日記 7/1(水)

この日記ををここに残すことに価値があるかと言えば、きっと己にしか価値のないものだろう。ではなぜわざわざ残すかと問われれば、ちんけな承認欲求に過ぎない。数多体験したことのないような人数が見て、認めてくれれば全く天国が見れるに違いない。恥ずかしくて消す未来もあるかもしれないが。

一つ。歳を重ねるにつれ幸せを認められなくなった。正確にそう言えるわけではなく、明日の私が同じことを思っているかは全く判断しかねる。今日機嫌が悪いだけなのかもしれない。しかし、やはり経験を積み多くの感情を募らせた数だけ、人の幸せとは妬ましい。幸せな学生生活を送り、順風満帆な人生を歩んでいる者に羨望も憧憬も感じる。なにせ自分が真っ当とは言い難い、言えるはずもない人生を歩んでいるから。

ひねくれた人間が他人の幸せを認められないのは、自分の人生に満足していないという言葉を見かけた。全くその通り。言い返せない。だがそれでも妬ましいものは妬ましく、嫌いなものはやっぱり嫌いだ。どうせならそんな人間に絶望を見せたいし、心の奥底からの憎しみを味わって欲しい。平和に生きたいのならそんなもの捨てればいいのに、酷い矛盾だ。

二つ。政治というものへの不信感。都知事選挙が行われている今、都民でなくとも嫌でも目に飛び込んでくる。もちろん某議員をフォローしているのも原因は大きい。政治を論ずるのはただの火種でしかないのだろうけど、どうしても不快感の積もるものだ。自殺を盾にきた宗教家も、下ネタを連発する議員も、肌を露出した女性も、表現の自由と言えばそうなのだろう。それはやはり容認すべき出来事で、保護されるべき人権をもつ人物たちだ。たとえ個人が不快に思っても、侵害されるべきではない。かと言え純粋に言えば気持ち悪くてたまらない。先ほども述べた通り、私は都民ではなく、もっといえば選挙権など持ってもいないのだから文句をいう権利もないかもしれない。ただ大人というものに不信感と失望ぐらい抱いてもいいだろう。

政治といえば、もう一つ。政治家とはただの宗教家なのかと疑問に思う。先ほどの紹介例は正直私情が入りまくりで、少しばかり侮辱を含んでいる。その物言いに腹が立った。誰とは言っていないのだからどうか許してほしい。

さて、話がずれてしまったが宗教家の話。この流行病が横行する今、大衆が集まり演説を聞く。もちろん、宣言解除によって人々の気が緩み集まることに飢えている、というのもある。まあ正直リモートなりなんなりで出来なくはないと思うが、問題はそこじゃない。いや関係はある。とあるツイートでイベントができないのにこの人数では密ではないかと指摘があった。道理だと思う。少しばかり画像を拝見させていただた身ではあるが、パーソナルスペースぎりぎりに人がいる。これを密と言わずしてなんと言おうか。君たちは第二波という言葉を知らないのか。スペイン風邪から何を学んだ。

ここまでならただの考えなし、馬鹿者の話だ。問題はこのツイートに対して、政治関連ならば許されると反論があったことだろう。そんなわけがあるか。そんなコメントが添えられていた。政治だろうがなんだろうが人命を優先するのはおかしいのか?その様があまりにも狂信者のようで背筋が凍った。これは演説が大声で、威圧的に叫ぶようなものだから起こるのではないか。確証はないが、悪名高き独裁者のヒトラーは似たような演説方法を使っている。

三つ。感想屋さんのお話。これを初めて見たとき、本当に内容が全く理解できなかった。どこに需要があるかも分からないし、なにをしたいのかも全く分からなかった。けれど、その人のツイートをたどる度、きっとこの人はいいことをと思いついて始めて、悪意など微塵もなさそうだった。善人だった。2度、3度、もっと内容を読み返した。理解できる部分が少しずつ浮き上がる。確かに良い案だと言える部分もあって、商売になるかどうかは置いておけば趣味としていいのかもしれない。

ただ一つ許せない部分があった。感想屋に己の代わりに感想を委託することだ。私が許せないのだ。他はどうだか知りもしない。これはいったい何をしているのか分かっているのか。君の感じた熱量は萌えは感情は他者が同様に感じられるものじゃない。作家もやはりそんなことを望んではいない。一個人の感想をいうのならば、どれだけ短く拙く目に余る文章だったとしても、「面白かった」「好きだ」と一言でも、純粋な感情が欲しい。文章が書けないことを恥じないで。私は私のことが好きな人間と関わりたい。

以上。

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