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20年後を妄想してみた
電車に乗ると、光る板を叩く人々に囲まれる。わたしもそのうちの1人だが、20年前には想像できなかった光景だ。
松浦亜弥やモーニング娘。にはガラケーが似合うし、広末涼子がポケベルのCMに出ていたそうだ。
心配そうにスマートフォンを握りしめ、電話をかけるK-POPアイドルのMV。20年後に見直したら、脳内に迸る懐かしさを感じるのだろうか。「あの頃、スマホだったよね〜〜!」と。
テクノロジーは信じられない速度で進化する。今でこそ人々は物理デバイスを指先でシバいているが、20年も経てばそれすらも必要なくなるのかもしれない。
例えば、航空機のHUD(ヘッドアップディスプレイ)のように、視界に直接時刻や天気、SNSや動画などの情報が浮かび上がる世界。現存のHUDと違い、投影用ディスプレイが不要になる。「時計を見たい」と意図するだけで脳波を読み取り、時刻が浮かび上がる。誰かに連絡したければ、その人を思い浮かべてメッセージを考え、「送信」と念ずるだけで相手に届く。その様子は、本人にしか知覚できない。
その仕組みは、体内に小型装置を埋め込むことで実現される。「20年前の感覚で言えば」コンタクトレンズを買うくらいの手軽さで体内に最新技術を導入できる。なぜこんな言い回しになるかというと、この「脳内(に直接働きかける)デバイス」と呼ばれているものは、視覚に直接作用する特性を活かして視力を矯正するため、メガネやコンタクトから人々を解放したからだ。
まるでSF映画の世界だけど、こうして物理デバイスが廃れた未来が来るかもしれない。
もしそんな未来が来たとして、わたしはそれを活用するかな?と考えた。
仮に20年後だとしたらわたしは50を超える。たぶんまだ働いていて、若手達がこぞって「脳内デバイス」を愛用していることを知っている。街の広告、メディア、インターネット、あらゆるところで導入しませんか?と喧伝されている。
「○○さん、まだ取り入れてないんですか、便利ですよ〜」
老眼鏡を外しながら目を瞬いていると、令和生まれの部下にそんな声をかけられる。業務中「脳デバ」の私的利用は禁止されているが、正直監視する仕組みが追いついていない。これで部下がやらかして、管理不足を問われて自分が懲戒を食らったらイヤだなあと思いつつ、何もできない現状がもどかしい。
脳デバの業務利用も盛んに議論されているが、体内に小型装置を埋め込むという技術的特性により、人権尊重の観点から全社員に埋め込みを強制することはできないと判断され、結局物理デバイスが現役だ。子どもへの脳デバ埋め込みについては政治思想と同じくらい定番の炎上ネタだし、埋め込みを拒否した社員を解雇したIT企業が、「職業選択の自由」に反すると提訴された、というニュースが世間を賑わせている。
脳デバか。帰宅しながら考える。わたしは未だ、古めかしいスマートフォンを叩きながら「これから帰るよ」とメッセージを送る。周りを見渡してもスマホをいじる人間はほとんどおらず、いたとしても時代遅れな雰囲気を漂わせた中高年ばっかりだ。わたしもそんな風に見られているんだろうなぁ。
しかし、脳デバの導入には踏み切れない。物理デバイスは情報を物理的に遮断できるけど、脳デバはそうもいかない。もちろん、メーカーは、必要時以外は情報を表示させず、「クリアな視界」で暮らせるし、健康被害や不具合が起こらぬよう、法的基準よりも厳しく何重にも安全策をかけていると言うけれど。
わたしが30代の頃でさえ、インターネットと情報デバイスの普及により、毎日のように人間の脳は処理能力を超える情報量にさらされ、精神に悪影響をきたしていると言われていた。それが今や、体内に直接情報が流入する時代だ。万が一遮断できなくなったら、膨大な情報を処理しきれず発狂するんじゃないか。何らかのカタチで脳デバを乗っ取られ、操られたとしたら……自分が自分でなくなるのではないか。底知れぬ恐怖を感じる。飲み会でそんな話をしたら、中堅クラスの部下から「陰謀論ですよ」と一蹴された。
スマホが震えた。通知の文字がボヤける。グッと腕を伸ばして「ブリ買ってきて!」と読み取る。若い頃はメガネいらずを自慢していたのに……。買い物をして帰り、台所に立って手早く調理。香ばしい香りが広がると、猫2匹がうろちょろしだし、閉め切られていた書斎が開いて家が一気に騒がしくなる。
つややかな白米にブリの照り焼き、野菜がどっさり入った豚汁。20年来、作り方は変えていない。
「おいしいね」と微笑む顔は、出会った頃より年季が入っているけれど、心が落ち着く優しさに溢れている。
脳デバを入れればその姿を、よりはっきりと認識できるようになるだろう。でも、その姿は果たして「自分の目で見た」と言えるのだろうか。「レンズを目にはめるか、脳にはめるかの違いだけ」という人もいるけれど、外側から道具を使って視力を矯正するのと、脳、すなわち感覚そのものを補正するのとでは、全く違うような気がするのだ。後者によって得た視界は、なんだか自分のものではないような気がしてならない。こんなことを口にしたら「時代遅れ」「化石」と蔑まれる時代だが、眼前のひとはそんなわたしをゆるやかに受け止めてくれている。
わたしはこの平凡で愛おしい日常を、自分自身の目で、感覚で、心で味わっていたい。なんて言ったらカッコつけすぎだけど、この感情は他に何も介入させたくない。50年来のオンボロカメラだとしても、自己のものとして味わっていたいのだ。
ただ、五感のうちいずれかひとつが、完全に失われたとしたら。その時わたしは、愛するものたちを何も認識できなくなるよりは、テクノロジーのチカラを借りて、命が尽きるその寸前まで、それらを少しでも感じ取ろうとするかもしれない。
それまでは、もう少し粘ってみてもいいと思っている。