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極東のトルコ帽始末(3)極東のあかい帽子

 トルコ帽はトルコ語ではフェスという。着用が広がったのはオスマン帝国時代、それも近代以降である。19世紀前半からのオスマン帝国の政治経済・行政・軍事の近代化に伴って、導入・着用が進んだとも言われている。中東のみならず、バルカン半島や、南アジア・東南アジアでも、色や形が少し違うものの、似たような帽子が流行し、やがてヨーロッパ世界ではオリエンタルなもの、エキゾチックなものの象徴と見なされるようになった。ヨーロッパ人のファッションとして取り入れられることもあり、例えばイギリスでは、男性たちが喫煙時にかぶる「スモーキング・キャップ」として、トルコ帽型の帽子が使われたりした。

 日本人とトルコ帽の出会いには、いくつかの場面が考えられる。
 第一に、外国でトルコ帽を見たというケースだ。明治時代以降、オスマン帝国やイランなど、中東地域を訪問する日本人がいたし、洋行、すなわち日本からヨーロッパをめざす場合は、船で東南アジア、南アジア、中東を通るのが主要なルートだった。その途中でトルコ帽をかぶった人に出会うことがあったろう。

 特にエジプトでは、19世紀以来、トルコ帽が近代化の一つの象徴だった。中でも「トルコ帽+背広」の組み合わせは、西洋文化にも心を開いている、いわゆる「世俗的」で新しいタイプの知識人や近代的エリート層の記号となっていた。自分たちはターバンをかぶっているような宗教的保守派とは違うんだよ、という意思表示である。ということで、スエズ運河やカイロを通過する日本人が、もし現地のエジプト人と会話する機会があったなら、相手はトルコ帽姿だった可能性が高い。

 あとはヨーロッパで、トルコ帽姿の中東の人を見かけた、あるいは、異国趣味でトルコ帽をかぶっているヨーロッパ人を見た、ということもあるだろう。
 寺田寅彦、徳冨蘆花、小出楢重、永井荷風、宮本百合子の手紙や旅行記を読むと、彼らが中東や欧州の各地でトルコ帽を目撃していたのがわかって面白い。(ちなみにトルコ帽は洋行の土産物でもあったらしい。新宿中村屋のHPを見ると、1928(昭和3)年、創業者の相馬愛蔵が欧州に視察旅行の行った際の、土産物のトルコ帽をかぶる少年店員の写真が掲載されている)

 第二に、日本で、外国人がかぶっているのを見た、あるいは、外国からの情報(ニュース、本や雑誌、映画など)を見て知ったというケースだ。
 開港以来、日本を訪れた、あるいは日本に居住したアジア人の中にはトルコ帽姿の人ももちろんいただろう。有名なところではタタール人のイスラーム学者で、代々木の東京回教学院モスクのイマームとなったアブデュルレシト・イブラヒム(1857~1944)もその一人だ。

 日本で封切られた外国映画にトルコ帽が出てくることもある。例えば、少し時代は下るが、1933年に封切られたアメリカ映画「ミイラ再生」(1932年)だ。古代エジプトの神官イムホテップのミイラが20世紀に復活するのだが、これがなぜかトルコ帽姿なのである。(数千年の時を超えて蘇ったミイラが、いきなりエジプト近代化の象徴的アイテムをピックアップして身につけているのが味わい深い)

 このようにして明治以降、トルコ帽の認知度は高まっていったと考えられ、日本国内での製造も始まった。ただし、当時の成人男性一般に流行したわけではないので、子ども用か、輸出用であったと考えられる。かぶりものとしてトルコ帽を選択するというのは、やはりある種の「変わり者」だったのだ。

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 では、その「変わり者」たちの心情はどうだったのだろうか。もう少し考えてみたい。
 まず考えられるのは、アジア・アフリカ世界、あるいは中東・イスラーム世界にコミットして、その気持ちの発露としてトルコ帽をかぶったという文脈である。1886(明治19)年にオスマン帝国の首都イスタンブルでトルコ帽姿の写真を撮った小説家の柴四朗(1853~1922)、1892(明治25)年にエルトゥールル号の義援金をもってイスタンブルを訪れ、日本・トルコ交流の中心的人物となった山田寅次郎(1866~1957、オスマン帝国で撮影したと思われるトルコ帽姿の写真が多数ある)、1909(明治42)年にマッカで、「紋付羽織袴+トルコ帽」姿でフサイン・イブン・アリーに会見した山岡光太郎(1880~1959)がこれにあたるだろう。

 しかし、文明開化、脱亜入欧、帝国主義の道を進んでいた当時の日本の「洋行」者、すなわちヨーロッパ留学者の場合、アジア・アフリカの人々にシンパシーを抱いて、自らもトルコ帽をかぶったとは考えにくい。多くはやはり、ヨーロッパ人のエキゾチズムを模倣したということなのではないだろうか。(1)の記事で見たヨーロッパ留学経験のある洋画家などはこのタイプ、すなわち、自分たちを無意識にヨーロッパ人になぞらえて、彼らのオリエンタリズムを追体験したのだとも考えられる。
 やがてそうした人々が日本に持ち帰ったトルコ帽が、最先端のファッションと見なされて、文士など、「ちょっととんがった感性」の人々に受け入れられていったのだろう。

