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ヘダーヤトとともにイスファハーンを歩く(1)

 (先日、イラン映画「君は行く先を知らない」を見てきた。とある一家が、車でテヘランから旅をする様子を描いたロードムービーである。旅の理由と行く先が、家族の会話によって少しずつ明かされていく。
 見ながら、2015年8月にイランのイスファハーン(エスファハーン)を訪れた時のことを思い出した。映画中の一家の行く先はイスファハーンではなかったが、イランの高速道路やサービスエリアの雰囲気が懐かしくなってしまい、映画館から帰宅すると、その時の手記を引っ張り出し、久しぶりに読み返してしまった。イランの文豪、サーデグ・ヘダーヤトの文章のコピーを手に、イスファハーンの街を歩き回った時の思い出を綴ったものだ)

☆☆☆ 

 旅行記を読むのが好きだ。まだ行ったことのない土地に思いを馳せながら読むのも、訪れた街の思い出に浸りながら読むのも楽しいが、優れた旅行記を手に持って、ページを繰りながら舞台となる土地を旅するのは、なかなかに人生の喜びの一つではないかという気がする。
 イランに出発する数日前、友人でもありペルシャ語の師でもある中村菜穂さんから、イランの文筆家サーデグ・ヘダーヤト(1903~51)の旅行記「エスファハーンは世界の半分」(中村公則訳)が届けられた。これは大変に含蓄に富んだ随筆で、私はイスファハーン訪問中、ずっとそのコピーを小脇に抱え、名所名所でページを開き、あるいは黙読し、あるいは朗読した。それはあたかも大作家が私のためだけのガイドとなって、耳元でひそひそと見所をささやいてくれているような感じであった。この旅行記が書かれたのは1932年だが、それから80年の時を経て、極東から来た旅人の心に直接注ぎ込まれる導きの書となったのだ。
 というわけでイスファハーンを満喫した私は、ヘダーヤトにならって自分も小文をしたためてみたくなった。もちろんヘダーヤトの感性と知識には及ぶべくもなく、何といってもペルシャ語が出来ない私には、何か特別なことが書けるわけでもないが、それでも素晴らしい体験をさせてくれたヘダーヤトと、私を彼に結びつけてくれた中村菜穂さんへの感謝をこめて、2日間の旅行の様子をここに綴りたいと思う。

テヘランからイスファハーンへ

 車の出発まで6時間も待たされたヘダーヤトと異なり、私たち(夫と私)はテヘランの南バスターミナルに到着して10分後にはもう「車中の人」となっていた。座席が広くゆったりとした、いわゆる「VIPバス」である。別に奮発しようとしたわけではなく、バスターミナルの門前で待ち構えていたハイエナのようなバス会社の客引きにつかまり、あれよあれよという間にブースに連れて行かれてチケット(一人27万リアル)を買わされたのであった。
 午前8時半出発。テヘランからイスファハーンまで、450キロ、6時間の旅の始まりである。
 バスは一列3席の作りで、ヘダーヤトの道連れは「美髯猪首の拝火教徒氏」だったが、私たちの隣は、スマホでひっきりなしに音楽と着信音を鳴らし続けるTシャツ、ジーンズ姿の少年であった。

 しばらく走ってテヘラン市内を抜けると、車窓から見える景色は基本的に砂漠(土漠)と岩山となった。丈の低い草や灌木が生えている所もあるが、ほとんどは枯れて茶色に変色し、強い真夏の日射しにじっと堪えている風情である。荒涼とした風景が延々と続くと、目が自動的に「生きているもの」を探すようになる。人を探したり、人の痕跡を探したりする。
 そして実際に、人は、いるのだ。たまに木や巨大な看板があったりすると、その蔭で車を停めて、ドライブの疲れを癒やしている人たちがいる。大地に額ずいて祈っている人がいる。と思うと、炎天下の高速道路を走っている人もいた。これはおそらく車が故障して、どこかに助けを求めに行った帰りと思われた。
 こうした「生きている」人たちを見るたびに、心がほっとするのが感じられた。代わり映えしない景色をひたすら眺めているうちにも、精神は緊張と弛緩を繰り返すのだな、と気づいた。
 デリージャーンを過ぎたあたりから、ヘダーヤトの書いている通り、向こうの山が色とりどりになって来る。菫色、紺青色、瑠璃色、萌黄色、濃茶色、鶸色、辰砂色。まさに「秘密の言葉を以て人間に語りかけているかのよう(p.9)」という表現がふさわしい美しさだった。複雑に削り取られた岩肌の造形も神秘的だ。遠目には神が自らの指で聖なる章句を山に掘っているように見えた。と思ったら、本当に山肌に巨大なアラビア文字が刻まれていることもあって、これはホテルの宣伝であり、いささか興ざめであった。

