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伯母、猪熊葉子の思い出

「あんたは運がいいよ。」おばあさんはいいました。「あんたの頭には三本金髪がはえている。あんたには妖精の血がながれているとみえるね。わたしの小屋のうしろの山にのぼるんだよ。そしてこのかんぬきのひもで、金髪をこするのさ。」

ジョーン・エイキン「王子さまの嫁さがし」(『海の王国』猪熊葉子訳、岩波書店)

 幼い頃から本が好きだったのは、書棚に伯母の本が並んでいたためかもしれない。
 子どもにとって、手に取る本の表紙に自分が実際に知っている人の名前が記されているかどうかは、大人が考えるよりずっと大きな問題なのだ。ましてそれらの本が、遠い異国のおとぎ話や冒険譚だったとしたら、どんなに嬉しくわくわくすることだろう。伯母の本は、孤独で夢見がちな少女の背中を空想の世界へと後押ししてくれる、優しくてあたたかな手だった。『おひめさまの誕生日』、『しずくの首飾り』、『マリアンヌの夢』……いったい何度、これらの本を手に取り、読んだことか。子どもは一つの物語を何度も読むのが好きなものだが、私も同じだった。そしてひそかに、それらに似たお話を作っては、自分に語りかけていた。想像の翼を広げていいのだ、かまうことはない、他ならぬ伯母のお墨付きを得ているのだから。ああ、自分にも妖精の血が流れていたら、どんな冒険に出かけるだろう。学校からの帰り道、駅から家までの二十分、一人で歩きながら私はいつもそんなことばかり考えていた。

 伯母の訳文は第一に端正で、それでいながら不思議なあたたかみとユーモアをたたえていた。子どもの頃に読んだ本の言葉づかいが、大人になってからも魂の奥深くを流れ続ける、というのはよくあることだが、私の日本語も、伯母によって作られたところが大きい。
 子どもの頃は、髪の中に金髪がないか真剣に調べて、がっかりしてため息をついていたけれど、その時はわかっていなかったのだ。そもそも素晴らしい本が読め、しかもその翻訳者が自分の伯母であるというのは、妖精の血が流れているのと同じくらい運がいいことなのだとは。
   そう、目に見えない三本の金髪が、きっと私の頭にも生えていたのだ。

☆☆☆

 私は伯母にとって、血のつながりのある唯一の姪である。そのためか、あるいは「第一子かつ長女」という境遇をともにする私に同情してくれたためか、はたまた伯母と同じ研究・教育の世界に進んだためか、理由はわからないが、伯母は私にはいつも優しかった。カトリック教徒だった伯母はよく祈る人だったが、会うたびに「いつもあなたのことを祈っているのよ」と言ってくれ、それが私には本当に嬉しかった。本や絵画、芸術の話を分かち合えるのも楽しかった。伯母は私にとって、一緒にいて心から安らげる「大人」だった。
 祈りだけでなく、何でも惜しみなく与えてくれる人だった。私が大学生になった時、はじめて海外旅行に連れて行ってくれたのも伯母だったし、「今飲んでいるハーブティーとってもおいしいのよ。あなた一箱持ってく?」「この前聴いた武満徹の歌曲のCDがとても良かったのよ。あなた聴きたければ一枚送ってあげるわよ」と、いつも何か良いものを分けてくれようとする。その姿勢は、94歳で高齢者施設に行ってからも変わらなかった。ある時、事前に面会に行くと知らせておいてから訪ねると、伯母は、私が到着するやいなや「はいこれあなたに」と袋入りのシュークリームを出してくれた。前日に施設で出たおやつを取っておいてくれたのである。私はその瞬間、実の母からは受けたことのない、そうしたあたたかな気遣いに、思わず涙が出そうになったのだった。
 広い家から施設の狭い部屋に移って、生活が一変しても、伯母は私には一度も愚痴をこぼさなかった。教育者として、自分より若い人に不満や苦しみをぶつけてはならないと考えていたのかもしれない。グルメだった伯母にとって、施設の食事に慣れるまでは大変だったろうが、それでも「ここで一番おいしいのはね、フフフおやつなのよ」といたずらっぽく言うか、「テレビのコマーシャルで食べ物が出てくると食べたくなっちゃうのよ」と言うくらいだった。「ここの食堂からは桜が見えてきれいなのよ」「お風呂が気持ちいいのよ」と、いつもこちらを気遣うような言葉を言ってくれるのがありがたく、ほんの少し切なくもあった。
 96歳の夏まではLINEでのやりとりも続いた。ヒエロニムス・ボスの絵が好きだった伯母は、自宅からボスの評伝を施設に持ってきていた。亡くなる3ヶ月前、2024年8月のLINEでは、「評伝は1000ページもあってなかなか進まないが、面白いからめげてはいない」というメッセージとともに「がんばる」というスヌーピーのスタンプが送られてきた。私はそれを見て、「おばちゃまは本当にすごいなあ」と改めて尊敬の念を強く抱いた。その時の気持ちを、昨日のことのように覚えている。