 そしてもう一つ重要なのが、(2)の記事の最後に少しだけ言及したアナーキストたちの流れである。当時のアナーキストたちの間では、「赤いトルコ帽+筒袖の和服」スタイルがはやっていたという (秋山清「やさしきテロリスト・村木源次郎」(『歴史と人物』2-12(1972))。堺利彦の回想録によれば、その元となったのは、大杉栄がバクーニン(1814~1876)の真似をしていたことだったらしい。(『中央公論』46(6)(1931)。そもそもバクーニンがなぜトルコ帽をかぶっていたのかはわからなかったが、1868年に撮影されたバクーニンの写真で、トルコ帽姿のものがある) 後年、アナーキストの河本乾次(1898~1982)は当時の大杉のことをこんな風に回想している。

大杉は、当時においてたしかに形破りの男であった。演説会に、トルコ帽子を被ったまま演壇に登り、愛用のマドロスパイプでタバコをぷかぷか吹かしながら聴衆に喋り出すふるまいは、彼でなければやれない演技であった。(『イオム』(3)、1973)

 大杉はアナーキストたちの人気者だったので、こういった服装や仕草が「かっこいい」ととらえられ、周囲に伝播していったことは十分に考えられる。
 
 以上、「アジア・アフリカ世界へのコミット」「洋行とエキゾチズム」「アナーキズム」といった文脈が考えられるが、それらが一人の人間の中で複雑に組み合わさっていた可能性もある。例えば、1913年(大正2年)に京都でパンの店「進々堂」を開いた続木斉(1881~1934)は、新宿中村屋でバイトをし、大杉栄との交流をもち、店を開いた後にフランス留学を果たし、帰国後はエジプトから持ち帰ったトルコ帽をかぶっていたという。若い頃は詩作に励み、また研究熱心で学者肌のところもあり、周囲からは「変人」と呼ばれていたらしい(進々堂HP)。

  トルコ帽は、まさに、明治大正時代の日本人の、アジア・アフリカ世界やヨーロッパ世界に対する、どこか素直でどこか歪んだ、きれいに整理することのできない「思い」を象徴する「あかい帽子」だったといえるだろう。

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 大正末期から昭和の初期になると、トルコ帽関連の新聞記事や文学作品はだんだんと減ってくるが、その中で「トルコ帽をかぶった強盗」の記事を見つけた。まず、1925(大正14)年4月23日付『東京朝日新聞』によると、銀座の某会社の販売部に、二人連れの泥酔したトルコ帽姿の暴漢が現れ、「俺たちはムショ帰りだ」と言って現金を奪って逃走したという。強盗をするのに赤いトルコ帽ではさすがに目立ちすぎるだろうと思うが、1929(昭和4)年1月24日付『東京朝日新聞』記事では、南葛飾郡の寺に押し入った35~6歳の強盗が「一見遊び人風」で、「黒のトルコ帽+もじり外套+覆面」姿だったとあり、こちらは黒のトルコ帽であったことがわかる。

 1925(大正14)年には治安維持法も成立していたから、目立つ帽子をかぶって外を歩いていれば警察に目をつけられた可能性がある。芹沢光治良の『人間の運命』でも、昭和の初め、名古屋で主人公がベレー帽をかぶっていただけで警察に連れ込まれるシーンがある。だんだんに外ではトルコ帽をかぶりにくい状況になっていっただろう。トルコ帽は次第にサーカスとか、カフェの店内での道化の衣装と化していった。例えば、昭和7年6月5日付『大阪朝日新聞』は、大阪のカフェー・ユニオンの経営者小堀勝蔵に裁判トラブルがあり、

大阪のカフェ界の先達者として成功した小堀氏も最近は一介のメンバー・ボーイとして五十近い身に真赤なトルコ帽と緑の服をつけた道化た姿で自ら店頭に立っていたというが、

と、おどけた「衣装」としてトルコ帽をかぶっていたことを伝えている。
 明治・大正時代、通りで、カフェーで、大学の教室で、日本の洋画家・文士、詩人・アナーキスト、その他の「選ばれし」男性たちの頭に載っていた「あかい帽子」は、戦争の足音が近づく時代の流れの中で、ゆっくりと消えていった。後はもう、黒や灰色や茶色の帽子だけが残り、やがては国民服の帽子へと、男性たちの頭は暗くくすんだ色で覆われて、敗戦を迎えることになる。

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 以上、駆け足ながら、戦前の日本のトルコ帽について調べたことを記録してみた。実はトルコ帽をかぶっていた人は予想より多く、ここに書けなかった話もある。大まかな年表を作ったので、末尾に付しておく。

 それにしても、明治・大正を舞台にした小説、芝居、映画などを作るのであれば、外を歩く男性には帽子をかぶらせなければいけないし、ちょっとキザ、あるいは変わり者のキャラクターにはぜひトルコ帽をかぶらせてあげてほしい。今回はざっくりと調べただけだったが、それでも「時代考証の難しさ」みたいなものを感じる体験となって、とても面白かった。

トルコ帽年表


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