 高速バスだが、人の入れ替えが結構ある。途中、都市の近くを通過すると、バスがすうっと速度を落とし、とてもエレガントに停まる。何食わぬ顔して乗客が降り、新しい人が静かに乗ってくる。全体的に動きがそっとしている。とても停車場には見えないような所でも、ごく自然に乗り降りがあって、いったいどうやって時間を示し合わせているのだろう、と不思議だった。
 イスファハーンに近づくにつれ、乗ってくる女性たちの服装がだんだんに変わってくる。漱石の『三四郎』だと、熊本から京都に近づくにつれ女の肌が白くなるとあるけれど、ここでは服が黒くなる。テヘランで見た明るい色、薄い色の服はだんだんに見かけなくなり、黒いベールやチャドル率が高くなる。

 車窓の景色も変わる。少しずつ農地が増えてくる。地下水をくみ上げ、スプリンクラーで作物を育てている。まるで塗り絵のように、きっちりと区分けされた畑の中だけ緑がある。たった数時間、バスで走ってきただけなのに、それでもその緑が異常なまでにみずみずしく感じられるのだ。これが馬や徒歩で旅をしてきた人の目には、どれほどありがたいものに映っただろう。この風土においては、緑色というのがそれ自体宗教なのだと思わされた。
 途中驢馬を轢くこともタイヤがパンクすることもなく、バスは午後2時すぎにイスファハーンに到着した。予約していたホテルに荷物を置いて一休みすると、早速街の見物に出かけることにした。

エスマアイール祀堂(イマームザーデ・イスマーイール)


 到着したのが金曜日の午後だったため、通りはほとんど人影もなく、しんと静まりかえっていた。照りつける日射しが痛くて、サングラスをしていても目が開けづらいほどだ。
 まずは旅行記の中ほどに記載のある「エスマアイール祠堂」を探してみることにした。これは日本語のガイドブックには紹介がなく、地図にも載っていない。英語のガイドブックには載っているのだろうが、今回は持ってこなかったので、現在の手がかりはヘダーヤトの文章と、それに付されていた「イスファハーン市街図」なる簡便な略図だけである。「入り組んだ家々の立ち並ぶ砦のような高い塀の間を通って(p.27)」行かねばならない所らしい。
 夫と私はそれとおぼしき小路を一つ一つ当たっていった。が、ほとんどは2回ほど折れ曲がったあと袋小路になっており、がっかりして引き返す、ということの繰り返しだった。ヘダーヤトによると、東洋映画の舞台背景、あるいはフリッツ・ラングやエーリッヒ・ポマー 、すなわちドイツ表現主義映画を思い起こさせる路地らしい。実際にはヘダーヤトの時代から80年もたっていて、砦のように背の高い塀があるわけではない。建物も新しいものに変わっているのだろう。
 それでも、午後の強い日射しのもとで、中に入ったら存在ごと消されてしまいそうなほど真っ黒な影が生まれ、空間を斜めに切り取っていて、その光と影のコントラストが、一瞬にして時空を超えてしまうような不思議な感覚をもたらす。まるで白黒映画の中に入り込んでしまったかのようだ。

ドイツ表現主義小路

 ああでもない、こうでもないとさまよっているうち、どこをどう行き着いたのか、突然道に屋根が着いた…と思ったのは錯覚で、道に屋根が着いているのではなく、通り抜けできるように三方があけられている建物だった…と思ったら、一方にミフラーブがあり、「あれ?これもともとモスクなんじゃないの?」ということになった。天井は高いドームになっていて、建物自体はかなり古そうだ。慌てて一方の口を出てみると、そこが正門で、「イマームザーデ・イスマーイール」と書いてあった。

イマームザーデ・イスマーイール

 薄暗く、ひんやり、がらんとした空間。誰もいない。ミフラーブ以外の三方の口は全て道につながっていて、土地の人がごくたまに、徒歩や自転車ですうっと通り抜けていく。
 ミフラーブの向こうは中庭(テラス)になっている。おっかなびっくりテラスに出てみる。まぶしくて目が慣れない。テラスをぐるりと取り囲む形で建物があり、そのうちの一つは鍵をかけられたガラスの扉で守られていた。ガラスの向こうに、装飾を施された美しい緑色の御霊屋の部屋とおぼしきものが見える 。その前でたった一人、男性信徒が額ずいて熱心に祈りを捧げている。金曜日の午後には鍵がかかっているようだった。中には入れなかったが、ガラスごしにその美しさは十分理解できた。私たちはしばし、祈り続ける彼の後ろで立ち尽くして、見とれていた。

御霊屋の前で祈る信徒

 帰り道、自分達がどうやってこんなに複雑な道を曲がってあそこに行き着いたのか、あらためて驚いてしまった。帰国後グーグルマップで確認してみると、大通りからもっと簡単に行けるようだったけれど、でもそれはヘダーヤトの行き方ではない。今にして思うと、あれは、真夏の金曜日の午後、誰もいない「ドイツ表現主義小路」をさまよったのは夢だったのかもしれない。夫はきっとヘダーヤトの魂が導いてくれたんだろう、と笑っていた。(続く

追記:後で調べてみると、イマームザーデ・イスマーイールとは、シーア派第7代イマーム、ムーサー・カーゼムの孫の一人を祀るため、サファヴィー朝のアッバース1世からサフィー1世の時代に建造された廟と、セルジューク朝時代まで遡る古いモスクとの複合体とのことだった。

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