☆☆☆

 伯母の訳文は端正であたたかなものであったのだが、実は伯母は、著者のもつ義憤や皮肉、情念にも正確にアクセスしていた。それらを充分にくみ取った上で、一歩身を引いて冷静に、客観的に言語化するという作業をしていたのだと思う。なぜそう考えるかというと、伯母自身が心に怒りを抱えていた人だったからだ。母親である歌人、葛原妙子(1907〜1985)に対する怒りである。
 伯母はイギリスの小説家、ローズマリー・サトクリフ(1920〜1992)の作品を多く訳しており、自分でも「私の翻訳家としての最も優れた仕事はね、サトクリフの評伝なの」と言っていた。若い頃に歴史家になりたかった伯母が、サトクリフの歴史小説を愛したのはもちろんその通りだが、やはりサトクリフの境遇に、何か通じるものを感じたのではないかと思う。医者の多い家系、強烈な母親との密接な関係…伯母も、自らの祖父・父が医者という家系に生まれ、強烈な個性をもった母親に育てられた人だった。
 伯母は祖母の短歌の才能を認め、「あの人はギフテッドよ」と私に言っていた。しかしそれはそれとして、祖母が母親らしい愛情に欠けていたことを、恨んでいなかったわけではない。祖母に対する伯母の思いはとても複雑だった。施設に入った時、伯母は自分の部屋に祖母の写真を飾っていた。「施設の人に、お母様(葛原妙子)はきれいな方ですねって褒められたのよ」と嬉しそうに語る時もあれば、「毎朝私は妙子の写真をきっとにらみつけてやるの」と言う時もあった。「どうしておばあちゃまの写真をにらむの?」と私が聞くと、伯母は「だって、それだけのことを、あの人は私にしたのよ!」と、驚くほど大きな声で叫ぶのだった。私はその時、祖母が他界してもう40年近く経つのに、それでも伯母はまだ祖母のことを赦していないんだなあと思い、親子関係において得た心の傷の深さについて、あらためて感じ入った。
 それでも少し、感情の変化を感じる時もあった。伯母が施設に入って半年後、私は祖母の生い立ちや、生前のエピソードを記したエッセイ集『まぼろしの枇杷の葉蔭で 祖母、葛原妙子の思い出』を上梓したのだが、伯母はそれをとても喜び、執筆を応援してくれるとともに、出版後すぐに読み、よく書けたと褒めてくれた。そして、それから少し経って面会に行った時、伯母は「あの人(葛原妙子)は手先の器用な人だった」「料理は上手だった」など、ぽつりぽつりと祖母を肯定するような言葉を発したのだった。私は出版に至る一連の過程で、この執筆によって生者と死者が、和解に向けて一歩でも半歩でも近づけるといいなあと思っていたので、その瞬間、ほんの少しそれがかなったかもしれないと感じたことを覚えている。
 もちろん、親子の和解がそんなに単純でも簡単でもないことは、自分自身の経験からもわかっている。人の心の複雑な有りよう。そしてそれへの敬意ある態度とはいかなるものか。伯母の心のうちに、時に強く、時に弱く燃える炎を見ながら、私は人生の大切なテーマについて考えさせられたのだった。

☆☆☆

 伯母は2024年11月19日に96歳で他界した。
 亡くなる一月前、最後に来たLINEでは、胃腸の調子が悪いとあった。しかし私はそれほど重篤な状況とは思わず、冬休みになったら面会に行こうとのんびり考えていた。正直なところ、伯母は元気に100歳を迎える、そうならないはずがない、と思い込んでいたのだ。11月に入り、急激に体調を崩し、そのまま他界するなど、全く考えてもみなかった。最後に見舞いに行けなかったことが、苦い味わいとして今でも胸のうちにある。
 伯母は晴れ女だったので、火葬の日も、寒かったが澄み渡る青空が美しい日となった。棺に納められた伯母は、96歳とは全く思えないきれいな顔で、穏やかに横たわっている様は、まるで眠っているかのようだった。
 骨揚げの後、そのまま墓地に納骨することになった。従兄弟が車を運転している間、私は後部座席で骨壺の入った木箱を抱いていた。あの身体が大きかった伯母が、小さな骨壺に入って、今、私の膝の上にいる、ということが何ともいえず不思議だった。
 墓地には特に墓石もなく、地下の納骨堂の棚の上に骨壺を安置するだけの、ごく簡単な納骨式がとりおこなわれた。22年前に亡くなった伯父の骨壺の隣に、木箱から出した伯母の骨壺をそっと置く。初冬のひんやりとした空気に満たされた納骨堂で、たった今焼いたばかりの骨が納められた伯母の骨壺は、手を触れるとまだほんのり、あたたかかった。

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