金はなかったけど、本はたくさんあって、遊びも自分たちで作ったりして、そういう面では豊かだった。
贈り物といえば、きょうだいたちもそうだろう。
子どもの頃は、大好きだった絵本「シナの五にんきょうだい」(販売中止になってしまったけれど)に出てくるきょうだいのように、私たちはそれぞれ得意分野、スーパーパワーがあると思っていた。今では頻繁なやりとりもないけれど、皆、頼りになる存在で自慢のきょうだいだ。
18の時、バッドニュースを持ってきた兄も、責任を感じていたのかもしれない。その後ヨーロッパから帰って面接に落ちまくっていた私に、就職先を紹介してくれた。あの時どこかに潜り込めなかったら今の私はない。今でもなにかとサポートしてくれる。
親が教育に無関心だったかというとそんなことも決してなく、どこかで安いチケットを入手して、バレエやオーケストラの演奏にも連れて行ってくれたし、小さな頃から近所の習字の先生のところへ習いに行かせてくれた(きょうだいが多いので特別に月謝1,000円で見てくれていた)。そこの娘さんが琴の先生だったので、ついでに教えてもらったりした。だから私は小学生の頃、さくらさくらを琴で弾けた。
中学2年の時、進研ゼミをやってみたいと言ったら、1〜2科目やらせてくれた。勉強というより、問題を解いて送ると採点されて返ってくるというのが楽しかった。今も続けている通信教育での学び(私は今、通信制の大学で学んでいる)の原点かもしれない。
可能な限りで、できるだけのことはしてくれていたのだ。
それでも私は勉強することを諦め、抜け道を探すしかなかった。これは家族のせいでも、もちろん私のせいでもない。
子どもがたくさんいた時代なら、私のような者ははじかれてしまってもいいのかもしれない。でも、今はそんなこと言ってられないんじゃないだろうか。そんなことを思ったりする。
古傷
たくさんのことを思いながら、なんとか書き上げた。
もう忘れたと思っていたのに、書いていると、少し過呼吸になったりするくだりもあり、傷が癒えきっていないのに気がついた。
この古傷も私の今を作った要素だけれど、指輪物語のフロドが受けた傷のように、たぶんこれからも完全に癒えることはないんだろう。
こんな話、やはり投稿するのはやめてしまおうかと迷ったが、思い直して出すことにした。
楽しい話ではないけれど、希望を何度も失いかけた私でもなんとかここまでやってきた。1事例ではあるけれど、もしかしたら、誰かがいつの日かこれを読んで、あとひと踏ん張りしてくれるかもしれない。道はないと思っていても、意外と他にも道はあるのだ。
いろんな時の、いろんな気持ちが押し寄せてきて取り留めがなくなってしまったが、これが私が「デザイナーになったわけ」を書いた理由のいくつかだ。