愛されるダンス〜新人Hソケリッサ!について
この冬から大規模なツアーを敢行する、新人Hソケリッサ!の魅力を勝手に語ります。よろしければご一読をお願いいたします!
「この『魅力』という手垢のついた言葉をもう一度、思いだして欲しい。いくらよく考えられた概念にもとづき、いくら巧みに作られていても、文句なしに人をひきつける力を欠いた表現は、芸術とは言えないのだ。その魅力とは、人々を生きる気にさせる。これは大切なことなのだ。」
これは故・多木浩二が1993年「季刊アート・エクスプレス」にて、ウイリアム・フォーサイスを、そして当時芽生え始めていたヌーヴェルダンスについて語った言葉だ。新しい身体表現が興ろうとするその瞬間を、多木浩二は「魅力」という言葉に集約させて見せた。それから30年近く時は過ぎ、右肩は徐々に下がり、社会における分断と経済における格差が赤裸々に映るようになった。今の時代のアート界は、私小説とルポルタージュが混じり合い、やや息苦しい場所のような気がする。
振付家のアオキ裕キ率いる、路上生活者の肉体表現を目指す新人Hソケリッサ!は、2006年の活動開始から15年の時が過ぎた。だがアオキ裕キの目指すものは今も全くブレていない。それは、路上生活者の持つエネルギーと肉体に秘められた芸術性を可視化して、私たちの目の前に届けることだ。
「路上生活者の肉体の芸術性」などと言葉にすれば、コアな芸術関係者は疑問符をつけるのをためらわないだろう。これは私に、無理解は分断の種子であるということを想起させる。
路上生活者とは、何らかの事象で社会をドロップアウトしてしまった人である。ではなぜドロップアウトしてしまったのか?思うに、彼らはきっと過敏な神経の持ち主で、忍耐を強いるこの社会の約束事にうまく適応できなかったのだろう。だがそれは、私たちでは持ち得ない繊細な感性を有しているとも言える。
アオキ裕キは卓越したダンサーでありつつも、想像力と身体をしなやかに接着できる振付家である。彼らはアオキ裕キの教えるメッソドを実践することによって、知覚を皮膚の内側にトレースさせ、心の中のトリガーを外して個々の思いを外部に溢れ出させる。舞踊の鍛錬を経ていない彼らの肉体だからこそ、かえってそれがセンシティブで尊い行為のように、私の目には映るのだ。
では彼らが形成する集団とはどういったものなのか?私には彼らが、羨ましいほど自由な集団のように見える。離れたければ離れ、戻りたければ戻る。本番中も気が向いたらどこかに行ってしまう。もしかしたら集団という意識もないかもしれない。古来より舞踊芸術には、服従と恍惚が根底に流れていた。現代でも数々の犠牲を強いられる集団芸術のあり方とは、根本から違っているのだ。youtubeやインスターグラムなどで自由に自己表現ができるようになった現在、彼らのしなやかな集団性はアートを通じた新しいコミュニティーのモデルになると想像している。
新人Hソケリッサ!には、私たちにはまだ見えていない未知の力がざわざわとしている。
前出の文章の中で多木浩二は、「誰にでも愛されるダンスなんて私にはどうでもいい」と言っている。ここには、バブルが終焉し、精神性の無さに虚しさを痛感し、新しい知を探求しようとした時代性が表れている。そして現在。私は今の社会には「誰にでも愛されるダンス」が必要だと思う。そして新人Hソケリッサ!は、誰にでも愛される可能性を秘めていると思う。
彼らの踊る姿を見つめながら、ささやかな生きる喜びを見つけたいと思っている。
2021/11/13